2026年9月5日土曜日

美人を描くことはありなのか

 僕はこれまで、たくさんの絵を描いてきました。

振り返ってみると、描いているのはほとんど美人ばかりです。

なぜそうなるのか。

理由はとても単純で、僕が美人を描くのが好きだからです。

ゲームを選ぶときも、僕は少し似た感覚があります。

ゲームの内容やジャンルももちろん重要ですが、僕の場合、主人公が可愛い女性かどうかをかなり重視します。

RPGでもアクションゲームでも、それぞれストーリーや世界観、グラフィックは違います。

しかし、大きく見れば、アクションゲームならジャンプしたり、敵を倒したりする。RPGならレベルを上げたり、物語を進めたりする。

基本的な部分は似ているゲームも多いと思います。

そんな中で僕が特に重要だと感じるのは、誰を操作するのかということです。

どうせゲームを遊ぶなら、可愛い女性を主人公として遊びたい。

キャラクタークリエイトができるゲームなら、自分好みの女性キャラクターを作りたいと思います。

そして、これは絵を描くことにも同じように当てはまります。

どうせ時間をかけて絵を描くなら、自分が見たいものを描きたい。

僕の場合、それが美人の女性です。

「美術において美人を描くことはどうなのか?」

そう思う人もいるかもしれません。

美人を描くことは芸術ではない。

美しい女性を描くのは安易だ。

もっと別のものを描くべきだ。

そんな考え方を持っている人もいるかもしれません。

でも、正直なところ、僕にはあまり関係ありません。

たとえ美術の世界に「こういうものがアートだ」という考え方があったとしても、僕自身が描きたいと思うものは変わりません。

僕は美人を描きたい。

それだけです。

もし僕が絵を買う側だったとしても、やはり美人が描かれた絵を選ぶと思います。

つまり、自分が描く側でも、買う側でも、僕は同じものを選ぶということです。

僕自身が美人の絵を好きだから描く。

そして、おそらく僕の絵を買ってくれる人も、同じように美人の絵が好きだから買ってくれる。

そう考えると、今の自分の方向性は間違っていないと思っています。

美人を描くことが邪道なのか、正統なのか。

芸術的に正しいのか、間違っているのか。

そんなことは、僕にとってはそれほど重要ではありません。

自分が好きなものを描く。

自分が欲しいと思う絵を描く。

そして、それを好きだと思ってくれる人に届ける。

僕はこれからも、美人を描き続けたいと思っています。

2026年8月31日月曜日

無難なものより、少し尖ったものが好き

世の中の商品には、大きく分けると「無難なもの」と「ちょっと変わったもの」があると思います。

無難な商品は、多くの人が使いやすいように作られていて、評価も安定しています。一方で、少し変わった商品には癖があり、どうしても賛否が分かれます。

例えばスマートフォンです。

基本的には、どのメーカーのものも縦長の画面を中心とした似たような形をしています。でも最近では、折りたたみスマートフォンのような、少し変わった製品も出てきました。

もちろん、普通のスマートフォンよりも厚かったり、価格が高かったりと、何らかの癖があります。それでも「普通とは違う」というところに魅力を感じる人もいます。

僕は、どちらかというと、そういう「ちょっと変わったもの」が好きな方なのかもしれません。

これは絵についても同じです。

普通の絵なら、誰が見ても「女性が描かれている」「花が描かれている」「風景が描かれている」と、ある程度は内容を理解できます。

一方、現代アートになると、何を表現しているのかわかりにくい作品もあります。

もちろん、現代アートだから変わっていればいいというわけではありません。でも、現代アートには「普通とは違うこと」に価値を見出す傾向があります。

ただ、変わりすぎると、今度は見る側がついていけなくなります。

「これは一体何なのか?」

「何を表現しているのか?」

「そもそも、作者自身は何を描いているのかわかっているのだろうか?」

そんなことを考えてしまう作品もあります。

作者自身が何を表現しているのかわからないのであれば、見る側にはもっとわからないですよね。

だから僕は、尖ったものは面白いと思う一方で、尖りすぎると難しくなるとも思っています。

そして、ここで少し自分でも不思議に思うことがあります。

僕は以前から、「みんなが評価しないものに興味を持つことがある」と話してきました。

例えば、世間で「この製品は使いにくい」「これはダメな商品だ」と悪い評価を受けているものがあったとしても、なぜか僕は気になってしまう。

もちろん、実際に使ってみて自分にも合わないことはあります。

でも、世間で評価されていないものを見ると、

「なぜ、みんなはこれを嫌うんだろう?」

と、逆に興味が湧いてくることがあります。

2026年8月30日日曜日

夢を追いかけるのはありか?!

「絵を描くことを仕事にしたい」と思った人がいたとして、それが本当に叶うのか。今回はそんなことを少し考えてみたいと思います。

僕は昔から「夢は絶対に叶う」といった言葉が、あまり好きではありませんでした。若い頃には夢を持っていた時期もあったと思います。でも年齢を重ね、現実に何度も打ちのめされてくると、努力すれば夢が必ず叶う、というほど単純なものではないと感じるようになりました。

だから僕自身は、「夢を追いかけてきた」という感覚はあまりありません。

その時々で、自分にできることをやってきただけです。3DCGをやったり、Web制作をやったり、ゲームを作ったり。その中に絵を描くこともありました。

15年ほど前には、現代アートに強く興味を持つようになりました。それ以前から絵は描いていましたが、特に明確な方向性があったわけではありません。

きっかけの一つは、身近にパースやCGを描いている人がいたことでした。その人の作品に影響を受け、自分もCGをやるようになった。その人自身も、今考えると現代アートのような抽象的な作品を描いていました。当時の僕には、正直「何を描いているんだろう」と思うような作品でした。

その後、自分自身が現代アートに興味を持ち、いろいろ見たり考えたりするうちに、少しずつそちらの方向へ進んでいきました。

振り返ってみると、僕は夢を追いかけてきたというより、その時にできること、興味を持ったことを続けてきたのだと思います。

そして、その積み重ねの先に、今の自分の創作や絵がある。

だから、気がついたらここまで来ていたというほうが、自分にはしっくりきます。

2026年8月25日火曜日

最近、公式サイトを少しずつ更新している。

昔販売してたNFTアートの作品
昔販売してたNFTアート

 最近、公式サイトを少しずつ更新している。

といっても、最近は大きな変更ではなく、本当に細かい部分ばかりだ。普通にサイトを見ている人なら、おそらく気がつかないような部分を調整している。

たとえば、ほんの少し色が気になった部分を修正したり、間違えて未完成の作品を掲載していたことに気づいて差し替えたり。細かい部分を何度も見直していると、「こんなことをして意味があるのかな」と思うこともある。

