2026年5月22日金曜日

現代アートって、正直かなり難しい。

ネットを見ていると、「現代アートはわからない」「意味不明」「好きになれない」という意見をよく見かけます。実は僕自身も、そういう感覚に近いものがあります。

現代アートって、正直かなり難しい。
何を表現しているのか、何が描かれているのか、よくわからない作品も多いですよね。

実は僕も、以前は抽象画のような作品を作っていた時期がありました。
その時は、自分の中ではすごく面白かったんです。抽象画って、とにかく自由なんですよね。何を描いても間違いではないし、自分のイメージや感覚をそのまま形にできる。自由度が高くて、描いていて気持ちいい感覚がありました。

たとえば、水が流れ落ちるようなイメージの作品を描いたこともありました。
自分の中にはちゃんと感覚やイメージがあるんです。でも、それを他人が見たら「何これ?」となるかもしれない。意味不明に見えるかもしれない。

そこでふと、「他の人が見てわからない絵を描くことに意味はあるんだろうか?」と思うようになりました。
もちろん、アートは必ずしも説明できる必要はないし、自由なものだと思います。でも、自分の中ではその疑問が大きくなっていって、結局それ以上、抽象画を描かなくなってしまいました。

ただ、今になって思うのは、現代アートって「無理に理解しなくてもいい」のかもしれない、ということです。
わからなければ、わからないままでもいい。見る側が無理に意味を探したり、理解しようと頑張る必要はないのかもしれません。

抽象画を描いていた頃から、しばらく何を描けばいいのかわからなくなって、絵から少し離れていた時期もありました。
でも今は、女の子の絵を描いています。

結局、自分が本当に描きたかったものは、そういう絵だったのかもしれません。

遠回りしたけれど、最後は自分の原点に戻ってきた。そんな感覚があります。 

「mocha展」に行ってみようと思っています。

mochaというアーティストの展示なのですが、札幌ではこういう現代的なアート展示はかなり珍しいんですよね。たまたま今日開催していることを知って、「これは行ってみたいな」と思いました。

mochaさんの作品は、今の時代の感性にすごく合っている気がします。
映画やアニメ映画のワンシーンのような雰囲気があって、特に星空をテーマにした作品が多い印象です。やっぱり星空というモチーフは、それだけで人を惹きつける魅力がありますね。幻想的で、物語を感じさせる世界観があります。

札幌では、美術展というと古典的な作品や伝統的な展示が多い印象があります。もちろんそういう文化も大事だと思うのですが、個人的には現代的な感覚のアートの方が好みです。だから今回のような展示は、とても貴重に感じます。

作品は版画らしいのですが、価格もかなり高額とのこと。
50万円くらいする作品もあるそうで、人気作品になると70万円、もしかすると100万円近いものもあるのかもしれません。もちろん自分が購入するわけではないのですが、実際に本物を見るだけでもかなり刺激になりそうです。

東京ならこういう展示は比較的多いのかもしれませんが、札幌ではなかなか出会えません。
だからこそ、今回のmocha展はとても楽しみです。実際にどんな空気感の作品なのか、じっくり見てこようと思います。

2026年5月20日水曜日

10年ほど前、岡本太郎記念館に行ったことがある。

当時の僕は、いろいろな美術館を見て回っていた時期だった。有名な美術館を中心に巡っていて、その流れで岡本太郎にも興味を持ち、実際に足を運んでみた。

記念館の中で特に印象に残っているのは、「写真」の多さだった。

もちろん絵画や作品もたくさん展示されていたのだけれど、それ以上に白黒写真が強く記憶に残っている。カラーではなく、モノクロ写真だったと思う。現地の人々を撮影したような写真が多くて、ただ作品を展示するというより、「人間を見つめている」という雰囲気があった。

岡本太郎は絵を描くだけではなく、人や文化そのものへの興味がとても強かったのかもしれない。そんなことを、なんとなく感じた記憶がある。

そして、もう一つ強く覚えているのが、「拳骨のような腕」をモチーフにした作品群だった。

腕を振り上げたような、力強い形のアートが何点も並んでいて、それがすごく印象的だった。抽象画なのか、印象表現なのか、分類はよく分からない。でも、とにかく同じテーマに強くこだわっている感じがした。

一つや二つではなく、似たようなモチーフが何度も繰り返されていたので、「なぜここまでこの形に執着するんだろう」と思ったのを覚えている。

でも逆に、その“異常なくらいのこだわり”こそが、作家性なのかもしれない。

人はどうしても「違うものを作ろう」と考えがちだけれど、本当に強い作家は、同じテーマを何度も掘り下げていく。そんなことを、後になってから思った。

そして、その日はとにかく暑かった。

ほとんど真夏のような日差しで、記念館を見たあと、隣のカフェでジュースを飲んだ記憶が残っている。作品そのものだけではなく、暑さや空気感、歩いた道、休憩した場所――そういう感覚まで含めて、記憶というのは残るものなんだと思う。

美術館の記憶というのは、作品だけではなく、その日の空気ごと心に残っているのかもしれない。

最近、仕事について考えることがある。

以前、ある病院でとても一生懸命に働いているスタッフを見たことがあった。常に仕事に集中していて、技術にも真剣で、「職人タイプ」の人だなという印象だった。でも、不思議なことに、その人が職場で強く評価されているようには見えなかった。むしろ、上の立場の人と衝突しているようにも見えた。

その時に思った。

仕事に全力を注ぐ人ほど、必ずしも周囲から認められるわけではないのかもしれない、と。

もちろん、仕事を頑張ること自体は悪いことではない。むしろ素晴らしいことだと思う。ただ、仕事に集中しすぎる人は、周囲への気配りやコミュニケーションにエネルギーを割けなくなることがある。職人気質の人ほど、自分の作業や結果に意識が向きやすい。

一方で、少し肩の力を抜いて働いている人は、周りを見る余裕がある。人と話したり、空気を読んだり、タイミングよくフォローしたりすることができる。だから職場の人間関係もうまくいきやすい。

そして会社という場所では、「仕事ができること」だけではなく、「周囲と円滑にやれること」も大きく評価される。

さらに、常に全力で働いている人ほど疲労も溜まりやすい。疲れれば当然ミスも出る。でも周囲は、その人が普段頑張っている分、逆に少しのミスにも厳しくなったりする。

逆に、普段余裕を持って働いている人は、ここぞという場面で集中できる。精神的な余白があるからだと思う。

だからといって、「適当に仕事をした方がいい」と言いたいわけではない。ただ、仕事というのは努力量だけで評価されるわけではなく、余裕やコミュニケーション能力も含めて見られているのだと思う。

これは実際に会社の中にいると、なかなか気づきにくいことかもしれない。でも、いろいろな職場を見てきて、「頑張っている人ほど報われない場面がある」という現実は確かに存在する気がしている。

もしかすると、長く働くためには、“全力で走り続けること”よりも、“余裕を保ちながら続けること”の方が大切なのかもしれない。

UFO映像について考えること

昔は、ネットに出回っているUFO映像を見て「本物かもしれない」と思っていた。でも、自分で映像を作るようになってから、その考えは少し変わった。

実は3年ほど前、試しにUFO映像を作ったことがある。映像編集ソフトやCGを使えば、意外と簡単に“それらしい映像”が作れてしまう。しかも、SNSに公開すると、多くの人が「これは本物だ」と反応した。想像以上に注目されて驚いたのを覚えている。

その経験から、世の中に出回っている多くのUFO映像は、作られたものである可能性が高いのではないか、と考えるようになった。むしろ、はっきり鮮明に映っている映像ほど、疑って見てしまう。

逆に、本当に存在するとしたら、遠くに小さく映っている程度のものの方が、現実味があるのかもしれない。もちろん、それが本物かどうかは分からない。でも少なくとも、「鮮明だから本物」とは言えない時代になっていると思う。

ただ、だからといって、僕はUFOそのものを否定しているわけではない。

宇宙には人類よりはるかに高度な文明が存在する可能性もあるし、もしそうした存在がいるなら、人間には理解できないような技術を持っていても不思議ではない。例えば、映画に出てくるような瞬間移動や、現在の物理学では説明できない移動方法を実現していたとしても、完全には否定できない気がする。

人間の常識の範囲で「絶対に来れない」と決めつけることもできない。だから僕は、「UFOは存在する」と断言はしないけれど、「存在する可能性はある」と考えている。

そして今の時代は、映像技術が発達したからこそ、映像そのものよりも、“なぜそれを信じるのか”という人間側の心理の方が面白いのかもしれない。

2026年5月19日火曜日

BASICシミュレーターで作った「スペースインベーダー」

2022年頃、BASICシミュレーターを使って、簡単なスペースインベーダー風ゲームを作っていたことがあります。

当時はまだシミュレーターの操作にも慣れていなくて、使い方を覚えながらの制作でした。それでも、不思議なくらい作業が楽しくて、たしか5日くらいで完成した記憶があります。

プログラム自体はかなり単純なものでした。BASICらしいシンプルな構造で、今見ると技術的にすごいものではありません。でも、その時はとにかく夢中でした。
ごちゃごちゃ試しながら動かしていたら、少しずつゲームの形になっていく。その感覚がすごく面白かったんです。

当時の自分は、特に昔のゲームに強く惹かれていました。中でも、ゲーム史を代表する存在としてスペースインベーダーに特別な魅力を感じていた気がします。

「いつか自分でも作ってみたい」

そんな気持ちは、かなり前からどこかにあったんだと思います。
そこにたまたまBASICシミュレーターを手に入れたことで、「じゃあ試しに作ってみようかな」と自然に始まった感じでした。

この後もいろいろなゲームを試作しましたが、振り返ると、このスペースインベーダー制作の時が一番純粋に楽しかったかもしれません。

BASICだからこその手軽さもあって、思いついたものをすぐ形にできる。
難しいことを考える前に、とにかく作ることそのものが楽しかった時期でした。

 

2026年5月15日金曜日

耳鳴りは2年かけて改善した。僕の実体験を書きます

 今日は、僕の耳鳴りが改善した体験について書こうと思います。

結論から言うと、改善するまでに約2年かかりました。
完全に治ったわけではありません。でも、今ではほとんど気にならないレベルまで落ち着いています。

同じように耳鳴りで悩んでいる人にとって、少しでも参考になればと思います。

突然、耳鳴りが大きくなった

もともと僕には軽い耳鳴りがありました。

普段で言えば「10%くらい」の感覚です。
静かな場所で少し気になる程度で、普通に生活はできていました。

ところが2年前、突然その耳鳴りがかなり大きくなりました。

感覚としては、一気に「70%くらい」まで悪化した感じです。

かなり気になっていたんですが、すぐには病院へ行かず、2週間くらい様子を見ていました。
その後、耳鼻科を受診して薬をもらい、治療を始めました。

薬を飲み始めても、すぐには改善しなかった

薬を飲み始めた最初の頃は、正直あまり効果を感じませんでした。

最初の1か月くらいで、ピーク時よりは少しマシになった気はしたんですが、その後もしばらく耳鳴りはかなり大きいままでした。

病院でも「なかなか良くならないです」と先生に話していたのを覚えています。

それでも薬は飲み続けました。

3か月に1回くらい通院して、薬をもらっていました。

半年くらいで、少し変化を感じ始めた

はっきり「少し改善したかもしれない」と感じ始めたのは、半年くらい経った頃です。

ただ、それが薬のおかげなのか、時間経過によるものなのかは正直わかりません。

でも、悪化はしていなかったので、とにかく続けようと思って薬を飲み続けました。

その後も少しずつですが、確実に楽になっていった感覚があります。

1年半を過ぎた頃、「かなり良くなった」と感じた

1年半くらい経った頃には、さらに改善した実感がありました。

そこで、「これ以上薬を飲み続けても、大きな変化はないかもしれない」と思い始め、最終的には薬をやめました。

飲んでいた期間は、合計で1年8か月くらいだったと思います。

現在の耳鳴りは、感覚的には「20〜30%くらい」です。

完全にゼロではありません。
でも以前のように常に気になる状態ではなくなりました。

今は薬も飲んでいません。

原因は正直、はっきりわからない

耳鳴りの原因については、本当にいろいろ考えました。

ストレス、疲れ、生活習慣など、複数の要因が重なっていたと思います。

その中で、自分では「あるお風呂屋さんでのストレス」がかなり大きかったんじゃないかと感じています。

当時、少し小さめの銭湯のような場所によく行っていたんですが、そこには常連の人たちがいて、みんなすごく仲が良かったんですよね。

僕はそういう空気が少し苦手でした。

本来、お風呂ってリラックスする場所のはずなんですが、その場所では逆に気を使ってしまっていました。

「関わりたくないけど、無視するわけにもいかない」

そんな微妙なストレスが積み重なっていた気がします。

もちろん、それだけが原因とは言い切れません。
でも、今振り返ると、かなり精神的な負担になっていたと思います。

2年経って思うこと

今回の経験で実感したのは、耳鳴りは「時間をかけて改善することもある」ということです。

すぐに治らないと、不安になると思います。

僕自身、「このままずっと治らないんじゃないか」と何度も思いました。

でも実際には、少しずつ、本当に少しずつ改善していきました。

だから今つらい人も、あまり悲観しすぎなくていいのかもしれません。

薬については、「絶対に効いた」とは言えません。
ただ、少なくとも僕は、飲まないよりは飲んでよかったと思っています。

毎日3回、1年8か月ほど続けていました。

その積み重ねも、多少は意味があったんじゃないかなと思っています。

2026年5月14日木曜日

去年、作りかけで止まった「オープンワールドRPG」を見返して思ったこと

 昔のファイルを整理していたら、去年作っていたゲームのデータが出てきた。

ジャンルとしてはロールプレイングゲームで、いわゆる“オープンワールド風”の作品を目指していた。

ただ、結局は途中で開発が止まっている。
今見返すと、完成品というよりはデモ版に近い状態だった。

プレイヤーキャラクターが広いフィールドを走り回れるようになっていて、背景や地形は自動生成。
毎回ランダムに世界が作られる仕組みにしていたので、自分で大量のマップを作り込まなくても済む。そこはかなり効率的だったと思う。