それでも、少しずつサイトの完成度は上がっていると思う。

このサイトはトップページ1ページだけのシンプルなサイトだけど、今の自分がやっていることは、ほぼすべてこの中に入っている。作品や活動を見てもらえれば、今の自分が何をやっているのかがわかるようなサイトになってきた。

ただ、細かい部分ばかり調整していると、意外と疲れる。作業自体は面白いんだけど、ずっと画面を見ながら細部を気にしていると、やっぱり疲れてくる。

だから最近は、毎日少しずつ、休みながら更新している。

最近の変更だけを見ると、ほとんど変わっていないように見えるかもしれない。でも、1か月前の状態と比べると、作品も増えたし、サイト全体もかなり変わったと思う。

そんな感じで、今日もちょこちょこと公式サイトを更新しています。


アート業界の闇について思うこと

 最近、アート業界では「新人の画家が育たない」と言われることがある。もちろん、それにはさまざまな理由があると思うが、僕は業界の中にある暗黙のルールや固定観念も、その一因ではないかと思っている。

「こういう作品はダメ」「そんなやり方は認められない」「こうするべきだ」といった、昔から続く価値観がある。もちろん、経験者からのアドバイスがすべて悪いわけではない。しかし、それが強すぎると、新人は自由に作品を作れなくなってしまう。

先日も、ある有名な画家の発言に対して賛否両論が起きていた。具体的な内容はここでは触れないが、こうした「こうあるべき」という発言を、影響力のある人が繰り返すことで、新しい才能の芽を潰してしまうこともあるのではないだろうか。

極端に言えば、大物になった人にとって、新人が成長すれば将来のライバルになる。しかし、その大物自身も、若い頃はきっと自由に好きなことをやってきたはずだ。それなのに立場が変わると、今度は新人にルールを押し付ける側になってしまう。

これはアート業界だけの話ではなく、音楽など他の業界にもあるように思う。

本来、アートはもっと自由でいいはずだ。もちろん何をしてもいいというわけではないが、少なくとも「昔からこうだから」という理由だけで、新しい表現を否定する必要はない。

新人が育たないのではなく、もしかすると育つ前に、周囲の価値観によって自由な芽を摘まれているのかもしれない。

僕は、そんな業界の構造が少し気になっている。

2026年8月24日月曜日

最近、ある画家の作品を見て「この人はすごいな」と思った。

その人は画家として活動しながらYouTubeもやっていて、自分の絵画教室で生徒に教えている。以前からYouTubeがおすすめに出てきたので、たまに動画を見ていた。

下積み時代の話や、絵をどうすれば売れるのかといった話をしている人、という印象だった。しかし、その時は本人がどんな絵を描いているのか、ほとんど知らなかった。

最近になってXで作品を見る機会があり、初めてちゃんと絵を見た。

すると、ものすごく上手かった。

女性を描いた写実画なのだが、単純に写真のように上手いだけではない。発想が自由で、女性を描くというテーマの中にも独特の感覚がある。技術だけではなく、作品そのものに魅力を感じた。

正直、もし自分がお金持ちだったら、その人の絵を買いたいと思った。

普段、他の画家について「この人の作品が欲しい」と思うことはあまりない。だからこそ、自分でも少し驚いた。

YouTubeを見ていた時には、その人の本当のすごさに気づいていなかった。作品をちゃんと見て初めて、「ああ、この人は本当にすごい画家だったんだ」と思った。

こういう発見は、なかなか面白い。

2026年8月19日水曜日

サイトを作ることも、ひとつの創作

最近、また公式サイトを少しずつ更新しています。

いくつか作品を追加したり、細かい部分を変更したりしているのですが、これが意外と楽しい。

僕は以前からWeb制作を仕事にしてきたので、サイトを作ること自体には慣れています。でも、改めて考えてみると、サイト制作も一つの「創作」なんですよね。

絵を少しずつ描いていくのと同じように、サイトも少しずつ手を加えていく。

ここを変えたらどうだろう、もう少しこうしたほうがいいんじゃないか、と考えながら更新していく。

そして面白いのは、Webサイトには「完成」がないことです。

手をかければかけるほど、少しずつ良くなっていく。

大きな変更をしなくても、ちょっとした修正だけで見た目が変わる。それがまた面白い。

考えてみると、僕は絵でもゲームでもWebサイトでも、何かを「作る」ということ自体が好きなのかもしれません。

逆に、決められたことを淡々と繰り返すような作業は、あまり好きではありません。

会社員時代にもそういう仕事はありましたが、どうも自分には向いていなかった。

何かを考えて、試して、少しずつ形にしていく。

そういう創作的な仕事のほうが、やっぱり自分には合っている。

最近サイトを更新しながら、改めてそんなことを感じています。

どうやら僕は、何かを作っているときが一番楽しいみたいです。

みんなの評価を、僕はあまり信じない

 最近、ネット上の「みんなの評価」を、あまり当てにしないようになりました。

ゲームでも本でも、世間で「名作」「最高傑作」と評価されているものを実際に体験してみると、「それほどでもないな」と感じることがあります。

逆に、ネットで「つまらない」「おすすめしない」と言われているもののほうが、自分には面白かったりする。

僕の場合、世間の評価と自分の評価が、逆になることが結構あるんです。

なぜなんだろう、と考えてみると、そもそもネットの評価は「みんなの意見」ではないのかもしれません。

例えばAmazonのレビューでも、商品を買った人全員が評価するわけではありません。

評価する人には、もともとその作品や作者のファンだったり、強い思い入れがあったりする人もいる。

そういう人たちの評価が集まって、「高評価」という結果になっている可能性があります。

さらに、人間には「みんながいいと言っているから、きっといいものなんだろう」と考えてしまうところがあります。

高評価を見て購入し、その人も高評価をつける。

そうやって評価がさらに強化されていくこともあるでしょう。

だから僕は、評価の数字だけを見て「これは良いものだ」とは判断しません。

むしろ、評価が低いものを見ると、

「なぜこんなに評価が低いんだろう? 自分が試したらどう感じるんだろう?」

と逆に興味が出ることがあります。

もちろん、単なる逆張りをしたいわけではありません。

大切なのは、他人の評価と自分の評価を分けることだと思っています。

みんなが「最高」と言っていても、自分にはつまらない。

それなら、それでいい。

みんなが「ダメだ」と言っていても、自分は面白いと思う。

それも、それでいい。

他人の評価は参考にはできる。

でも、最終的に「いい」「悪い」を決めるのは、自分自身です。

世の中には、ランキングや星の数、口コミなど、他人の評価があふれています。

だからこそ、

「みんながどう思っているか」ではなく、「自分はどう思ったのか」

を大切にしたいと思っています。

2026年8月10日月曜日

作品を公式サイトに掲載しました

YUMI Art Projectの公式サイトに、過去に制作した作品を3点ほど掲載しました。

https://yumi.cyakusin.net/

どれも、これまでYahoo!オークションで販売し、実際に購入していただいた作品です。

本当はこれ以外にも過去の作品はたくさんあるのですが、サイトのスペースなどの関係もあり、今回は9点に絞って掲載してみました。

今回、過去作品を掲載しようと思ったのには、ちょっとした理由があります。

それは、僕の作品をあまり知らない人に、

「これまで、こんな作品を作ってきたんだ」

ということを知ってもらいたかったからです。

現在販売している作品については、公式サイトを見れば分かります。

でも、ふと考えてみると、アーティストや画家が「過去にどんな作品を作ってきたのか」というのは、意外と分からないものなんですよね。

例えば、ある画家の公式サイトを見ても、現在販売されている作品や最近制作された作品は掲載されている。

でも、

「この人は10年前にはどんな作品を作っていたんだろう?」

「以前はどんな表現をしていたんだろう?」

ということになると、なかなか分からない。

もちろん、長い活動歴がある作家なら、個展や展覧会の記録などから過去の作品を見ることができる場合もあります。

でも、すべての作品が残されているわけではありません。

そして、これは見る側からすると、結構もったいないことだと思うんです。

作品というのは、現在の一枚だけで突然生まれたものではありません。

それまでに作ってきた作品があって、その経験や試行錯誤があって、その先に現在の作品があります。

だから、過去の作品を見ることで、

「この人はこういう作品を作ってきたんだ」

「以前はこういう表現をしていたんだ」

「そこから今の作品につながっているんだな」

ということが、少しずつ見えてくる。

僕自身も、改めて過去の作品を見返してみると、以前は気づかなかったことに気づくことがあります。

当時は単純に「この作品を作ってみよう」と思って制作していたものでも、後から見ると、

「この作品から今の方向性につながっているのかもしれない」

と思うこともあります。

2026年8月9日日曜日

この作品が、これからの方向性を示しているのかもしれない

そして、改めてその作品を見返してみたんですが……。

「これは、自分の中でもかなりの傑作なんじゃないか」

そんなふうに思いました。

もちろん、自分で作った作品ですから、どの作品にもそれぞれ思い入れはあります。

でも、この作品には、今までの作品とは少し違うものを感じるんですよね。

何というか、自分がこれから作っていく作品の、一つの起点になっているような感じがするんです。

作品自体は、決して複雑なものではありません。

一人の女性が少し横を向いて、何かを考えているような表情をしている。

背景も、ほとんど何もありません。

女性はショートヘアで、赤い着物を着ています。

全体的に、とてもシンプルです。

それなのに、なぜか印象に残る。

派手な演出があるわけでもないし、背景を細かく描き込んでいるわけでもない。

それでも、何となく頭の中に残り続けるんです。

自分でも、この作品は以前からかなり気に入っていました。

そして今回、作品が売れたことをきっかけに、改めてじっくり見てみると、

「もしかすると、この作品には、自分がこれまで作ってきたものが集約されているのかもしれない」

そんなことを思いました。

これまで自分はいろいろな作品を作ってきました。

いろいろな表現を試して、色や構図を変えて、背景を作り込んだり、装飾を加えたりしてきました。

でも、最終的に自分が惹かれているのは、もしかすると、そういう「足していく表現」ではなく、必要なものだけを残して、シンプルにすることなのかもしれません。

女性の表情。

髪型。

着物。

色。

そして、何もない背景。

それだけでも、作品として成立する。

むしろ、余計なものがないからこそ、見る人の中に何かが残る。

この作品を見ていると、そんなことを感じます。

そして、この作品がこれからの自分の作品の方向性を、少し示しているような気もしています。

もちろん、これから何を作っていくのかは、まだ分かりません。

また違う方向に進むかもしれません。

でも、今回この作品を改めて見たことで、

「自分は、こういう作品を作りたかったのかもしれない」

という感覚が、少しだけ見えてきたような気がします。

先日売れたことで、この作品は自分の手元から離れていきました。

でも、手元から離れたからこそ、逆に少し距離を置いて見ることができた。

そして今になって、この作品が自分にとってどんな意味を持っていたのか、少し分かってきたような気がします。