「フィールド制作を自動化できれば、個人でも大きな世界を作れるんじゃないか」

そんな発想で作り始めた。

実際、ここまでなら比較的スムーズに進んだ。
もちろん苦労はしたけれど、ベースになるテンプレートを拡張しながら進めたので、半月ほどで形にはなった。

特に地形のランダム生成は色々工夫していて、動かしているだけでも雰囲気はかなり良かったと思う。

でも、本当に大変なのはその先だった。

ゲーム制作って、フィールドができた段階ではまだ“入口”なんだよね。

ここから先には、

  • 敵キャラクター

  • レベルシステム

  • 武器や装備

  • アイテム

  • バランス調整

  • ストーリー

  • 隠し要素

  • クエスト

  • 世界観の整合性

そういう膨大な要素が待っている。

例えば、

「このレベル帯ならどんな敵が出るのか」
「武器の強さをどう調整するのか」
「探索する意味をどう作るのか」

そういう細かい設計が必要になる。

しかも、それら全部が噛み合わないと、ゲームとして成立しない。

だから、「動くフィールドを作ること」と、「面白いRPGを完成させること」は、全く別の難しさなんだと思った。

個人開発で何年もかけてゲームを完成させる人がいるけれど、実際それくらいの時間が必要なんだろうなと思う。

自分の場合、一番大きかったのはやっぱり時間の問題だった。

もし十分な時間があれば、もう少し続けられたかもしれない。
でも現実的には、生活もあるし、他にやることもある。

さらに、ゲーム制作は時間だけじゃなく資金も必要になる。

仮に資金提供してくれる人がいて、「数年かけて作っていい」と言われる環境なら、挑戦してみたい気持ちはある。
でも実際には、そういう支援があるわけでもない。

しかも、完成したとして、その投資を回収できる保証もない。

そう考えると、個人で大規模RPGを作るのは、本当に難しい。

それでも、去年の自分が「ここまで作った」という事実は、今見返してみると結構面白かった。
未完成ではあるけれど、ちゃんと“世界を作ろうとしていた痕跡”が残っていたからだ。

完成しなかったとしても、あの時期に本気で作っていた経験は、無駄ではなかったと思う。


2026年5月13日水曜日

腕時計のデザインや3Dモデリング




 







以前、腕時計のデザインや3Dモデリングに夢中になっていた時期があります。
主に腕時計の外装デザインを作っていて、中には実際に製品化まで進んだものも少しだけありました。

ただ、全体として見ると、形にならなかった案の方が圧倒的に多かったですね。
ビジネスとして成功したかと言われると、正直そこまでではなかったと思います。

でも、「作っていて面白い」という感覚はかなり強かった。

腕時計って、一見すると複雑そうに見えるんですが、実際に3Dで作り始めると、基本構造にはある程度共通したパターンがあるんですよね。
ケースの形、ボタンの配置、ベルトとの接続部分など、細かな違いはあっても、大枠の構造はかなり似ています。

最初は「何がどうなっているのか」全然わからなかったんですが、一度理解すると、時計のデザインの見方が変わりました。

そこからは単純な形状というより、「全体の雰囲気」をどう作るかが重要になってくる。
高級感なのか、スポーティーさなのか、無骨さなのか。
ほんの少しのラインや厚み、ボタンの形状だけで印象が大きく変わるところが、時計デザインの面白さだったと思います。

腕時計って、機能だけで成立しているものではなく、かなり“感覚的なデザイン”の世界なんですよね。
だからこそ、細部を調整している時間がすごく楽しかった。

考えてみると、時計や車、カメラみたいなものって、昔から男性が惹かれやすいジャンルなのかもしれません。
もちろん人それぞれですが、「機能」と「デザイン」が強く結びついているプロダクトには、独特の魅力があります。

その中でも腕時計は、小さなサイズの中に世界観や高級感を凝縮できるところが面白い。
だから当時は、結果よりも「作ること自体」にかなりハマっていた気がします。

NFTアートを制作していました。

4年ほど前、NFTが大きな盛り上がりを見せていた頃、僕もNFTアートを制作していました。

当時は、正直「NFTとは何か」を深く理解していたわけではなく、とにかく夢中になって作品を作っていた感覚が強かったです。

ただ、振り返ってみると、作りたいものの方向性は最初からある程度決まっていた気がします。
それは「ポップアート風の女の子のイラスト」。

一般的なアニメ系の女の子イラストとは少し違って、もっとカラフルで、ポップで、アート寄りの雰囲気を意識していました。
日本では意外と「ポップアート風の女の子」を前面に出した作品は少なかったので、その独特なテイストが少し受け入れられたのかもしれません。

制作していた当時は、とにかく手を動かすのが楽しくて、毎日のように作品を作っていました。
今思えば、「どうすれば成功するのか」なんて全然わかっていなかったけれど、だからこそ純粋に面白かったんですよね。

あの頃のNFT界隈には、独特の熱気がありました。
「これから大きな時代が来る」という空気感があって、多くの人が未来に期待していたと思います。

今ほど冷静な市場ではなく、ある意味バブルのような状態だったのかもしれません。
でも、そのタイミングでNFTに触れられたのは、自分にとってすごく良い経験でした。

実際、僕の作品も思っていた以上に売れました。
もちろん、全く売れない人もたくさんいた世界ですが、その中では比較的反応をもらえた方だったと思います。

今振り返ると、「NFTで成功した」というより、あの熱狂の中で、自分の好きな表現を夢中で追いかけられたこと自体が、一番価値のある体験だったのかもしれません。


2026年5月11日月曜日

2022年頃、僕は女の子の絵をよく描いていた。

2022年頃、僕は女の子の絵をよく描いていた。
実写寄りというか、写真のような質感のある絵で、それをNFTアートとして出していた時期もある。

ただ、当時のNFT界隈とは、正直あまり相性が良くなかった。

NFTで強かったのは、いわゆる“キャラクター性”のある作品だった。
たとえばトレーディングカードやゲームのキャラクターのように、ひと目で認識できて、コレクションしたくなるような存在感のあるもの。イメージとしては、ポケモン的な文脈に近かった気がする。

もちろん現代アート的な作品も存在していたけれど、NFTの市場では「キャラクターとして成立していること」がかなり重要だったように思う。

その中で、僕が描いていたような実写寄りの女の子の絵は、少し方向性が違っていた。
アルバムの1ページみたいな感覚というか、物語や空気感を切り取るような作品だったので、NFT的な“トレードされるキャラクター性”とは噛み合わなかったんだと思う。

でも、自分では結構気に入っている。

最近になって、なぜ自分がこういう絵を描いていたのかを少し考えることがある。
以前、「それは慰めなんじゃないか」という話をしたこともあったけれど、当時の自分にはそういう自覚はなかった。

ただ描きたいから描いていただけで、特別な意味を持たせていたわけでもない。
面白いから描いている、という感覚に近かった。

でも今振り返ると、たぶん“慰め”のようなものも、どこかに含まれていたのかもしれない。

とはいえ、描いている最中は本当に何も考えていない。
頭の中を整理するためでもなく、誰かに理解してもらうためでもなく、ただ自然に描いていた。

結局のところ、なぜ描いていたのかは、自分でもまだよくわからない。 

「若者が働かなくなった」という話

 最近、「若い世代の生活保護受給者が増えている」というニュースを見かけた。

詳しい原因までは分からないけれど、「若者が働かなくなった」という話は以前よりよく聞く気がする。

その一方で、世の中では人手不足とも言われている。
実際、自分の家の近くでも、以前は24時間営業だった店が深夜営業をやめてしまった。おそらく人手不足の影響なんだろう。
こういう変化は、いろいろな場所で起きているように感じる。

最近は「若い人がすぐ会社を辞める」という話もよく聞く。
ただ、これは別に今に始まったことではなく、昔からある話でもあると思う。

それに、辞める人の中には「できる人」も多いと言われる。
能力がある人ほど、他の会社でもやっていける自信があるし、実際に転職先が決まって辞めるケースもある。
そういう人にとっては、「辞めること」がそこまで大きなリスクではないんだろう。

一方で、自分は「若いうちはある程度頑張ったほうがいい」とも思っている。
無理をしろ、という意味ではない。
ただ、若い時期に、自分なりの限界に近いところまでは頑張ってみる経験は大事なんじゃないかと思う。

もちろん、限界を超える働き方まで耐える必要はない。
職場によっては、本当に人を壊すような働かせ方をする場所もある。
そういう環境なら、辞めてしまっていいと思う。

今は人手不足もあって、特に若い世代は昔より会社を選びやすい時代になっている。
昔のように、「会社に使ってもらう」という感覚だけではなく、「自分に合う場所を選ぶ」という考え方も強くなっている気がする。

だから、「この環境は合わない」と感じたら辞めるのも一つの選択肢だと思う。
ただ、自分としては、気軽に何度も辞めるというよりは、「自分なりにやれるところまではやってみる」という感覚のほうが大事なんじゃないかと思っている。

耐えられる限界を超えてしまうと、人は壊れてしまう。
実際、無理を続ければ、心を病んでしまうこともある。

だから、限界を超える前に辞めるのは必要な判断だと思う。
でも、「働かない」という方向に行ってしまうのは、また別の問題のようにも感じる。

特に若いうちは、仕事を通して学べることも多い。
だからこそ、自分を壊さない範囲で、できるだけ社会の中で踏ん張ってみることには意味があるんじゃないかと思う。

2026年5月10日日曜日

昔描いていた抽象画がいくつも出てきた

 10年くらい前のファイルを整理していたら、昔描いていた抽象画がいくつも出てきた。

当時は現代アートに強く興味を持ち始めた頃で、「こういうものが面白いのかもしれない」「こういう雰囲気が現代的なんじゃないか」と、自分なりに模索しながら描いていたんだと思う。

でも、今の自分はもう抽象画をほとんど描きたいとは思わない。
嫌いになったというより、あの頃とは興味の向いている方向が変わった、という感じに近い。

改めて見返してみると、当時はかなり迷走していたなと思う。
「何を描きたいのか」「何を表現したいのか」もまだ曖昧で、とにかく現代アートというものを知りたくて、手探りでいろいろ試していた時期だったんだろう。

今見ると、自分でも少し笑ってしまう。
「何をやっていたんだろう」と思う部分もあるし、正直よく分からない作品も多い。
でも、その頃なりに必死に模索していた痕跡ではあるんだと思う。

完成されたものではないけれど、「自分がどこを通ってきたのか」を感じられる記録として、こういう過去の作品も悪くないのかもしれない。


2026年5月9日土曜日

1年間遊んでいる『アイドルマスター スターリットシーズン』について考えた

ここ1年くらい、ずっと アイドルマスター スターリットシーズン を遊んでいる。

でも最近、「自分はこのゲームを本当に面白いと思っているんだろうか」と少し考えることがある。

とはいえ、1年も続けているということは、たぶん自分にとって何かしら強くハマる要素があるんだと思う。
ただ、その“面白さ”を言葉にするのが難しい。

今は他にそこまでやりたいゲームもない。
もしかしたら、あまり頭を使いたくない時期なのかもしれない。

このゲームには、本編とは別にライブを作ったり、他の人が作ったライブを見たりできるモードがある。
自分が特に好きなのは、たぶんそこなんだと思う。

ライブを鑑賞したり、演出を組んだりする時間は、いわゆる「攻略」や「効率」を考える必要があまりない。
どちらかというとゲームというより、ライブをプロデュースしたり、映像作品を眺めたりする感覚に近い。