もしかすると、この作品は一つの「完成」ではなく、これからの作品の始まりだったのかもしれません。

自分のこれまでの作品の集大成でありながら、同時に、これから先の方向性を示している。

そんな不思議な位置にある作品なのかもしれません。

大きな目標を見すぎない

「夢は叶う」「夢は必ず叶う」よく聞く言葉ですよね。

前向きで、とても良い言葉だと思います。

ただ、僕自身は昔から、この言葉があまり好きではありません。

もちろん、「そんなことを言ってはいけない」という意味ではありません。若い頃なら、むしろ「夢は叶えることができる」と信じていたほうがいい場合もあると思います。

何かを始める前から、

「どうせ無理だ」

「そんな簡単にいくわけがない」

と思ってしまったら、何も始まりませんからね。

でも、ある程度人生を経験してくると、少し考え方が変わってきます。

世の中は、そんなに簡単ではない。

自分が努力したからといって、必ず結果が出るわけではない。

むしろ、努力しても思うようにいかないことのほうが、たくさんある。

そういう現実が、だんだん見えてくるからです。

だから僕は、

「夢は叶う」

と簡単に言い切ることに、少し違和感があります。

「叶える」より「続ける」

では、どう考えたらいいのか。

ウサギより、カメのほうがいい

以前、「ウサギとカメ」の話をしたことがあります。

僕は、人生では「ウサギ」より「カメ」のほうがいいのではないかと思っています。

ウサギは速い。

一気に大きく前進することもできます。

でも、途中で休んでしまう。

一方、カメは遅い。

それでも、一歩ずつ進んでいく。

もちろん、人生は童話のように単純ではありません。

カメのように努力したからといって、必ずウサギに勝てるわけでもない。

どれだけ頑張っても、目標に到達できないこともあります。

それでも、歩き続けていれば、少なくとも昨日よりは前に進んでいる。

僕は、この感覚が大切なのではないかと思っています。

「夢が叶うかどうか」は、分からない

人生をある程度経験すると、夢が叶うかどうかなんて、自分には分からないということが分かってきます。

努力しても失敗することがある。

才能があっても評価されないことがある。

逆に、思いがけないところからチャンスが来ることもある。

運もあります。

タイミングもあります。

人との出会いもあります。

だから、

「努力すれば夢は必ず叶う」

とは、僕には言えません。

でも、

「夢が叶うかどうかは分からない。それでも、自分がやりたいことを続ける」

ことはできます。

そして、そのほうが精神的にも楽なのではないでしょうか。

「絶対に成功しなければならない」と思ってしまうと、結果が出なかったときにつらくなります。

でも、

「今日は少し進めればいい」

と思えば、続けることができます。

大きな目標を見すぎない

大きな目標を持つこと自体は、悪いことではありません。

むしろ、目標があるからこそ、今やっていることに意味を感じられることもあります。

ただ、大きな目標ばかりを見ていると、現在との距離があまりにも遠く感じられてしまいます。

「まだこんなに遠い」

「全然、目標に近づいていない」

そう考えてしまう。

だから、ときには目標を見るのをやめて、目の前を見る。

今日やることをやる。

明日もやる。

できない日は休む。

そして、またやる。

その繰り返しでいいのではないでしょうか。

振り返ってみたら、いつの間にかかなり遠くまで来ていた。

もしかすると、大きな目標に到達する人というのは、最初から「夢を叶えよう」と必死になっていた人ではなく、毎日を淡々と積み重ねることができた人なのかもしれません。

夢は、必ず叶うとは限らない。

でも、歩き続けることはできる。

だから僕は、

「夢を叶えなさい」よりも、
「カメのように、少しずつでもいいから歩き続けなさい」

という考え方のほうが、今の自分にはしっくりきます。

そして、人生では案外、そのくらいのほうが長く続くのかもしれません。

2026年8月8日土曜日

私が影響を受けたCGクリエイター「森田さん」

私が大きな影響を受けた人物の一人が、森田さんです。

これは今から約25年前、2000年頃の話になります。当時、私は森田さんが制作した3DCGを毎日のように見て研究していました。ただ眺めるだけではなく、「どうやって作っているのだろう」と考えながら、何度も作品を見返していたことを覚えています。

森田さんは、私と同じCAD系の3DCGソフトを使って作品を制作していたプロのクリエイターです。私は勝手に「先輩」のような存在だと思っていました。

森田さんの作品を見たことで、私は建築や工業デザインのような無機質で美しい造形にも強く興味を持つようになりました。作品そのものだけでなく、そのデザインセンスや空気感からも多くを学んだと思います。

今回掲載した作品は、おそらく約30年前に制作されたものです。

今の目で見ると、最新の3DCGと比べて技術的な違いはあります。しかし、当時の制作環境を知っている人なら、その凄さがよく分かるはずです。

30年前は、日本でも3DCGはまだゲームで少し使われ始めた程度の時代でした。本格的なポリゴンゲームが一般的になる前で、現在のようにリアルタイムで高品質な映像を表示できる環境ではありません。

レンダリングも非常に時間がかかり、高品質な静止画を1枚仕上げるだけで何日もコンピューターを動かし続けることも珍しくありませんでした。

そんな時代に、ここまで完成度の高い作品を作り上げていた森田さんは、本当に先駆者だったと思います。

私は森田さんとはメールで何度もやり取りをさせていただきました。同じソフトを使っていたこともあり、制作方法やソフトの情報交換をする機会もありました。実際にお会いしたのは一度だけですが、その交流は私にとってとても貴重な経験でした。

もちろん、現在の3DCG技術は当時とは比べものにならないほど進化しています。ハードウェアの性能も、ソフトウェアの機能も、制作環境もまったく別世界です。

それでも、限られた環境の中でこれほど完成度の高い作品を生み出していた30年前のクリエイターたちには、今見ても学ぶべきものがたくさんあります。

私にとって森田さんは、3DCGという世界の面白さを教えてくれた、大切な存在の一人です。

2026年8月3日月曜日

女性を描くことは、自分への慰めだったのかもしれない

 以前、自分は「女性を描くことは、自分への慰めになっているのではないか」という話をしたことがあります。

そのときは、自分でもはっきり答えが出ず、「よくわからない」という結論になりました。

でも最近、改めて考えてみると、「やっぱり慰めだったんだな」と感じるようになりました。

もちろん、「慰め」という言葉だけでは少し違う気もします。

でも、自分の心を落ち着かせたり、過去と向き合ったりする意味では、この言葉が一番近いように思います。

20代の頃、僕にはとても好きだった女性がいました。

とても美しい人で、僕はその人に夢中になりました。

結局は片思いのまま終わりましたが、その想いは自分でも驚くほど強く、人生の大きな部分を占めていたように思います。

振り返ると、あの頃の経験によって、自分の人生は大きく変わりました。

「人生が狂った」と言うと少し否定的に聞こえてしまいますが、必ずしも悪い意味だけではありません。

後悔しているわけではないのです。

あの経験があったからこそ、今の自分がいて、女性を描き続ける理由にもつながっているのだと思います。

だから、女性を描くことは単に「美しいものを描きたい」というだけではありません。

自分の中に残り続けている想いや憧れ、言葉にできなかった感情を、絵という形で表現しているのかもしれません。

それが結果として、自分自身の心を少しずつ癒やし、慰めてくれている。

最近になって、そんな気がするようになりました。

人は過去の出来事を簡単に忘れることはできません。

でも、その経験を創作へと変えることはできます。

もしかすると、僕が描き続けている女性たちは、誰か一人を描いているのではなく、自分の心の奥にある憧れや想いを映し出した存在なのかもしれません。

そう考えると、これまで描いてきた一枚一枚の作品にも、少し違った意味が見えてくるような気がしています。


2026年7月30日木曜日

私が影響を受けたアーティストと、創作の原点


実は、絵を描くうえで「この人の作品を目標にしてきた」という存在は、それほど多くありません。

一番影響を受けたと言えるのは、若い頃に出会ったアンディ・ウォーホルです。

当時は現代アートについてほとんど知識がなく、ウォーホルの作品だけが強く印象に残っていました。特に有名なキャンベル・スープ缶を描いた作品には、大きな衝撃を受けました。