本編ももちろん面白かった。
実際、3周くらいはしっかり遊んだ。
でも、さすがにそこまでやると少し飽きてしまう。

他のゲームを遊んでいた時期もあったけれど、クリアすると次のゲームを始めるのがだんだん面倒になって、結局また『スターリットシーズン』に戻ってきてしまう。

もともと以前から気になっていた作品だったので、「ずっとやりたかったゲームを今ようやく遊んでいる」という感覚もあるのかもしれない。
正直、自分でもまだよくわからない。

一方で、このシリーズにものすごくハマる人がいるのもわかる気がする。
特に日本のファンには、シリーズ作品を幅広く追いかけている人も多い。

自分は今のところ『スターリットシーズン』しか遊んでいないし、シリーズ全体を深く追うところまではいっていない。
でも、「ライブを見る」という体験に関しては、このゲームならではの魅力が確かにあると思う。

2026年5月8日金曜日

昔の東京の写真を見て思い出したこと

 昔、東京へ行った時の写真が出てきたので、久しぶりに見返していた。

たぶん表参道あたりで撮った写真だと思う。
今から10年くらい前のものかな。

その頃の東京は、自分にとって本当に特別な場所だった。

僕は札幌に住んでいるので、東京へ行くには飛行機に乗らなければならない。
気軽に「ちょっと行こう」という距離ではない。

それでも、多い時は年に3回くらい東京へ行っていた。

なぜそんなに行っていたのかというと、やっぱり東京には刺激が多かったからだと思う。

札幌にももちろんイベントや面白いものはあるんだろうけど、自分はそこまで積極的にイベントを探すタイプではなかった。
だから日常の中では、どこか「変化の少なさ」を感じていた。

でも東京へ行くと、街そのものに情報量がある。

歩いているだけで、見るもの全部が新鮮だった。

建物も、人も、店も、空気感も。
何を見ても「面白い」と感じていた記憶がある。

たぶん、その頃の写真には、そういう感覚がそのまま残っているんだと思う。

ただ、何度も東京へ行くようになると、少しずつ感覚は変わっていった。

最初に感じていた“圧倒的な新鮮さ”みたいなものは、だんだん薄れていった。

飽きたというより、「慣れてしまった」という表現の方が近いかもしれない。

人は同じ刺激を何度も受けると、それが当たり前になってしまう。
だから最初ほど強く感動しなくなる。

昔は、歩いているだけで何か特別に感じていたのに、何度も行くうちに、その感覚が少し鈍くなっていった。

でも、それでも東京はやっぱり面白い。

今でも年に一回くらいは行きたいと思っている。

札幌にいる時とは違う刺激があるし、見ているだけで勉強になることも多い。

完全に飽きることはないんだと思う。

ただ問題は、やっぱり「飛行機に乗って行く」ということなんだよね。

これが意外と大きい。

近場なら気軽に動けるけど、飛行機で移動するとなると、どうしても気合いが必要になる。

何か大きな目的があれば動きやすい。
でも、「ただ遊びに行く」というだけだと、なかなか腰が重くなる。

それでも、昔の写真を見返していると、また東京を歩いてみたいなと思う。

最初に感じたあの新鮮さは戻ってこないかもしれない。
でも、年齢を重ねた今だからこそ、また違う見え方をする気もしている。


なぜ今、昔のレースゲーム「ファイナルラップ」が面白いのか

 最近、僕がよく遊んでいるゲームに「ファイナルラップ」というレースゲームがある。

もともとはゲームセンターにあったアーケードゲームなんだけど、その後家庭用ゲーム機にも移植されて、今はそれを遊んでいる。

このゲーム、今やってもかなり面白い。

もちろんレースゲームとして普通に楽しいんだけど、僕が特に惹かれているのは、「見た目の美しさ」なんだと思う。

今の最新のレースゲームって、ほとんどがリアルな3Dポリゴンで作られている。
映像も本当に綺麗だし、実写に近いレベルになっている。

でも、不思議なことに、そういう最新のレースゲームには、あまり深くのめり込めない。

それよりも、「ファイナルラップ」のような昔のグラフィックの方が、なぜか魅力を感じる。

このゲームは、完全な3Dではない。
基本は2Dグラフィックなんだけど、「3Dっぽく見せようとしている」表現になっている。

そこがすごく面白い。

本物の3Dではないからこそ、逆に「立体感を表現しようとしている工夫」が見えて、その表現自体が美しく感じる。

ある意味、“架空の3D”なんだよね。

限られた技術の中で、「どうやって立体に見せるか」を考えて作られている。
だから単なるリアルさとは違う、独特の魅力がある。

今の3Dレースゲームは、どちらかというと「シミュレーター」に近いと思う。
実際の車の挙動を再現して、リアルに運転する方向へ進化している。

でも、「ファイナルラップ」のような昔のレースゲームは、もっと純粋に“ゲーム”なんだと思う。

現実を再現するというより、「遊びとして気持ちいいか」が重視されている。

だから、最新のシミュレーター系レースゲームとは、面白さの種類が違う。

シンプルなんだけど、ゲームとして成立している感覚が強い。

そして、このゲームが当時すごかったのは、ゲーム性だけじゃない。

ゲームセンターでは、最大8人対戦ができた。

8台の筐体を通信でつないで、8人が同時にリアルタイム対戦できたんだ。

今のオンラインゲームの時代から見ると普通に感じるかもしれないけど、当時としてはかなり画期的だった。

実際に同じ空間で、8人が同時にレースをして盛り上がる。
あの体験は、当時かなりインパクトがあったと思う。

だから「ファイナルラップ」は、単なるレースゲームというより、“時代の熱気”も含めて記憶に残っているゲームなんだと思う。

でも、今の僕が惹かれているのは、やっぱりあの独特な映像表現なんだよね。

完全なリアルではない。
でも、「リアルに見せようとしている表現」がある。

その不完全さというか、技術と表現の間にある独特の美しさが、今見ると逆に新鮮で、とても綺麗に感じる。


子供の頃、美術だけはなぜかできた

子供の頃、僕は正直あまり勉強が好きではなかった。

というより、ほとんど勉強していなかったと思う。

だから当然、成績も良くなかった。
勉強しない人間が成績良くなるわけがないし、特別頭が良かったわけでもない。

でも、不思議なことに、美術だけは違った。

絵だけは、なぜか描けた。

特に努力した記憶もないし、勉強したわけでもない。
それなのに、美術の成績だけは良かった。
今振り返ると、クラスの中でもかなり上手い方だった気がする。

でも当時の自分にとっては、それが特別なことだとは思っていなかった。
ただ普通に描いていただけだった。

だから逆に、「なぜ描けたのか」は今でもよくわからない。

その後、一度だけ美術系の専門学校を見学しに行ったことがある。
だから全く興味がなかったわけではないんだと思う。

ただ、結局そこには入らなかった。

理由は単純で、その頃の自分には「美術を仕事にする」という感覚がまったくなかったからだ。
絵を描くことに対して、将来の方向性を見出していなかった。

だから結局、社会人になってからは、美術とはまったく関係ない道に進んだ。

今思えば、かなり遠回りをしたのかもしれない。

後になって親から聞いた話では、当時の担任の先生は「この子は美術の方向に進ませた方がいい」と言っていたらしい。

でも僕自身は、そのことをまったく知らなかった。

もしその時、違う選択をしていたら、人生はかなり変わっていたのかもしれない。
ただ、それが良かったのか悪かったのかは、今でもわからない。

とはいえ、完全に離れてしまったわけでもなかった。

30代になってから、僕はウェブデザインの仕事に関わるようになった。
形は違うけれど、「デザインする」「視覚的に表現する」という意味では、また美術的な世界に戻ってきた感覚がある。

だから結局、自分はどこかでずっと「視覚表現」の方向へ引っ張られていたのかもしれない。

ただ、子供の頃の僕は、いわゆる古典的な芸術にはあまり興味がなかった。

美術館にあるような伝統的な絵画や、格式ある芸術作品に惹かれるタイプではなかったと思う。
それは今でもあまり変わっていない。

むしろ、自分が今興味を持っているのは、現代アートや抽象的な表現の方だ。

ただ、僕が子供だった頃は、今のように「現代アート」や「現代美術」が身近に語られていた時代ではなかった気がする。

もちろん存在はしていたのかもしれない。
でも少なくとも、僕の世界には入ってきていなかった。

だから当時は、「美術」というと、どうしても古典的なものとしてしか見えていなかったのかもしれない。

もし今の時代に子供だったなら、また違った形で美術にのめり込んでいたのかもしれない。

なぜ僕は宇宙や物理学に惹かれていたのか

 若い頃、僕はなぜか宇宙や物理学に強く惹かれていた。

特に相対性理論には夢中になっていて、関連する本をかなり読んでいた記憶がある。

当時は「なぜこんなに興味があるのか」は、自分でもよくわからなかった。
ただ、宇宙とは何か、この世界はどう成り立っているのか――そういう問いに、自然と引き寄せられていたんだと思う。

その後、興味は量子力学へ移り、さらに超弦理論や紐理論のような、より抽象的で難解な世界へ向かっていった。
正直、完全に理解できていたわけではない。
でも、「世界の根本には何があるのか」を知りたいという感覚だけは、ずっと変わらなかった。

今になって振り返ると、それらは自分の「意識理論」を考えるための土台だったのかもしれないと思う。

僕が意識について考えるようになったのは、おそらく10年ほど前からだ。
でも、その理論にたどり着く以前に、長い時間をかけて物理学や宇宙論に触れていた。
つまり、自分の中では「物理学の理解」が先にあり、その上に「意識理論」が積み上がっていった感覚がある。

なぜなら、意識を考えるには、まず「この世界がどうできているのか」をある程度理解しようとしなければならないと思ったからだ。

だから、自分の意識理論を一般の人に説明しようとしても、なかなか難しい。
その理論は、物理学や宇宙論への興味を前提として成り立っている部分があるからだ。

でも僕自身は、その「過程」がとても面白いと思っている。

宇宙に興味を持ち、物理学を読み、量子論に惹かれ、そこから意識について考えるようになった。
一見バラバラに見える興味が、あとから一本の線でつながっていく感覚がある。

だから結局、若い頃に夢中になっていた物理学も、決して無駄ではなかったんだと思う。

ただ、それでも最初に「なぜ宇宙に興味を持ったのか」は、今でもよくわからない。
理由があったのか、偶然だったのか、それとも何か内側から自然に惹かれていたのか。

そこは、まだ自分でも説明できない。

2026年5月5日火曜日

僕が考えている「意識理論」について

僕の中には、昔からなんとなく考えている「意識理論」みたいなものがある。

普段はほとんど人に話さない。
たぶん話しても、うまく伝わらないと思うからだ。

最近は哲学ブームみたいなものもあって、本屋に行くと哲学系の本がたくさん並んでいる。
「人生をどう生きるか」とか、「幸せとは何か」とか、そういうテーマの本だ。

でも、僕が考えているのは、そういう話とは少し違う。

もっと単純で、もっと奇妙なテーマだ。

それは「生まれ変わり」について。

ただし、よくあるスピリチュアル的な話ではない。
魂が別の人間に乗り移るとか、前世の記憶がどうとか、そういう話でもない。

むしろ逆で、「自分とは無関係な別人として生まれる」という考え方に近い。

無から生まれて、また無に戻る

人は生まれる前、無の状態だったと思う。

少なくとも、自分には生まれる前の記憶はない。
何もない状態から、突然「自分」という意識が始まった。

そして死ねば、また無に戻る。

ここまでは、多くの人がなんとなくイメージできると思う。

でも僕が気になるのは、その“次”なんだ。

もし自分が死んだあと、どこかで別の誰かが生まれたとする。

当然、その人は自分ではない。
記憶も違うし、人格も違う。
客観的に見れば、完全に別人だ。

でも、その人にはその人の「一人称」がある。

つまり、その人は「自分として」世界を見ている。

一人称の不思議

ここで重要なのは、「一人称」と「三人称」の違いだと思う。

他人から見れば、その人はただの別人だ。
それは三人称の視点。

でも、その人自身の視点に入れば、そこには確かに「自分」が存在している。

つまり、

  • 外から見れば別人

  • でも内側から見れば、“自分”として世界を体験している

ということになる。

そして考えてみると、今の自分も同じなんだよね。

自分は無の状態から突然「自分」として始まった。
気づいたら、この視点、この意識、この世界の中にいた。

もしそれが一度起きたのなら、また起きないと断言できるのか?

というのが、僕の考えていることなんだ。

「絶対に生まれ変わらない」と証明できるのか

もちろん、「また生まれる」と証明することもできない。

でも逆に、「絶対に生まれ変わらない」とも言い切れない気がする。

ここで言う生まれ変わりは、魂の移動ではない。

むしろ、

「無」→「一人称の発生」→「無」→「別の一人称の発生」

という現象が、繰り返される可能性について考えている感じだ。

それは“同じ自分”ではない。
でも、その瞬間にはまた「自分」という感覚が存在している。

この感覚を、うまく説明するのはかなり難しい。

たぶん普通の生まれ変わりの話とは全然違うし、スピリチュアルとも少し違う。
どちらかというと、意識そのものについての哲学的な疑問に近いのかもしれない。

この考えを突き詰めると面白い

この理論を突き詰めていくと、かなり不思議な話になっていく。

「自分とは何か」
「意識とはどこから来るのか」
「一人称はなぜ存在するのか」

そういう話につながっていくからだ。

正直、うまく説明できている自信はない。

でも、自分の中ではずっと引っかかっているテーマでもある。

たぶん、この感覚を完全に理解できる人は少ないと思う。
それでも、考え始めると結構面白いテーマなんじゃないかなと思っている。

将棋ゲームを作ってみて思ったこと

 僕は別に、将棋が特別好きというわけではない。

毎日将棋を指しているわけでもないし、「どうしても将棋ゲームを作りたい」と思っていたわけでもなかった。

それでも将棋ゲームを作った理由は、単純に「難しそうだったから」だ。

去年あたり、「バイブコーディング」という言葉がかなり流行っていた。
コンピュータを使いながらコードを書いたり、勢いでアプリやゲームを作ったりする流れだ。

それを見て、「自分も何か挑戦してみたい」と思った。

でも、簡単なゲームを作っても面白くない。
平面的で単純なゲームなら、ある程度は誰でも作れる。

だったら、もっと難しそうなものをやってみようと思った。
そこで頭に浮かんだのが将棋だった。

将棋は“考え方”が難しい

実際に作り始めてみると、やっぱり将棋は難しい。

将棋そのものも難しいし、「コンピューターにどう考えさせるか」が特に難しかった。

人間なら感覚的に「この手が良さそう」と考えるけれど、コンピューターにはそれがない。
だから、盤面を点数化していく必要がある。

簡単に言えば、

  • 駒を取ればプラス

  • 有利な位置に駒があればプラス

  • 相手に取られそうならマイナス

みたいな感じで、盤面全体をスコアとして計算していく。

そして、「どの手を打てば最終的に一番スコアが高くなるか」を選び続ける。

要するに、コンピューターは“勝ちたい”というより、「より有利な状態」を探し続けている感じなんだと思う。

先を読むほど強くなる

将棋ゲームでは、「何手先まで読むか」がかなり重要になる。

プロ棋士だと、30手先くらいまで考えているとも言われるけれど、コンピューターでそれをやろうとすると、計算量が膨大になる。

理想的には10手くらい先まで読めるとかなり強くなるらしい。
でも、それを実現するには相当な計算能力が必要になる。

僕が作った将棋ゲームは、もちろんそこまで強いわけじゃない。

でも、作りながら、

「将棋って、“どうやって勝つか”というより、“どうすれば少しでも有利になるか”を積み重ねるゲームなんだな」

という感覚は少しわかった気がする。

作ることと、強くなることは別

ただ、将棋ゲームを作ったからといって、自分が将棋で強くなるわけではない。

ルールや考え方のヒントにはなる。
でも、実際に上達するには、何度も対局して、基本を繰り返して覚えていくしかないんだと思う。

ゲームを作ることと、実際に将棋が強いことは、また別の能力なんだろう。

僕自身、将棋はそんなに上手いわけじゃない。
それでも、なんとなく“それっぽいもの”は作れた。

それはそれで面白かった。

一番こだわったのはグラフィック

ただ、正直に言うと、僕は将棋の中身そのものより、グラフィックの方にかなり力を入れていた。

もちろんゲーム性も大事なんだけど、見た目が良いと、それだけで「ちゃんとしてる感じ」が出る。

個人的には、そこがかなり重要だった。

だから実際には、ゲームのロジックよりも、グラフィックを作り直している時間の方が長かった気がする。

細かい部分を何回も修正して、何度も作り直した。

たぶん、普通の人はそこまで気づかない。
でも、自分の中ではかなりこだわっていた部分だった。

なんというか、その辺りはすごく“自分らしい”気がする。


ゴールデンウィークがあまり好きじゃない理由


 世間はゴールデンウィークで盛り上がっているけれど、実は僕はこういう大型連休があまり好きではない。

というのも、僕は自営業なので、「休日」や「日曜日」という感覚があまりない。
基本的に毎日何かしら仕事をしていて、常に何かを作っているような生活をしている。

だから、世間が休みになると、逆に動きづらく感じてしまう。

連休になると、みんな外へ遊びに出かける。
すると、どこへ行っても人が多い。

スーパーに行っても混雑しているし、街中もごった返している。
落ち着いて買い物をするのも難しくて、なんとなく疲れてしまう。

僕はもともと、人混みがあまり得意ではない。
ガヤガヤした雰囲気よりも、静かで余裕のある空気の方が好きだ。

だから、むしろ平日の方が快適に感じる。

平日の街は人が少なく、どこか落ち着いている。
スーパーもゆっくり見て回れるし、移動もしやすい。
そういう空気の方が、自分には合っている気がする。

もちろん、会社勤めをしている人にとっては、連休は貴重な休息の時間なんだと思う。
平日は仕事があるからこそ、休日のありがたさを感じるんだろう。

でも、僕の場合は少し感覚が逆だ。

「休み」という区切り自体があまりなくて、毎日が仕事でもあり、毎日が普段通りでもある。

だからゴールデンウィークになると、「みんなが休んでいる期間」というより、「どこも混んでいて動きづらい期間」という感覚の方が強い。

これって、自営業だからなのか、それとも単純に人混みが苦手なだけなのか。
たぶん、同じように感じている人も意外といるんじゃないかなと思う。

2026年5月3日日曜日

女性を描く理由について

 女性を描く理由について、ときどき自分でも考えることがあります。

でも、正直に言うと「これが理由です」とはっきり説明できるものではありません。

おそらく、多くの画家にとって女性を描くことはごく自然なことで、特別な意味を持たない場合もあると思います。僕自身も、何か大きなテーマや理由があって描いているわけではありません。

昔、好きだった女性の存在がどこかで影響しているのかもしれない――そう思ったこともあります。でも、その人を意識して描いているわけではないし、実際には関係ない気もしています。

ただ、自分の気持ちの奥に、何か慰めのような感覚があって、それが女性を描かせているのかもしれない。そんなふうに考えたこともありました。でも、それも本当のところはわかりません。

気づけば、かなり昔からずっと女性を描こうとしていました。
「描いていた」というより、「描くことに挑戦し続けていた」という感覚のほうが近いかもしれません。

結局のところ、なぜ描いているのか、自分でもよくわからないんです。
ただ、「描きたい」という気持ちだけがあって、その気持ちに従って描いている。

だから今も、他のものを描こうとはあまり思わないのだと思います。

実験的なRPGの画面が出てきた

 昔バックアップしていた画像を見返していたら、以前に作っていた実験的なRPGの画面が出てきた。

これは、いわゆる「BASICシミュレーター」のようなツールを使って制作していたもので、本格的なゲームエンジンとはかなり違う、かなりシンプルな環境だった。そんな環境で、無理やりオープンワールド風のRPGを作ろうとしていた。

結局、完成までは至らなかったのだけど、当時かなり苦労していたのを思い出した。

一番大変だったのは、背景のスクロール処理だった。

そもそもそのツールには、4方向スクロールの機能が存在しない。だからプログラムでマップのマスを一つずつ動かし、疑似的にスクロールしている。かなり力技で実装していたので、処理負荷がものすごく重かった。実際、ゲーム全体の処理の大半を、そのスクロールだけで使っていたような状態だったと思う。

一応、敵も登場する。

ただし敵は動かず、地面に固定されているだけで、それを倒していくような形だった。倒しても経験値が入るわけでもなく、レベルアップもない。そこまでシステムを作り込めていなかった。

それでも、自分の中では「背景生成」がこのゲーム最大の特徴だった。

マップは自動生成される仕組みになっていて、どこまでも新しい地形が続いていく。いわゆるオープンワールドっぽいことをやりたかったのだと思う。

ただ、実際に動かしてみると、完全に新しい景色が出てくるわけではなく、どうしても似たようなパターンが繰り返される。ランダム生成ではあるものの、プレイしているうちに単調さが出てきて、だんだん飽きてしまう部分もあった。

やはりRPGというのは、背景だけでは成立しない。

ストーリー、レベルシステム、アイテム、武器、成長要素、敵のバリエーションなど、さまざまな要素が組み合わさって初めてゲームとして成立する。改めて考えると、RPGは制作コストが非常に高いジャンルだと思う。