ちょうど東京でウォーホル展が開催されていたこともあり、実際に作品を見に行ったのですが、本物を目の前にしたときのインパクトは今でも覚えています。

その影響もあって、一時期はポップアートを意識した作品を描いていたことがあります。

しかし、それ以降は「この作家に大きな影響を受けた」と言えるような人物は、ほとんどいません。

絵ではありませんが、3DCGを始めた頃には、とても尊敬していた人がいました。

建築デザインを手がけていた森田さんという方です。私にとっては先輩のような存在で、その方が制作する建築CGやデザインの完成度には、本当に驚かされました。

「いつか森田さんのようなグラフィックを作れるようになりたい。」

そんな憧れを持ちながら、必死に3DCGを学んでいた時期がありました。もう25年以上前の話になります。

振り返ってみると、創作において誰か一人の作風を追い続けてきたわけではありません。

むしろ、自分なりに現代アートとは何かを考え、独学で学び続けてきました。

現代アートというジャンルを本当に理解できるようになるまでには、何年もかかりました。本を読んだり、作品を見たり、自分なりに考えながら少しずつ理解を深めていったのです。

だからこそ、現在の作品は特定の作家を真似したものではなく、自分自身が積み重ねてきた経験や考え方から生まれたものだと思っています。

影響を受けた人は決して多くありませんが、その数少ない出会いと、長年の試行錯誤が、今の私の作品につながっているのです。

2026年7月28日火曜日

公式サイトで新作アートの販売を開始しました

このたび、YUMI Art Project公式サイトにて、新作アートの販売を開始しました。

https://yumi.cyakusin.net/

今回公開した作品は、これまでヤフオクで出品している作品とは異なる、新たなラインナップの一枚です。

作品には、赤い着物をまとった一人の女性が描かれています。何かを静かに見つめるその表情には、言葉では表現しきれない物語や感情が込められているような、落ち着いた雰囲気があります。

鮮やかな赤い着物が印象的でありながら、派手さだけではなく、静けさや気品も感じられる作品に仕上がりました。細部まで丁寧に描き込み、全体のバランスや色彩にもこだわった、完成度の高い一枚です。

公式サイトでは、今後もヤフオクとは異なる作品や、新作・代表作などを順次公開していく予定です。

ぜひ一度、公式サイトで作品をご覧いただければ幸いです。作品の世界観や細かな表現を楽しみながら、お気に入りの一枚を見つけていただければ嬉しく思います。

2026年7月24日金曜日

公式サイト限定作品の販売を始めるかもしれません

現在、私の作品は主にYahoo!オークションで販売していますが、今後は公式サイトからも直接購入できるようにしようと考えています。

販売するのは、これまで公開していなかった作品を中心とした「公式サイト限定」のラインナップです。

作品のジャンルは、これまでYahoo!オークションでご覧いただいているものと同じく、美少女をテーマにしたアートです。ただし、内容は少し違います。

Yahoo!オークションに出品している作品は、比較的多くの方に楽しんでいただけるような、幅広い好みに合う作品を選んでいます。

一方、公式サイトで販売を予定している作品は、私自身の個性がより強く表れた作品です。

一般的な人気を意識して制作したものではなく、「YUMI Art Project」が好きな方だからこそ楽しんでいただけるような、少しマニアックな作品も数多く含まれています。

まずは試験的に3作品ほど公開し、公式サイト限定で販売してみようと思っています。

販売方法はオークションではありません。

価格が入札によって変動するのではなく、あらかじめ決めた定価でご購入いただける形を予定しています。そのため、価格を気にすることなく、気に入った作品をそのままお選びいただけます。

公式サイトを訪れてくださる方は、作品に興味を持ってくださっている方や、YUMI Art Projectを応援してくださる方が中心だと思います。

だからこそ、オークションでは公開していない作品や、より個性的な作品をお届けできる場所として、公式サイトを育てていきたいと考えています。

まだ構想段階ではありますが、これまでとは少し違った作品との出会いを楽しんでいただけるよう、準備を進めていく予定です。 

2026年7月23日木曜日

絵の価値は誰が決めるのか 一次販売と二次販売から考える

業者はヤフオクで商品を購入し、自分の店舗で販売したり、海外のマーケットへ輸出したりしています。日本国内だけでなく海外へ流通するケースも珍しくありません。

もちろん、業者が最終的にいくらで販売しているのかは分かりません。私たちが確認できるのは、ヤフオクでの落札価格だけです。その後、どのくらいの価格で再販売されているのかは、ほとんど見えない世界です。

実は、私の作品「YUMI Art Project」の作品も同じだと考えています。

購入してくださるのは個人のコレクターだけではなく、関東や関西などの業者の方もいます。その後、店舗などで販売されていると思われますが、その価格は私には分かりません。

ただ、一般的な美術品や中古市場では、仕入れ価格より高い価格で販売されることが多く、場合によっては数倍の価格になることもあります。

つまり、私がヤフオクで販売した価格よりも、最終的に購入するお客様は、さらに高い価格で作品を手にしている可能性があるということです。


では、本当の作品の価値とは何でしょうか。

私は、作品の価値は単純に「最初の販売価格」だけでは決まらないと考えています。

作品がその後どのような市場で流通し、どれだけ求められ続けるのか。その需要こそが、本当の価値を映し出すのではないでしょうか。

私の作品についても、購入後にさらに高い価格で取引される可能性は十分あると思っています。実際に業者の方が仕入れているという事実を考えると、その可能性は決して小さくありません。

だからこそ、作品の価値は「今いくらで売れたか」だけでは測れません。

市場で長く評価され、人から人へ渡りながら価値を持ち続けること。その積み重ねこそが、本当の意味での作品の価値なのだと思います。

2026年7月22日水曜日

レトロパソコンは今や気軽に買えない趣味になってしまった


昔のパソコンやレトロゲームには、今でも興味があります。

以前は実際に何台か購入したことがありますが、ほとんどはヤフーオークションで手に入れました。こうした80年代のパソコンは、一般のお店ではほとんど見かけることがなく、中古市場で探すしかありません。