そして、本格的なものを作ろうとすると、そもそも使っているツール自体にも限界がある。

だから途中で、「これ以上作っても中途半端になるかもしれない」と感じて、制作を止めたのだと思う。

それでも、

「背景を生成しながら4方向にスクロールできる」
「敵が出現する」

というところまでは形にできたので、当時としてはかなり頑張っていた気がする。

今見ると未完成そのものなのだけど、逆に、その試行錯誤していた感じが少し面白かった。


2026年5月2日土曜日

毎日歩くことについて、最近思うこと

僕は毎日、歩いている。いわゆるウォーキングという感じなんだけど、運動として歩く時もあれば、買い物や用事で歩くこともある。

でも、とにかく1日に最低1回は歩いていると思う。

多い時は2回くらい外を歩いている。

車を持っていないので、移動は基本的に徒歩か、自転車か、交通機関になる。
だから自然と歩く機会が多くなるんだよね。

札幌では、車が当たり前になっている

僕は札幌に住んでいるけれど、やっぱりこの街は車社会だと思う。

もちろん地下鉄やバスなどの交通機関はあるし、コンビニやスーパーもたくさんある。
でも、「自分の行きたい場所へ自由に行く」となると、やっぱり車のほうが便利だ。

実際、周りの家庭もほとんど車を持っている印象がある。

だから、多くの人は移動のたびに車を使っているんじゃないかと思う。

でも、その生活になると、逆にほとんど歩かなくなってしまう。

それは少し不健康なんじゃないか、と個人的には思っている。

散歩している人を、あまり見かけない

歩いていて、いつも思うことがある。

それは、

「散歩している人って、意外と少ないな」

ということだ。

もちろん、たまには見かける。

でも、散歩している人って、なんとなくわかるんだよね。

例えば、

  • 荷物を持っていない

  • 目的地がある感じではない

  • ただ歩いている

そういう雰囲気の人。

でも、そういう人は本当に少ない気がする。

つまり、純粋に「歩くために歩いている人」って、あまりいないんじゃないかと思う。

ジムよりも、散歩のほうが続く

たぶん、多くの人は運動したい時、スポーツクラブとかジムへ行くんだと思う。

実際、僕も昔スポーツクラブに通ったことがある。

でも、正直あまり続かなかった。

まず、行くこと自体がちょっと大変なんだよね。

準備して、移動して、着替えて、運動して、また帰る。
しかも、ジムって意外とハードな運動をすることが多い。

それがだんだん面倒になってしまった。

もちろん、ジムが合う人もいると思う。
でも、自分にはもっと手軽な方法のほうが合っていた。

“続けられる運動”のほうが大事なのかもしれない

その点、散歩やウォーキングはかなり気軽だ。

特別な準備もいらないし、お金もかからない。
思い立ったら、そのまま外へ出ればいい。

しかも、歩いていると頭の整理もできる。

何かを考えながら歩いたり、街の空気を感じたり、季節の変化を見たり。
ただ運動するだけじゃなくて、気分転換にもなる。

だから僕は、激しい運動をたまにするより、

毎日少しでも歩くことのほうが、意味がある

と思っている。

健康って、結局は「続けられること」が一番大事なのかもしれない。

抽象画について、最近思っていること

 以前、現代アートについて自分がどう思っているのかを書いたことがある。

その時、抽象画についても少し触れていたと思う。

実は僕自身、昔は抽象画っぽい表現を描いていた時期があった。

当時は、そういう表現に少し興味があったし、「現代アートとして面白いかもしれない」と思っていたんだよね。

でも、結果的には描かなくなった。

抽象画に興味がなくなった理由

なぜ描かなくなったのかというと、だんだん、

「これは自己満足になってしまうんじゃないか」

と思うようになったからだ。

もちろん、アートは必ずしも他人に理解される必要はない。
そういう考え方もあると思う。

でも僕は、他人が見ても何も感じ取れないものや、意味が全く伝わらないものに対して、少し疑問を持つようになってしまった。

実際、自分自身が「よくわからない抽象画」を見た時に、不快感を覚えることもあった。

もちろん、すべての抽象画がそうというわけじゃない。
でも、「これは何なんだろう」と思うだけで終わってしまう作品も多かった。

現代アートは、なぜ抽象化していったのか

現代アートには抽象的な作品が多い印象がある。

もちろん、現代アート=抽象画というわけではない。
でも、全体として抽象化の方向へ進んでいったのは確かだと思う。

なぜそうなったのか。

僕自身、そこは正直よくわからない。

時代的な価値観の変化や、多様性の考え方も関係しているのかもしれない。
「正解のない表現」が重視されるようになった結果なのかもしれない。

でも、その流れに対して、自分が本当に共感しているかというと、今は少し違う。

“わからないもの”を、無理に理解したいとは思わなくなった

昔は、「理解できないものにも価値がある」と思っていた。

だから抽象画にも興味を持っていたし、自分でも描いていた。

でも今は、そこまで積極的に見たいとは思わなくなってしまった。

もちろん、自分の感覚に合う抽象画もある。
「これは好きだな」と思えるものも、たまにはある。

ただ、そういう作品はかなり限られている。

結果的に、自分が本当に惹かれる抽象画というのは、ごく一部なんだと思う。

今の自分は、“伝わる表現”のほうに興味がある

今の僕は、どちらかというと、

  • 何を感じてほしいのか

  • 何を表現したいのか

  • なぜその作品を作ったのか

そういうものが、ある程度伝わる作品のほうに興味がある。

完全に説明的である必要はない。
でも、少なくとも「何か共有できる感覚」が欲しい。

抽象画は、その“共有”の部分が極端に少なくなりやすい。

だから今は、以前ほど興味を持てなくなってしまったんだと思う。

それは、抽象画を否定したいわけではなくて、単純に自分の感覚が変わったということなんだろうね。

3DCGを30年続けてきて、今あらためて思うこと

 最近、3DCGについて改めて考えることがあった。

僕はもう30年くらい前から3DCGをやっている。
そもそも始めたきっかけは、単純にゲーム業界に入りたいと思ったからだった。

当時はちょうど、「3D表現」というものが世の中に広がり始めた時代だった。

今では3DCGなんて当たり前の技術だけど、その頃はかなり新鮮だった。
「コンピューターの中で立体を作る」ということ自体が、未来の技術みたいに感じられた時代だったと思う。

当時の3DCGは、今とは全然違った

その頃はいろんな3Dソフトが発売され始めていた。

ただ、僕が使っていたのは比較的安いソフトだった。
プロ向けというよりは、初心者向けとか、小規模な制作向けみたいな立ち位置のものだったと思う。

本格的なCGアニメーションを作る人たちは、もっと高価で高性能なソフトを使っていたはずだ。

だから、当時の僕は「プロを目指すCGクリエイター」というより、ただ興味本位で触っていた一般ユーザーに近かったと思う。

しかも、最初はほとんど理解できなかった。

3D空間という概念そのものが難しかったし、操作も複雑だった。
最初の数年間は、「なんとなく触ってるだけ」みたいな感じだったと思う。

一枚の“いい感じの絵”が、すべての始まりだった

でも、ある時、試行錯誤しながら女の子のイメージを作ってみた。

すると、一枚だけ、なんとなく「いい感じ」の絵ができたんだよね。

技術的には全然大したことなかったと思う。
今見たら、おそらくかなり粗いものだったはずだ。

でも、その時に初めて、

「3Dでこういう絵が作れるんだ」

という面白さを感じた。

そこから一気にハマっていった。

技術よりも、“表現できること”が面白かった

当時の僕は、モデリングが特別うまかったわけでもない。

かなり大雑把だったし、高度なこともできなかった。
それでも、3Dで絵を作れるということ自体が面白かった。

たぶん、あの時代に3DCGに触れていた人たちは、みんな似た感覚を持っていたんじゃないかと思う。

「3Dで表現できる」というだけで、すごく新鮮だった。

だから毎日のように何かを作っていた。
いろんな表現を試して、失敗して、また作る。

技術を極めたいというより、
「こんなことができるんだ」という感覚そのものに夢中になっていた気がする。

そして、気づけば“アート”の方向へ向かっていた

ただ、今振り返ると、不思議に思うことがある。

あの時間には、本当に意味があったんだろうか、と。

もちろん、無駄だったとは思わない。
でも、当時の自分は、今みたいな方向に進むとは想像していなかった。

結果的に、僕は「アート」や「芸術」みたいな方向へ興味が向いていった。

その理由の一つは、使っていたソフトにあった気がする。

僕の使っていたソフトは、アニメーションに強いソフトではなかった。
だから、「動き」で見せるというより、一枚の静止画で何を表現できるかを考えるようになった。

もし最初から高度なアニメーションが簡単に作れる環境だったら、たぶん違う方向に行っていたかもしれない。

でも、静止画中心だったからこそ、

  • 一枚の絵の中で何を表現するか

  • 雰囲気や感情をどう出すか

  • 世界観をどう作るか

みたいなことを考えるようになった。

それが結果的に、芸術とかアートの感覚につながっていったんだと思う。

過去は、今につながっている

当時は、ただ面白いからやっていただけだった。

将来どうなるかなんて考えていなかったし、意味があるかどうかもわからなかった。

でも、今こうして振り返ると、あの頃の試行錯誤が、確実に今の自分につながっている。

たぶん人生って、そういうものなのかもしれない。

その時は意味がわからなくても、
後になって、「あれが今につながっていたんだ」と気づくことがある。

3DCGを始めた頃の僕は、ただゲームを作りたかっただけだった。
でも結果的には、表現そのものを考える方向へ進んでいった。

そして、その感覚は今でもどこかで続いている気がする。

人は本当に変われるのか――昔の自分を振り返って思うこと

何か一つのことについて、とことん突き詰めるというのは、自然なことなんだろうか。

最近、そんなことを考えるようになった。

昔から、自分は一つのことに強くこだわる傾向があった気がする。
でも、それは特別なことではなくて、たぶん誰にでもあるものなんじゃないかとも思う。

例えば、人にはそれぞれ目標がある。
あるいは、「こうなりたい」という思想や理想みたいなものがある。

みんな何かしらを目指して生きているし、それ自体は普通のことだと思う。

ただ、人によって違うのは、「どれだけ深くそれにのめり込むか」なのかもしれない。

僕にとって、それは“自己啓発”だった

20代から30代くらいまで、僕はかなり自己啓発にこだわっていた。

といっても、「成功したい」とか「お金持ちになりたい」というよりは、自分自身を変えたいという感覚に近かった。

もっと自信を持てる人間になりたい。
もっと前向きな人間になりたい。
もっと強い人間になりたい。

そういうことをずっと考えていた気がする。

でも、自己啓発って少し不思議なものだと思う。

例えば資格みたいに、「これを達成した」と目に見える結果があるわけではない。
内面的なものを変えようとする行為だから、変化があったとしても形として見えにくい。

自信がついたとか、考え方が変わったとか、そういう感覚の話になる。

だからこそ、どこまで変われたのか、自分でもよくわからない。

結局、人は根本的には変われないのかもしれない

今振り返ると、僕は「自分を根本から変えたい」と思っていたんだと思う。

そして、そのためにかなり長い時間を使っていた。

仕事も、ある意味ではそういう方向性のものをやっていた。

でも、最終的に感じたのは、

人間は、根本的にはそんなに変わらないのかもしれない

ということだった。

もちろん、技術を身につけたり、仕事を覚えたりすることはできる。
努力によって能力が伸びることもある。

でも、その人の性格や考え方、話し方みたいな「核」の部分は、簡単には変わらない気がする。

頑張れば、行動は変えられる。
モチベーションを上げることもできる。
仕事をバリバリこなす人になることもできるかもしれない。

でも、それは“別人になる”ということではない。

根本にある性質みたいなものは、ずっと残り続ける。

少なくとも、僕自身の経験ではそうだった。

じゃあ、昔の努力には意味がなかったのか

そう考えると、ふと思うことがある。

昔の自分は、一体何をやっていたんだろう、と。

あれだけ時間をかけて、自分を変えようとしていたけれど、本当に意味はあったんだろうか。

もちろん、今さら考えても仕方ない。
過去は変えられない。

でも、ときどきそういう感覚になることはある。

ただ、完全に無意味だったとも思わない。

たぶん、人は「変わる」ことそのものを求めているというより、
「変わろうとする過程」に意味を感じているのかもしれない。

結果として根本は変わらなかったとしても、
その間に悩んだこと、考え続けたこと、行動したことは、確実に今の自分を作っている。

だから、人は変われないのかもしれないけれど、
それでも変わろうとすることには、意味があるのかもしれない。

意識理論の本を読んで思ったこと――僕が考える「生まれ変わり」は宗教とは少し違う

最近、個人的に意識理論に興味があって、いろいろ調べている。

哲学や意識について書かれた本も何冊か買って読んでみた。

でも正直、かなり難しい。

もちろん初心者向けの本もあるにはあるけれど、全体的に見ると、意識についての本は専門的で、普通の人が気軽に読んで理解できるようなものは少ない気がする。
読んでいて、「これは本当に意味があるのか?」と思ってしまうこともある。

ただ、その中で自分が本当に知りたいことは、一般的な意識哲学とは少し違うところにあると気づいた。

僕が考えているのは「死後の世界」というより、「主観は再び現れるのか?」ということ

多くの哲学書や意識の本は、「今、自分が生きていることをどう考えるべきか」というテーマを扱っている。
つまり、「生きている現在」の話が中心なんだよね。

一方で、僕が気になっているのは、その先のことだ。

ただし、これは宗教的な意味での「死後の世界」ではない。

例えば、

  • 魂が肉体を離れて移動する

  • 前世の記憶を持ったまま生まれ変わる

  • 天国や霊界へ行く

みたいな考え方には、あまり興味がない。
むしろ、そういうスピリチュアル的な説明にはかなり懐疑的だ。

それでも、「また誰かとして意識が存在する可能性」はあるのではないか

僕が考えているのは、もっと単純で、でも説明しにくい感覚だ。

人は死んだら、その人としての記憶も人格も終わる。
これは普通に考えれば自然なことだと思う。

でも、その後の未来のどこかで、まったく別の人間が生まれる。
その人には当然、自分の記憶も人格もない。
周囲から見ても、完全に別人だ。

ただ、その人には確かに「自分が生きている」という主観が存在している。

つまり、

「意識そのもの」は、別の存在として再び現れる可能性があるのではないか?