特に好きなのは、ファミコンが発売される前後、1983年頃のゲームです。

当時のゲームはとてもシンプルで、ルールも分かりやすく、短時間でも楽しめる作品が多くありました。その後、ゲームは急速に進化し、80年代後半になるとスクロールアクションや大作RPGなど、内容がどんどん複雑になっていきます。

もちろん、それはゲームの進化でもあるのですが、私はどちらかというと初期のシンプルなゲームに魅力を感じます。限られた性能の中で工夫して作られたゲームには、今遊んでも独特の面白さがあります。

ただ、今は価格が大きく変わってしまいました。

当時は比較的手頃な価格で購入できましたが、現在ではゲームソフト1本が5,000円程度、高いものでは1万円近くすることも珍しくありません。さらにパソコン本体まで購入すると、あっという間に数万円から十数万円の出費になってしまいます。

そこまでお金をかけても、実際に遊ぶ時間はそれほど長くないでしょう。懐かしさで遊び始めても、昔のゲームはシンプルだからこそ、短時間で満足してしまうことも多いと思います。そう考えると、現在の価格ではコストパフォーマンスはあまり良いとは言えません。

だから今は、「欲しい」という気持ちはあっても、実際に買うことはほとんどありません。

もし自由に使えるお金がたくさんあれば、昔のパソコンやゲーム機を集めてみたいという気持ちはあります。しかし、現実的にはそんな機会はなかなか訪れないでしょう。

レトロパソコンやレトロゲームは、私にとって今でも魅力的な存在です。ただ、それらは昔のように気軽に楽しめる趣味ではなくなってしまいました。

だからこそ、当時手頃な価格で手に入れることができた時代は、本当に恵まれていたのだと、今になって実感しています。

2026年7月19日日曜日

上達する人は「速い人」ではなく「続ける人」

 何か新しいことを始めると、「できるだけ早く上達したい」と思うものです。

だから、多くの人は学校へ通ったり、先生から教えてもらったりします。やはり、経験者から直接学ぶのは上達への近道です。

一方で、独学はどうしても時間がかかります。私自身も独学でいろいろ学んできたので、その大変さはよくわかります。

でも、最近思ったことがあります。

それは、上達するために一番大切なのは、毎日やることよりも「続けること」ではないかということです。

もちろん、毎日練習できれば上達は早くなります。毎日続けることで集中力も身につき、感覚も途切れません。

しかし、毎日やろうとして途中で挫折してしまったら、それで終わりです。

それなら、たとえ週に1回でも、何年も続けた人のほうが、最終的には大きく成長するのではないでしょうか。

上達のスピードは遅くても、継続していれば確実に前へ進みます。

これは、まるで「ウサギとカメ」の話のようです。

ウサギは速く走れますが、途中で休んでしまいました。一方、カメは遅くても一歩ずつ歩き続け、最後にはゴールへたどり着きました。

人生や仕事、趣味の上達も同じようなものだと思います。

速く進むことよりも、止まらずに続けることのほうが、結果的には強いのです。

学校に行けば成功するわけではない

以前、デザイン専門学校を卒業した人からこんな話を聞きました。

クラスの中で実際にデザイン関係の仕事に就いたのは、たった2人だけだったそうです。

その人自身はWebデザイナーになり、もう一人もデザイン業界へ進みました。しかし、それ以外の人はまったく違う職業に就いたそうです。

私は、この話は特別なことではないと思っています。

専門学校を卒業したからといって、全員がその業界へ進むわけではありません。

もちろん、学校で学ぶことには大きな意味がありますし、就職でも有利になることがあります。

しかし、最終的に評価されるのは、やはり自分が作った作品です。

私自身は学校で専門的に学んだわけではなく、独学でした。

それでも、これまで作ってきた3DCGやWebデザインなどの作品を見てもらい、それが評価されて採用していただきました。

結局は、学歴よりも「何を作れるか」が重要だったのです。

才能はある。でも、それだけではない

「才能は関係あるのか」と聞かれると、私は「あると思う」と答えます。

私の知る限り、絵がとても上手な人は、子どもの頃からすでに上手でした。

特別な教育を受けていなくても、小学生の頃から他の子より明らかに絵が上手な人はいます。

私自身も、子どもの頃から絵を描くのは得意でした。

そう考えると、絵にはある程度の才能が関係しているのかもしれません。

ただ、才能だけでは十分ではありません。

才能があっても努力しなければ伸びませんし、逆に飛び抜けた才能がなくても、長く続けることで大きく成長する人もいます。

結局、才能を活かせるかどうかは、その後の努力と継続にかかっているのだと思います。

続ける人が最後に強くなる

何かを始めると、どうしても「早く結果を出したい」と焦ってしまいます。

でも、本当に大切なのは、途中でやめないことです。

毎日できなくても構いません。

週に1回でも、月に数回でも、自分のペースで続けていけば、その積み重ねは必ず力になります。

上達には近道もあります。

しかし、それ以上に大切なのは、長く続けることです。

私は、最後に大きく成長する人とは、「一番速く走った人」ではなく、「最後まで歩き続けた人」なのだと思っています。

2026年7月17日金曜日

昔作っていた3DCG作品が、仕事につながった話

 最近、昔作っていた3DCG作品を見返す機会がありました。

これらは2000年頃に制作した作品です。当時は、自分で作ったホームページに掲載していました。今見るとHTMLを手打ちで作ったシンプルなサイトで、デザインも決して洗練されていたわけではありません。それでも、そのホームページが思わぬ形で仕事につながりました。

当時、私はWebデザイナーの面接を何度か受けました。

不思議なことに、多くの会社で比較的スムーズに採用してもらえたんです。

今考えてみると、HTMLやWebデザインと3DCGは直接関係があるとは言えません。しかし採用する側からすると、「この人は何か作れる人だ」「表現力がありそうだ」と感じてもらえたのかもしれません。

実際、私はWebデザインの専門家というわけではありませんでした。

HTMLは手打ちで書いていましたし、デザインの知識も独学レベルです。それでも、自分で作った3DCG作品をホームページで公開していたことが、自分自身を証明する材料になっていたのでしょう。