という感覚に近い。

これは一般的な「生まれ変わり」とは少し違う。
魂が引き継がれるわけでもないし、自分という存在が継続するわけでもない。

だから、「転生」という言葉もしっくりこない。

むしろ、

  • “主観”という現象は、生命が存在する限り繰り返し発生する

  • その主観の一つとして、今の自分が存在している

  • そして未来にも、別の誰かの中で主観が発生する

というイメージに近い。

これは哲学なのか、それともただの個人的な思想なのか

こういうことを考えていると、これは哲学なのか、それとも単なる個人的な思考なのかわからなくなる。

科学的に証明できる話ではない。
でも完全に非論理的とも思えない。

意識そのものが、まだ科学的にほとんど解明されていない以上、「主観とは何か」という問いには、まだ答えがない。

だからこそ、こういう考え方も、完全に間違いだとは言い切れない気がする。

少なくとも、自分にとっては、

「死んだら無になる」という説明だけでは、どうしても感覚的に納得しきれない部分がある。

もちろん、それを証明したいわけではない。
ただ、意識について考えていると、自然とこういう疑問にたどり着いてしまう。

そして、それを考えること自体に、ある意味では価値があるのかもしれない。

2026年4月26日日曜日

「エロ」はなぜ排除されるのか

最近、令和に入って特に「性」や「エロ」に対する規制やコンプライアンスが強くなったと感じる。昭和にはもっと身近にあった猥雑さや人間くささが、今は排除されつつあるように見える。

もちろん、人権意識やハラスメントへの配慮が進んだこと自体は大切な変化だ。ただ一方で、「いやらしいことを考えてはいけない」という空気にまでなってしまうと、それは人間の本能まで否定することになりかねない。

そもそも性や欲望は、生き物にとって自然なものだ。恋愛や性愛は、生や繁殖にもつながる根源的なエネルギーでもある。

少子化との関係を単純には語れないが、欲望や親密さが生きづらくなっている社会と、出生率の低下は無関係ではない気もする。

興味深いのは、芸術の世界ではエロティシズムが今も表現として認められていることだ。裸や官能は、美や生命を表すものとして扱われてきた。

問題は「エロの是非」ではなく、それをどう社会が扱うかだと思う。排除するのではなく、人間の本能として成熟した形で向き合うことが必要なのではないか。

「エロ」は低俗なものではなく、生と自由に関わるテーマでもある。だからこそ、ただ消していいものではないと思う。

2026年4月20日月曜日

「若い人が働かない」という話題

最近、「若い人が働かない」という話題をネットで目にすることがある。

これについてはさまざまな意見があると思うけれど、そもそもなぜそういう状況が生まれているのか、少し考えることがある。

やはり大きいのは、社会の仕組みそのものが変わってきているという点ではないだろうか。昭和の時代と令和の今とでは、働く環境も価値観も大きく違っている。

昔は「頑張れば報われる」という感覚が、今よりも強かったように思う。努力すれば給料が上がったり、評価されたり、何かしら成果として返ってくるという実感があった。

しかし今は、どれだけ頑張っても、それがそのまま評価や待遇に結びつくとは限らない。会社によっては、同じような仕事を繰り返すだけで、成長や変化を感じにくい環境もある。

さらに、日本特有とも言える年功序列の仕組みも影響しているように感じる。長く在籍している人ほど上に上がっていく構造では、必ずしも「頑張った人が報われる」とは言い切れない。

そうなると、モチベーションを保つのが難しくなるのも無理はない。

結果として、能力のある人ほど、より評価される環境を求めて会社を離れていく。一方で、現状に適応した人が残るという構図になってしまっている側面もあるのかもしれない。

また、いわゆるブラック企業の問題も無視できない。努力に見合った報酬が得られない環境では、働くこと自体に疑問を持つ人が出てきても不思議ではない。

こうした背景を考えると、「若い人が働かない」というよりも、「働きがいを感じにくい環境が増えている」と言ったほうが近いのかもしれない。

とはいえ、個人的に印象に残っている言葉がある。昔、先輩に言われた「仕事なんて面白いものじゃない」という一言だ。

少し極端ではあるけれど、この考え方には一理あると思っている。最初から「仕事は楽しいものではない」と理解していれば、過度な期待を抱かずに向き合うことができる。

そう考えると、「面白い仕事を探す」というよりも、「どう向き合うか」を考えるほうが現実的なのかもしれない。

もし本当にやりたいことを仕事にしたいのであれば、会社に依存するのではなく、自分で道を切り開く必要がある。独立したり、自分で事業を立ち上げたりするという選択もあるだろう。

会社に入ればやりたいことができる、という時代ではなくなってきている。

そう考えると、働くということ自体の意味も、これからますます変わっていくのかもしれない。

絵がうまい人というのは、

絵がうまい人というのは、やはり「才能」が大きく関係しているのか、それとも「努力」によるものなのか。どちらなんだろう、と。

テレビなどを見ていると、ほとんど絵を習ったことがないような子どもが、いきなり驚くほど上手な絵を描いている場面が紹介されることがある。まだ幼いのに、大人顔負けの表現力を持っている、いわゆる“天才”のような存在だ。

そういうのを見ると、やはり才能というものは確かにあるのかもしれない、と思わされる。

一方で、絵は描けば描くほど上達する、というのも事実だと思う。練習を重ねることで技術が磨かれていくのは、どんな分野でも同じだ。

ただ、それだけで「いい絵」が完成するかというと、どうもそれだけでは足りない気もする。

絵というのは単なる技術の積み重ねではなく、その人の考え方や感性、これまでの経験、表現したいテーマなど、さまざまな要素が重なって生まれるものだと思う。言ってみれば、その人自身がそのまま表れるものなのかもしれない。

だからこそ、ただ練習すれば必ずしも良い作品にたどり着くとは限らないし、逆に、これまであまり絵を描いてこなかった人が、ふとしたきっかけで描いた一枚に独特の魅力が宿ることもあるのではないかと思う。

突発的な発想や、その人ならではの視点が評価されることもあるだろう。

結局のところ、「どうすればいい絵が描けるのか」という問いに、はっきりとした答えはないのかもしれない。

才能、努力、経験、感性――そういったものが複雑に絡み合って、一枚の絵が生まれる。

だからこそ、絵というものは面白いし、簡単には割り切れないものなんだと思う。

人は見た目だけでは、本当のところはわからない


人は見た目だけでは、本当のところはわからないんじゃないか、ということだ。

世の中って、どうしても見た目で判断されがちだと思う。
「あの人はなんとなく怪しい」とか、「感じが良さそう」とか。年齢や性別、服装や雰囲気だけで、無意識のうちに「いい人」「よくない人」と決めつけてしまうことが多い。

でも実際には、それってかなりズレていることもあるんじゃないかと感じる。

たとえば、すごく仕事ができる人がいたとして、その人の見た目が特別良いとは限らない。むしろ、見た目は地味だったり、ぱっとしない印象の人のほうが、コツコツ真面目に仕事をしていたりすることもある。

逆に、見た目が良くて感じも良さそうな人が、必ずしも中身まで優れているとは限らない。もちろんそういう人もいるけれど、見た目と中身が一致しているとは言い切れない。

自分のこれまでの経験からすると、どちらかというと真面目な人ほど、派手さのない落ち着いた格好をしている印象がある。

自分自身について言えば、もう若い頃のような見た目ではないし、いわゆる「かっこいい」という年齢でもない。いわゆる“おじさん”の部類に入ると思う。

だからといって、特別どうこう思うわけではないけれど、せめて清潔感のない格好はしないように気をつけている。安っぽすぎる服は避けるとか、髪型を整えるとか、そのくらいは意識している。

結局、自分で変えられる「見た目」って、その程度のことなのかもしれない。

でも、それ以上に大事なのは、やっぱり中身なんじゃないかと思う。

見た目だけで人を判断することの危うさを、最近あらためて感じている。

2026年4月17日金曜日

iPhoneで絵画を撮影してみた。

先日購入したiPhone17eは、思っていた以上にバランスのいいスマートフォンだと感じている。特にカメラ性能は十分で、普段使いにはまったく不満がない。2倍ズームにも対応していて、日常の撮影はもちろん、絵画の撮影にも活用できるレベルだ。

ただ、実際に撮ってみて改めて感じたのは、撮影そのものの難しさだ。光の当たり方や角度、微妙なブレなど、少しの違いで仕上がりが大きく変わる。やはりプロのカメラマンのように、常に完璧な一枚を撮るのは簡単ではない。

それでも試行錯誤しながら撮影を続けていると、このiPhone17eがしっかり役立ってくれていることに気づき、少し嬉しくなる。

とはいえ、約10万円という価格は決して小さな出費ではない。スマートフォンにこれだけの金額を支払うのは正直なところ悩ましい部分もある。それでも、日々使うものとしての価値を考えると、大きな買い物だったと実感しつつも、納得感はある。


2026年4月16日木曜日

なぜ自分は3DCGを始めたのか?

 「なぜ自分は3DCGを始めたのか?」

そんなことを、今になってふと思い出した。

きっかけはとてもシンプルで、ゲーム業界に入りたかったからだ。今から30年ほど前の話になる。当時、ゲームに関わる仕事といえば、プログラマー、デザイナー、サウンドなどいくつか選択肢があったが、自分にできそうだと思ったのはデザイナーだった。

「それなら、3Dをやればいいかもしれない」

そんな軽い発想から、3DCGに手を出したのが始まりだった。

とはいえ、当時は本当に何もできなかった。マシンの性能が低かったこともあるが、それ以上に「絵を描く」という行為そのものがうまくできなかった。頭の中のイメージに、手がまったく追いついていなかったのだ。

しばらくは思うようにいかず、半ば諦めたように手を止めていた時期もあった。

そんな中でふと、「好きな女性アーティストを描いてみたい」と思った。動機としてはかなり個人的で単純なものだったが、そのときに完成した作品は、ぎこちなさはありつつも、自分でも驚くほど“いい感じ”に仕上がった。

その瞬間、頭の中で何かが切り替わったのをはっきりと覚えている。

「3Dで絵を描くのは面白い」

そう思ってからは、ほとんど毎日のように3DCGに没頭していた。振り返れば、取り憑かれたように描き続けていた時期だったと思う。

結局、ゲーム業界に入ることはなかった。代わりに進んだのはIT業界だった。

ただ、そこでもまた新しい変化があった。WEBデザインに触れたとき、「これは面白い」と直感的に感じたのだ。仕事として関わる中で、デザインを考え、形にしていく過程そのものに強い興味を持つようになった。

最初のきっかけはゲーム業界への憧れだったはずなのに、気づけば違う道に進んでいる。それでも、3DCGもデザインも、自分の中ではどこかで繋がっている感覚がある。

結局のところ、すべては「面白い」と感じた瞬間から始まっているのかもしれない。

恋愛に関する“黒歴史”

以前にも少し触れたけれど、自分の恋愛に関する“黒歴史”が、今の絵に影響しているのではないか――そんなことをふと思ったので書いてみる。

若い頃は、誰でも誰かを好きになるものだと思う。でも、その気持ちがうまく実ることは少なくて、振り返ると、報われない片思いに長い時間を使っていた気もする。

じゃあ、その経験が「絵を描く理由」になっているのかと言われると、正直よくわからない。ただ、恋愛に対してどこか満たされなかった感覚があったのは確かで、それが多少なりとも影響している可能性はあると思う。

思い返せば、昔からいわゆる“オタクっぽい”女の子の絵を描いていた気がする。今でもそういうゲームを遊んでいるし、自分の中の女性像は、そうした世界観に影響を受けているのかもしれない。

もちろん、現実の女性と空想の女性が違うことは理解している。それでも、自分の中で自由に思い描いている分には問題はないとも思っている。

若い頃は女性アーティストに夢中になっていた時期もあった。今振り返れば、ごく普通の若者だったのかもしれない。ただ、それが今の絵にどう関係しているのかは、やはりはっきりとはわからない。

結局のところ、片思いの黒歴史をどこかで誤魔化すために絵を描いているのか、それとも全く別の理由なのか――自分でもよくわからない。ただ、無関係ではない気もするし、かといってそれがすべてとも思えない。

そんな曖昧なまま、今も絵を描いている。

 