作品は何よりも強い自己紹介になる

最近、SNSで「絵描きになりたい」「デザイナーになりたい」という人をよく見かけます。

そんな人たちを見ていて思うのは、やはり作品が一番大切だということです。

もちろん、どこの学校を卒業したか、どんな会社で働いてきたかといった経歴も多少は見られるでしょう。

しかし、クリエイティブな仕事では最終的に問われるのは、

「どんな作品を作ってきたのか」

この一点ではないでしょうか。

ポートフォリオを見る前に、まず作品を見せてほしい。採用する側は、そんな気持ちなのだと思います。

実はポートフォリオを作るつもりはなかった

面白いことに、私は最初からポートフォリオを作ろうと思っていたわけではありません。

ただ、3DCGが面白くて仕方がなかったんです。

毎日のように、

「3DCGで何ができるんだろう」

「どこまで表現できるんだろう」

そんなことばかり考えていました。

作品を作るというより、技術や表現を実験していた感覚に近かったですね。

当時は「完成した作品を増やそう」という意識よりも、「3DCGという道具で新しい表現ができるか」を試すこと自体が目的でした。

アートにはまったく興味がなかった時代

意外に思われるかもしれませんが、この頃の私はアートにほとんど興味がありませんでした。

美術教育を受けたこともありませんし、現代アートについて知識もありませんでした。

「アートとは何か」

そんなことを考え始めたのは、ずっと後のことです。

2000年頃は、純粋に3DCGという技術に夢中でした。


その後、5年ほど経ってから、現代アートや表現そのものについて興味を持ち、本格的に研究するようになります。

今振り返ると、技術だけを追いかけていた時代があったからこそ、その後のアート活動にも自然につながっていったのだと思います。

フリーランスになりたい人へ。20年以上フリーで活動して思う、一番大切なこと

最近、SNSを見ていると「会社を辞めてフリーで働きたい」という人をよく見かけます。

私は20年以上フリーで活動してきました。その経験から言うと、フリーランスとして成功するために一番大切なのは、スキルや才能だけではありません。

生活を維持できる環境があるかどうかです。

フリーランスは収入が安定しない

フリーで働く以上、収入は常に変動します。

仕事がたくさんある月もあれば、ほとんど収入がない月もあります。

これはどれだけ実力があっても避けられないことで、市場の状況や景気、タイミングにも大きく左右されます。

だから、「毎月決まった給料が入る」という会社員とは、根本的に違う働き方なのです。

収入がゼロでも生活できる環境が必要

私が一番重要だと思うのは、収入がほとんどない時期でも生活できる環境を作っておくことです。

例えば、

  • 十分な貯蓄がある

  • 実家で暮らしていて生活費を抑えられる

  • 固定費が少ない生活をしている

こうした環境があると、収入がない時期でも慌てずに活動を続けることができます。

逆に、毎月20万円の生活費が必ず必要な人が、数か月ほとんど収入を得られなかったらどうなるでしょうか。

借金をするか、貯金を使い切るか、結局は会社に就職するしかなくなってしまいます。

フリーを辞める理由は「才能」ではない

フリーランスを辞める人は少なくありません。

でも、その理由は「才能がなかった」からではなく、生活が続けられなくなったからというケースが多いのではないかと思います。

生活費を払えなければ、働き方を選ぶ余裕はなくなります。

その結果、「やっぱり会社で働こう」という選択になるのは、ごく自然なことです。

もちろん、それは決して悪いことではありません。

ただ、現実として「フリーを続けられる環境」がなければ、活動そのものを継続することが難しいのです。

稼ぐ力だけでは解決できない

よく「フリーランスは稼げるかどうかがすべて」と言われます。

もちろん収入を増やす努力は大切です。

しかし私は、それ以上に収入がなくても一定期間は生活できる環境を整えておくことが重要だと考えています。

フリーランスの収入は常に不安定です。

「もっと稼げばいい」という話だけでは解決できません。

だからこそ、貯蓄や生活コストの見直しなど、収入以外の部分で安定を作っておくことが、長く活動を続けるための土台になります。

20年以上フリーで活動して思うこと

私自身、20年以上フリーで活動を続けてきました。

その中で実感したのは、フリーランスに必要なのは「毎月必ず稼ぐ力」だけではないということです。

むしろ、仕事がない時期でも焦らず活動を続けられる環境があることの方が大切だと感じています。

フリーランスは自由な働き方ですが、その自由を支えているのは、実は現実的なお金の問題です。

だから私は、「フリーになりたい」と考えている人ほど、まずは生活を支えられる環境づくりを考えてほしいと思っています。

それが、長くフリーランスとして活動を続けるための一番の土台になると、私は考えています。

2026年7月16日木曜日

前に進めないとき、僕がいつもやっていること


何か新しいことを始めようとするとき、僕は決して行動が早いタイプではありません。

むしろ、かなり遅いほうだと思っています。

本業の仕事をしながら創作活動をしている人なら、同じように感じたことがあるのではないでしょうか。

「やりたい気持ちはあるのに、なかなか進まない。」

創作というのは、仕事のように「次はこれをやればいい」という手順が決まっていません。時間の問題もあるし、技術も必要ですし、何から始めればいいのかさえわからないことがあります。