2026年4月12日日曜日

僕は長い間3DCGをやっていた。

 以前に少し触れたことがあるけれど、僕は長い間3DCGをやっていた。

ただ、不思議なことに、これまで自分の作品についてはほとんど載せてこなかった。
今回から、少しずつ振り返りながら公開してみようと思う。

自分の方向性としては、どちらかといえばリアル寄りの表現を目指していた。
とはいえ、モデリングそのものよりも、どちらかと言えば「レンダリング」の方に興味があった。

今振り返ると、少し変わっているかもしれない。

というのも、僕は何年もかけてレイトレーシングの研究ばかりしていたからだ。

理由は単純で、当時使っていた3Dソフトがかなり古く、
レイトレーシング性能が低くて、思うように綺麗な絵が出せなかった。

それが、ただただ悔しかった。

普通なら「新しいソフトを使えばいい」と考えるところだと思う。
実際、僕もそう思ったし、試そうとしたこともある。

でも、他の3Dソフトはあまりにも難しすぎて、自分には扱えなかった。

あるとき、詳しい人に相談したら
「Blenderを1年かけて教えてあげる」と言われたこともある。

けれど、さすがに1年という時間は現実的ではなかったし、
そこまでして習得する意味が自分には見いだせなかった。

だから僕は、新しいツールに移るのではなく、
今ある環境でどこまでやれるか、限界を超えることに時間を使うことにした。

他人から見れば、かなり非効率で、
もしかすると「変わっている」と思われる選択だったかもしれない。

それでも、長く使ってきたソフトだったからこそ、
その限界を突き詰めてみたかったのだと思う。

結果として、それなりに「ここまでできるのか」と思えるところまでは到達できた。

ただ、ある程度の成果が出た瞬間、
不思議とそこで満足してしまい、それ以上先に進むことはなかった。

達成して、終わり。

今となっては、その先に何かを積み上げることもなく、
静かに一区切りがついた感じだ。

正直なところ、あの何年間は一体何だったのか、
自分でもよく分からない。

いわゆる「黒歴史」なのか、それともそうではないのか。
はっきりとは言えない。

ただ一つ確かなのは、
あの時間、自分は確かに努力していたということだ。

そして今は思う。

人間にとって大事なのは、結果そのものよりも、
何かに打ち込んでいる時間そのものなのかもしれないと。

そう考えると、あの時間も決して無意味ではなかったのだろう。

早寝早起きって意外といいかもしれない

最近、「早寝早起きって意外といいかもしれない」と思い始めている。

ここ最近、試しに生活リズムを少し変えてみた。
寝る時間は23時ごろ、起きるのは7時ごろ。いわゆる「早寝早起き」だ。

最初は正直、これが本当に良いことなのかよく分からなかった。
でも、しばらく続けてみた結果、「これはアリだな」という結論に落ち着いている。

理由はシンプルで、午前中に使える時間が増えたからだ。

以前は、24時ごろに寝て8時に起きる生活。
これでも睡眠時間は同じく8時間なので、理屈の上では何も変わらない。

ただ、1時間前倒ししただけ。

でも、この「たった1時間」が意外と大きい。

朝の1時間は、ただの1時間ではない。
頭がすっきりしていて、あまり眠くもないので、作業効率がいい。

体感としては、1時間以上の価値がある
おそらく追加で90分くらいの仕事量をこなせている気がする。

同じ8時間寝ているのに、ここまで差が出るのは少し不思議だ。

もちろん、この生活にもハードルはある。

一番の問題は「寝る時間」だ。

23時に寝るためには、22時30分くらいには布団に入る準備をしないといけない。
つまり、かなり早い段階で「今日はもう終わり」と決める必要がある。

これが意外と難しい。

夜はどうしてもダラダラしがちだし、
「あと少しだけ」と思っているうちに時間はすぐ過ぎてしまう。

だからこそ、意志を持って早く寝ることが重要になる

その代わり、次の日は少し早く起きられる。

たったそれだけのことなのに、
1日の流れが変わり、気分も変わる。

今のところ、この生活はかなり気に入っている。

しばらくは、この「23時就寝・7時起床」を続けてみようと思う。

2026年4月8日水曜日

恋愛観について書いてみる(あまり意味はないけれど)

 これまで、自分が恋愛について語ることはほとんどなかった。というのも、誰かと付き合った経験があるわけでもなく、ただ一方的に誰かを好きになっていただけだからだ。

今振り返ると、それは「恋愛」というよりも、ただの勝手な片思いだったのかもしれない。だからこそ、自分には語れるような恋愛観などないのだと思う。

その後も誰かと付き合うこともなく、結婚することもなく、どこか「不完全な人生」を歩いてきたような感覚がある。

女性に対する憧れはある。けれど、どう接していいのかは今でもよくわからない。

ただ一つ、不思議なことがあった。主に学生時代、なぜか自分に好意を持ってくれていた女性がいたことだ。でもその頃の自分は、別の女性に夢中だった。

もしあのとき、自分を好いてくれていた人と向き合っていたら、違う人生になっていたのかもしれない。もしかしたら、幸せな関係を築けていた可能性だってある。

とはいえ、それはすべて「後の祭り」だ。今さらどうこう言っても仕方がない。

振り返れば、その片思いは自分の人生に大きな影響を与えたと思う。あの状態に陥っていなければ、もっと「普通」の人生――恋愛をして、結婚して――そんな道を歩んでいたかもしれない。

片思いも、ある程度を超えると人の人生を歪めてしまうことがある。今だからそう思えるけれど、当時はそんなふうには考えもしなかった。

そして、その想いから目が覚めたとき、自分の中は空っぽになっていた。何のために生きているのかもわからなくなり、自分の存在すら無意味に感じた。

そこからが、いわば「第二の人生」なのかもしれない。

ただ、正直に言えば、あまり面白い人生だとは思えなかった。

人は何かに夢中になっているときのほうが、案外楽しく生きられるのかもしれない。それがなくなったとき、日常は急に色を失ってしまう。

とはいえ、すべては結果論だ。だから、今はただ「そういうものだった」と受け入れるしかないのだと思う。

2026年4月7日火曜日

56歳の誕生日に思うこと

 今朝、スマホのアラームで自分の誕生日だと気づいた。

とはいえ、正直なところ特別嬉しいという感覚はない。

気づけばすっかり中年の「いいおじさん」になったわけで、
年齢そのものに喜びを見出すことは少なくなった気がする。

それよりも今は、アートのことを考えている時間のほうがずっとワクワクする。
きっと、自分が本当に描きたかったものを描けているからだろう。
そこには、ある種の満足感がある。

ただ一方で、家族が入院したりと慌ただしい日々が続いていて、
それだけはどうしても不安が残る。

僕自身はというと、毎日PS5でゲームをしている。
それだけでも十分に楽しいと思えるし、
本当はもっといろいろ楽しみたい気持ちもあるけれど、
そうなるとどうしてもお金がかかってしまう。

結局、人間は「楽しいこと」を追い求めるほど、
お金という現実にぶつかるのだと思う。

だからこそ、散歩のようにお金を使わない楽しみはとてもいい。
ゲームもそうだし、何より自分の描きたいアートを描くこと。
それだけで、もう十分なのかもしれない。

あとは、どれだけ自分が納得できる作品を描けるか。
それが一番大事なことだと思っている。

食事についても同じで、贅沢をする必要はない。
最低限のもので十分だし、外食はむしろ贅沢の部類だろう。
家で気楽に食べていれば、それでいい。

56歳になって思うのは、
「足るを知る」ということなのかもしれない。

社会の構造は本当に理不尽なのか

社会の構造は本当に理不尽なのか——そんな問いが、これまで何度も自分の中に浮かんできました。

その背景には、会社勤めをしていた頃の経験があります。いわゆるブラック企業やパワハラと呼ばれるような環境でしたが、当時はまだそうした言葉自体が一般的ではない時代でした。概念として存在していなくても、どこか「これはおかしいのではないか」という違和感だけは、はっきりと感じていたのです。

その中で特に強く感じたのが、「会社は何をもって人を評価しているのか」という点でした。一見すると、人間性が重視されているように見えます。では、その人間性とは何なのか。仕事に対する真面目さなのか、気力や体力なのか。

自分なりに考えた結論は、少し違うものでした。会社における人間性とは、つまりコミュニケーション能力のことなのではないか、ということです。

極端に言えば、コミュニケーション能力がある人は評価され、そうでない人は評価されにくい。そこには、仕事ができるかどうかとは別の基準が存在しているように感じました。たとえ高いスキルを持っていても、周囲とうまく関係を築けなければ必要とされない。一方で、多少仕事ができなくても、人との関係性が良ければ認められることもある。

もちろん職種による違いはあるにせよ、こうした傾向は多くの組織に共通しているのではないかと思います。

では、コミュニケーション能力とは何か。それは突き詰めれば、「人から好かれるかどうか」ということに近いのかもしれません。周囲に受け入れられる人は居場所を持てるが、そうでない人は排除されやすい。そんな構造があるように感じていました。

仕事ができるだけでは不十分で、人間関係の中でうまく振る舞えることが求められる。その現実が、自分にとってはどこか理不尽に思え、苦しさの原因にもなっていました。

結果として、自分は組織から離れ、独立という道を選びました。ただそれも、強い意志というよりは、流れの中でたどり着いた選択だったように思います。

結局のところ、どんな立場であっても、自分にできることを一つひとつ積み重ねていくしかない。そうやって、自分なりの生き方や表現を見つけていくしかないのだと、今は感じています。


2026年4月4日土曜日

iPhone 17eを購入したので、その感想を少し書いてみたい。

実は、iPhoneを買ったのは今回が初めてだ。これまでずっとAndroidスマホを使い続けてきたから、自分でも少し意外な選択だったと思う。

買い替えた理由はシンプルで、6年も同じ端末を使っていたからだ。さすがにそろそろ新しくしたいと思った。ただ、いざ探してみると、Androidの機種はどれも似たり寄ったりに見えてしまい、これだと思えるものがなかなか見つからなかった。

もしかするとこれは、以前使っていたBlackBerryの影響もあるのかもしれない。物理キーボードが付いたあの独特な端末に慣れていたせいで、キーボードのないスマホはどれも同じように感じてしまう。そう考えると、見た目や持ったときの感覚まで含めて「これならいいかもしれない」と思えたのが、iPhoneだった。

理由としては、意外と単純だ。

そしてふと思ったのは、こういう理由でiPhoneを選ぶ人は、意外と他にもいるのではないかということだ。逆に、iPhoneからAndroidに乗り換える人がいるなら、その理由も少し気になる。やはり価格の問題は大きいのだろうか。

正直に言えば、10万円という価格はかなり高いと感じた。スマホ1台にここまで出すのか、という抵抗はあった。それでも結局は必要に迫られて購入したわけだが、実際に使ってみると、良いスマホだとは思う。少なくとも「失敗した」という感覚はない。

パソコンに比べれば安い、と無理やり納得している部分もあるけれど、それもひとつの考え方かもしれない。

そして何より、新しいものを手に入れたときのあの感覚。これはやはり嬉しいものだと改めて感じた。

結局のところ、今一番強く感じているのは、そのシンプルな喜びなのかもしれない。

他人の作品に強い興味が持てないのはなぜだろう。

自分にとっての「アート」とは何なのか――そんなことを、これまで何度も考えてきた。

以前にも書いたように、現代アートを数多く見てきたものの、「これが本当に好きだ」と思える作品になかなか出会えないという現実に、少し戸惑っていた時期があった。現代アートそのものには興味があるのに、肝心の作品に対して心が動かない。気に入るものを見つけること自体が、どこか難しく感じられた。

もちろん、数を重ねていくうちに、アートの意味や構造のようなものは徐々に理解できるようになった。それでも、「欲しい」「手元に置きたい」と思えるほど惹かれる体験は、あまり多くはなかった気がする。

振り返ると、作品を理解しようとする過程そのものに、かなりのエネルギーを使っていた。学ぶこと、意味を読み取ることに苦労した記憶が強く残っている。そして今でも、抽象画の一部を除けば、どうしても好きになれない作品は多い。

ただ最近では、「無理に好きになる必要はない」と思うようにもなった。

そう考えると、これまで美術館に足を運び続けてきた時間は何だったのか、と自分に問いかけたくなることもある。正直なところ、はっきりとした答えは出ていない。

それでも一つ確かなのは、その遠回りのような経験を通して、「アートを見る目」は確実に養われたということだ。それだけでも意味があったのではないかと思う。

もう一つ、ずっと気になっていることがある。

仮に「アートを見る目がある人」がいたとして、その人は素晴らしい作品を自ら生み出せるのだろうか。アートを描くには技術が必要だと考えると、「見る力」だけでは不十分なのかもしれない。

逆に、「見る目がまったくない人が描けない」というのは、なんとなく理解できる気もする。では、見る目がある人とない人の差とは、いったいどれほどのものなのだろうか。

結局のところ、「好みの問題」と言ってしまえばそれまでかもしれない。それでも、その曖昧な境界線について考えること自体に、どこか惹かれている自分がいる。

2026年3月29日日曜日

睡眠時間を見直して気づいたこと|早起きは本当に得なのか?

最近、あらためて「睡眠」の大切さを実感しています。

というのも、しっかり眠れていないと、とにかく体がつらい。そして何より、仕事の効率が明らかに落ちると感じるようになりました。時間をかけても進まない、集中できない——そんな状態が続いていたんです。

そこでどうすればいいか考えた結果、シンプルですが「寝る時間を早くする」しかない、という結論にたどり着きました。

ルールを決めたら生活が安定した

試しに「夜11時までには必ず寝る」というルールを設定してみました。

これが思った以上に効果的でした。

生活リズムが整い、毎日が安定するようになったんです。朝も自然と起きられるようになり、日中のパフォーマンスも上がりました。

さらにもう一つ、大事にしているルールがあります。

それは「必ず8時間寝ること」。

例えば、

  • 23時に寝るなら7時起き
  • 22時に寝るなら6時起き

というように、睡眠時間をきっちり確保することを優先しています。

早起き=正解とは限らない?

よく「早起きは得」と言われますが、個人的には少し違うと感じています。

無理に早起きすると、かえってリズムが崩れることもあるからです。

大事なのは「何時に起きるか」ではなく、「必要な睡眠時間を確保できているか」。

その意味で、“きっちり8時間寝る”というのは、自分にとってかなり重要なポイントでした。

シンプルだけど効果的な習慣

今のところ、このルールで生活していて特に問題はなく、むしろかなり調子がいいです。

  • 体が楽
  • 集中力が続く
  • 一日の流れが安定する

こうした変化を実感しています。

父の言葉が今になってわかる

この考え方、実は昔から父に言われていたことでもあります。

「早く寝るのは大事だ」

当時はあまりピンと来ていませんでしたが、今になってその意味がよくわかります。

結局、シンプルな習慣こそが一番効果的なのかもしれません。

早起きが得かどうかよりも、「しっかり眠れているか」。

それを基準に生活を整えることで、毎日は確実に変わっていくと感じています。

2026年3月28日土曜日

写真のように見えるデジタルアート

最近、写真のように見えるデジタルアートを描くことにハマっています。

もちろん本物の写真ではなく、実在する人物でもありません。それでも不思議とリアルに感じられる表現に挑戦するのがとても面白く、今ではひとつの作品スタイルとして続けていこうと思うようになりました。

もともとは実験的な試みとして始めたものですが、思いのほかしっくりきて、自分でも気に入っています。「写真のようでありながらアートでもある」という在り方は、現代アートの流れにも自然と重なる部分があるように感じます。実際に写真家としてだけでなく、アーティストとして活動している人も多く、その境界はますます曖昧になってきています。

とはいえ、僕自身は写真そのものに強い興味があるわけではありません。あくまで「女性を描くこと」にこだわりがあり、その表現方法のひとつが、たまたま写真風のタッチだったというだけです。

イラストであれ写真風であれ、魅力的な女性を描くこと、そしてそれを見ることは、やはり純粋に楽しいものです。

ある意味、それは男のロマンなのかもしれません。


2026年3月23日月曜日

絵画教室に通っていたこと

昔、ほんの短い期間ですが絵画教室に通っていたことがあります。

今振り返ると、成人男性が一人で絵画教室に通うケースはあまり多くないのかもしれません。定年後の趣味として通う人はいるでしょうが、当時の僕のような立場は少し珍しかった気がします。

実際、教室に通っていたのはほとんどが学生でした。小学生から高校生まで幅広く、中には美大進学を目指して真剣に取り組んでいる高校生もいました。そんな中で、僕だけがいわゆる「おっさん」。周りからどう見られていたのかは分かりませんが、少し浮いていたのは確かです。

そもそも僕が絵画教室に通った理由は、3Dグラフィックをやっていたことから「アート」に興味を持った、ただそれだけでした。

教室の先生は、いわゆる現代アート寄りの作風で、抽象画を中心に描く人でした。さらに、その弟子も通っていて、同じく抽象画に取り組んでいました。弟子の方はまだ無名で、コンクールに出す作品を一生懸命制作していたのが印象的でした。

一方の僕はというと、ひたすら模写。

正直に言うと、最初は「なぜ模写をするのか」が全く理解できませんでした。意味が分からないことを続けるのはなかなか辛く、面白さも感じられず、「これに意味はあるのか?」と疑問ばかりが浮かんでいました。

けれど、後になってその理由が少しずつ分かってきます。初心者にとって模写は基礎であり、観察力や手の動きを鍛えるための大切なプロセスだったのです。

実際、何枚か描いていくうちに、わずかではありますが自分でも上達を感じる瞬間がありました。やってみて初めて、手描きとCGがまったく別物であることも実感しました。デジタルとは違い、線一本にも技術が必要で、思った以上に「描く力」が問われる世界でした。

そんな中で、ふと「女の子の絵を描きたい」と思ったことを覚えています。

不思議なもので、そのときは実際に描くことはありませんでしたが、頭の中ではずっとイメージしていました。構図や表情、雰囲気のようなものをぼんやりと。

そして今、こうして改めて絵を描いている自分は、もしかするとあのとき頭の中にあったイメージを、ようやく現実にしているのかもしれません。

2026年3月22日日曜日

2年間のゲーム制作が黒歴史になった話





2024年から2025年にかけて、僕は本気でゲーム制作に打ち込んでいた。もともとずっとやってみたかったことだったし、仕事の時間も最低限に抑えて、ほとんどの時間を制作に費やしていた。

あの頃は、「ここまでやれば何かしら結果が出るだろう」と思っていた。でも、振り返ってみると、現実はかなり厳しかった。

売上という意味では、正直に言って惨敗だったと思う。

それでも、完全に何も残らなかったわけではない。最終的に10本以上のゲームを完成させることができた。ただ、その内容は他人から見れば中途半端に映ったかもしれない。

自分の中でのこだわりははっきりしていて、グラフィックに全力を注いでいた。プログラミングが得意ではなかったこともあり、ゲーム性にはあまり重点を置かなかった。この判断が良くなかったのは間違いないと思う。

さらに大きかったのは、「自分が作りたいゲーム」と「世間が求めているゲーム」のズレだった。

自分の作品は自分では気に入っている。でも、それが他人にも受け入れられるかというと、話は別だ。そのギャップは最後まで埋まらなかった気がする。

ただ、グラフィックに全振りした制作スタイルは、いかにも自分らしいとも思う。他の人とは少し違う感覚で作っていたのかもしれない。

後半は、いわゆる“バイブコーディング”にもかなり力を入れた。ただ、Unityのような高機能なエンジンを使っていたわけではなく、自分のやり方には限界もあった。それも含めて、自分らしい結果だったと思う。

器用に何でもこなせるタイプではなかった。でも、それでも制作をやり切ったという事実だけは残った。

この2年間が無駄だったのかどうかは、まだわからない。

ただ一つ言えるのは、「グラフィックにすべてを賭けた」という確かな記録だけは、自分の中に残っている。

2026年3月21日土曜日

iPhone17eを買う直前に感じたこと

今使っているスマホは、気づけばもう6年。さすがに動作も重くなり、そろそろ買い替え時かなと考えている。

そんな中で目に入ったのがiPhone17e。これまで一度もiPhoneを使ったことはないけれど、「デザインが良い」というイメージはずっと持っていた。

ただ、最近のiPhoneを見ていると、その印象が少し変わってきた気がする。昔のiPhoneは、無駄を削ぎ落としたような洗練された美しさがあった。それに比べると、今はどこか方向性が変わってきているように感じる。

理由はいろいろあるのだろう。技術の進化やユーザーのニーズに応えるため、機能性がどんどん優先されてきた結果かもしれない。新しい機能やアップデートがなければ売れない時代になり、その積み重ねが本体デザインに影響しているのだと思う。

機能が増えるほど、見た目が少しずつ複雑になっていく。結果として、かつてのようなシンプルで美しい印象は薄れてきた。そこは正直、少し残念に感じる部分でもある。

とはいえ、完全に魅力がなくなったわけではない。今でもiPhoneらしいシンプルさや統一感はしっかり残っているし、全体としての完成度はやはり高い。

もう一つ悩ましいのが価格だ。昔なら5万円前後でスマホが買えた感覚があるが、今のiPhoneは10万円クラスが当たり前。スマホにそこまでの価値があるのか、と考えてしまう。

性能を見ればパソコンに近いレベルとも言えるし、物価の上昇を考えれば仕方がないのかもしれない。ただ、気軽に買い替えられる金額ではないのも事実だ。

キャリアの「返却プログラム」を使えば実質半額で持てる場合もあるが、あれは2年で手放す前提。いわばリースのようなものだと感じている。

自分は格安SIMを使っているので、キャリアの高い料金プランは正直合わない。だからこそ、簡単に買い替えるわけにもいかない。

長く使う前提で考えると、なおさら慎重になる。

2026年3月20日金曜日

少しいい絵が描けた気がする日。

相変わらず毎日、作風を試行錯誤しているのだけれど、今日は少しだけ「これ、いいかも」と思える一枚ができた気がする。

どこがいいのかと聞かれると、正直うまく言えない。雰囲気なのか、バランスなのか。ただ、なんとなく「しっくりくる」感じがあった。

それでふと、自分が描きたい絵の方向が少し見えたような気もした。はっきり言語化できるわけじゃないけれど、「こういう感じなんだろうな」という輪郭が、ぼんやり浮かんできた。

そんなことを考えていたら、もう3月も終わりそうだ。
4月が来るのがやけに早く感じて、少し焦る。

今年に入って、自分は何をしていたんだろうと思う。結局ずっと試行錯誤していただけなんじゃないか、と。

もちろん、それなりにいろいろやってきたつもりではある。でも、目に見える結果という意味では、何かを掴めたとは言い切れない。

だからこそ、「この絵でいい」と自分で区切りをつけるのも一つの答えなのかもしれない。
これが今の自分の到達点だと認めること。

無理やりでも納得する、というのも時には必要なのだろうか。

話は変わるけれど、実はコートを買い替えた。

10年着ていたスプリングコートがさすがにボロボロになって、ついに手放した。
とはいえ、新しいコートを選ぶのもなかなか面倒で、店舗も見て回ったけれどピンとくるものがなかった。

結局、「もういいか」と思ってAmazonで適当に購入。

10年前に3万円で買ったコートに対して、今回は5千円。品質の違いはあるのかもしれないけれど、見た目だけで言えばそこまで大きな差は感じない。

少なくとも、10年着続けて傷んだコートよりはずっといい。

別に節約しているつもりでも、困っているわけでもない。
ただ単純に、「10年も着たら十分だろう」と思っただけだ。

絵のことも、こういう日常のことも含めて、今はまだ途中なのだと思う。
それでも、少しでも「これでいい」と思える瞬間があるだけで、救われる気がする。

なんとなく晴れない毎日。

毎日のように絵は描いているのに、それだけが原因じゃない気がしている。むしろ、いろんな小さな「引っかかり」が積み重なって、気持ちがモヤっとしている感じだ。

最近は家庭の事情でやらなければいけない作業もあって、正直ちょっと面倒に感じている。本来なら業者に頼めば済む話だけど、そこそこ費用がかかるので結局自分でやることに。やればできるとはいえ、気が重いのは変わらない。

それとは別に、スマホの買い替えもずっと気になっている。今使っているものはもう6年目。ここまで長く使う人もあまりいない気がする。

次はiPhoneにするかどうかで迷っているけれど、これまで使ったことがないので少し不安もある。eSIMの設定も少し面倒そうだし、何より価格が10万円前後というのがなかなか厳しい。

今のスマホ自体は気に入っているのに、「古いものを使い続けている」という事実が、どこか引っかかってしまう。こういう小さな違和感も、積み重なると意外と気になるものだ。

さらに言えば、PCも5年使っているので買い替えを考えたけれど、特に壊れているわけでもない。欲を出さなければ、まだ数年は使えそうだと思うと、決断も先送りになる。

やりたいことはいろいろあるのに、なかなか手をつけられない。進めたいのに進めていない感覚がずっとある。

もしかすると、この「停滞している感じ」こそが、今のモヤっとの正体なのかもしれない。

絵のことも、仕事のことも、全部含めて。
少しずつでも前に進めていけたらいいのだけれど。

2026年3月17日火曜日

戦争と仕事とアートについて考えてみた

最近の世界情勢は、どこか物騒になってきている。

いくつかの国では戦争が起きており、ニュースでもその話題が毎日のように流れてくる。

そんな状況の中で、日本がとても平和な国であることに、ふと不思議さを感じることがある。
多くの人が毎日三食の食事をとり、日常生活を普通に送っている。
少なくとも、日本国内にいる限り「危機」という実感はあまりない。

それでもニュースでは戦争の話題が絶えない。
見ようと思わなくても、自然と耳に入ってくる。

そういう情報に触れるたびに、
「自分には何ができるのだろう?」
と考えてしまうことがある。

しかし冷静に考えると、個人の力で外国の戦争を止めることはできない。
どれだけ心配しても、それだけで戦争が終わるわけではない。

もちろん、遠い国の出来事でも日本に間接的な影響はある。
経済やエネルギー価格など、世界はつながっているからだ。
それでも、個人レベルでできることは限られている。

もし現実的に行動するとすれば、投資という形で関わることくらいだろう。
FXや株式市場、原油先物などは戦争や国際情勢に敏感に反応する。
投資家にとっては、大きなチャンスになる場面もある。

しかし多くの人にとっては、ただニュースを見ているだけで終わることがほとんどだ。

それならば、あまり複雑に考えすぎず、自分の仕事に集中する方が良いのではないだろうか。
目の前の仕事に取り組み、日々積み重ねていくこと。
その方が、未来に残るものを作ることにつながる気がする。

遠くの出来事ばかり気にしていても、自分の人生は前に進まない。

だからこそ、自分の場合はアートを描くことに集中したいと思う。
作品を作り続けることでしか、成長することはできない。

世界の出来事に無関心になるわけではない。
ただ、自分のエネルギーを向ける場所は選びたい。

美人を描くことはありなのか

 僕はこれまで、たくさんの絵を描いてきました。 振り返ってみると、描いているのはほとんど美人ばかりです。 なぜそうなるのか。 理由はとても単純で、 僕が美人を描くのが好きだからです。 ゲームを選ぶときも、僕は少し似た感覚があります。 ゲームの内容やジャンルももちろん重要ですが、僕...