そんなときは、自分自身に対して少しイライラしてしまいます。

「どうして前に進めないんだろう。」

そう思うことが何度もありました。

でも、後から振り返ると気付くことがあります。

「あのとき遠回りだと思っていたことが、実は今の自分につながっていたんだ。」

試行錯誤していた時間は、決して無駄ではありませんでした。

その頃は何をやっているのかわからなくても、いろいろ調べたり試したりしていたからこそ、後になって全体が理解できるようになるのです。


では、前に進めないときはどうすればいいのか。

僕が今まで続けてきた方法は、とてもシンプルです。

「一日に一つだけやる。」

これだけです。

人はつい、「今日は全部終わらせよう」と考えてしまいます。

例えば、完成までに10段階ある作業なら、その10個を一日で全部やろうとしてしまう。

でも、それは現実的ではありません。

仕事もありますし、家のこともあります。

そんな中で全部やろうとすると、結局何もできずに終わってしまうこともあります。

だから僕は、「今日はこの一つだけ」と決めます。

それは本当に小さなことでも構いません。

  • このことだけ調べてみる。
  • この技術だけ理解してみる。
  • この部分だけ試してみる。

それだけで十分です。

一歩だけでも前に進めば、その一歩のおかげで次にやることが自然と見えてきます。

その繰り返しです。


「一日一歩」では遅いように感じるかもしれません。

でも、一か月続ければ30歩進めます。

30日も続ければ、企画や構想の大部分は整理されているはずです。

「あとはこれをやれば完成する。」

そこまで見えてしまえば、作業は一気に進みます。

最初の一歩が一番大変なのです。

だから僕は、何か新しいことを始めるときほど、大きく進もうとは考えません。

今日やることは、一つだけ。

その小さな積み重ねが、振り返ったときには大きな前進になっています。

僕はこれまで、そんなやり方で少しずつ前へ進んできました。

絵を描くのにスクールは必要なのか?25年以上続けてきた僕の結論

 「絵を描くならスクールに通ったほうがいいのか?」

これは、これから絵を始めようと思っている人なら、一度は考えることではないでしょうか。

通信講座やオンラインスクール、専門学校、美術大学など、学べる場所はいろいろあります。

今回は、25年以上絵や3DCGに関わってきた僕自身の体験をもとに、このテーマについて話してみたいと思います。

僕はほとんど独学だった

僕は基本的に、誰かから本格的に絵を習った経験はありません。

ただ、一度だけ短期間、絵画教室に通ったことがあります。

そこでやっていたのは、ひたすら模写です。

先生から模写のやり方や、色の付け方などの基本を教えてもらい、見本の絵をそのまま描いていました。

でも当時の僕は、

「なんでこんなことをやるんだろう?」

と思っていました。

模写が上達につながるという意味も理解できていなかったので、正直、何を学んでいるのかよく分かっていませんでした。

今になって振り返ると、あれには意味があったんだなと思います。

20年以上続けた3DCG

その後は、ほとんど独学で3DCGの世界に入りました。

モデリングをして、レンダリングをして、作品を作る。

そんなことを20年以上続けてきました。

途中ではWEBデザイナーとして働き、デザインについても実践の中で学びました。

だから「勉強した」という感覚はあまりありません。

仕事や趣味として、作り続けているうちに自然と身についていった、という感じです。

現代アートを理解するまで5年くらいかかった

制作を続ける中で、ある疑問が生まれました。

「そもそも現代アートって何なんだろう?」

作品を作る以上、アートそのものを理解したいと思ったのです。

本を読んだり、作品を見たり、自分なりに考え続けました。

完全に理解できたとは言えませんが、「なんとなく分かってきた」と思えるまでに、おそらく5年くらいはかかりました。

これも誰かに教わったわけではなく、独学でした。

スクールは意味があるのか?

では、スクールは意味がないのでしょうか。

そんなことはありません。

基礎を学ぶという意味では、十分価値があると思います。

デッサンや色彩、構図など、基本を体系的に学べるのは大きなメリットです。

ただ、それだけで絵が上手くなるわけではありません。

スクールで教えてくれるのは、あくまで「基礎」です。

その先にある、

  • 何を描きたいのか
  • どんな作品を作りたいのか
  • 自分らしい表現とは何か

こういったことは、自分で見つけるしかありません。

先生が答えを教えてくれるものではないと思います。

高額なスクールに通えば成功するわけではない

最近は、かなり高額なオンラインスクールや専門講座もあります。

もちろん、良い先生に出会えれば学べることは多いでしょう。

でも、高いお金を払ったからといって、必ず上達するわけではありません。

専門学校や美術大学も同じです。

卒業したという実績や肩書きは得られるかもしれません。

就職ではプラスになることもあるでしょう。

しかし、それと絵が上手くなることは、また別の話だと思います。

結局は自分で描き続けるしかない

僕自身、ここまで来るのに25年くらいかかりました。

絵画教室に通ったこともありました。

3DCGを続け、WEBデザインを経験し、現代アートについて何年も考えました。

振り返れば、とても長い時間です。

でも、不思議なことに「無駄だった」と思ったことは一度もありません。

なぜなら、好きでやっていたからです。

努力しているという感覚もありませんでした。

興味があることを続けていたら、少しずつ理解できるようになった。

ただ、それだけです。

僕の結論

もし基礎を効率よく学びたいなら、スクールに通う価値はあると思います。

でも、本当に上達したいなら、最後は自分で描き続けるしかありません。

どれだけ良い先生がいても、自分の代わりに作品を作ってくれるわけではありません。

何を表現したいのか。

どんな作品を残したいのか。

その答えは、自分自身の中にしかありません。

だから僕は、スクールは「スタート地点を助けてくれる場所」ではあっても、「ゴールまで連れて行ってくれる場所」ではないと思っています。

僕は慎重すぎるタイプなのかもしれない

 最近、自分の行動パターンを振り返ってみて、「僕はかなり慎重なタイプなのかもしれない」と思うようになりました。

何か新しいことを始めるとき、僕はすぐに行動するのではなく、まず徹底的に調べます。いわゆる「外堀を埋める」というやり方です。

昔からその傾向はありました。

例えば、少し高価なものを買うときでも、何か月もかけて情報を集め、比較し、本当に納得できるまで決断しませんでした。

今でも、そのスタイルはあまり変わっていません。

何かを作るときや新しい企画を始めるときも、何週間、場合によっては何か月も準備をします。情報を集め、問題点を洗い出し、「これなら大丈夫だ」と自分が納得してから、ようやく動き始めます。

世の中には「善は急げ」という言葉がありますし、「成功する人は行動が早い」ともよく言われます。

確かに、思い立ったらすぐに行動できる人は魅力的です。

一方で、僕はそのタイプではありません。

もちろん、一度始めれば集中して進めますが、スタートラインに立つまでにはかなり時間をかけます。

これは良く言えば計画的なのかもしれません。

十分に調査し、準備を整え、失敗する可能性をできるだけ減らしてから動く。そう考えれば、慎重さは一つの強みとも言えます。

しかし、悪く言えば「行動を始めるまでが遅い」ということでもあります。

本当なら1日や2日で始められることでも、「もう少し調べよう」「もう少し考えよう」と準備を続けてしまうことがあります。

その結果、スタートが遅れてしまうことも少なくありません。

だから、この慎重さは長所でもあり、短所でもあるのでしょう。

ただ最近は、「すぐ行動できない自分」を必要以上に否定する必要はないのではないかと思うようになりました。

慎重だからこそ、大きな失敗を避けられることもあります。十分な準備をしたからこそ、安心して前に進めることもあります。

もちろん、慎重になりすぎて何も始められなければ意味がありません。

だからこれからは、自分の慎重さという長所は活かしつつ、「ある程度準備ができたら動き出す」というバランスを意識していきたいと思っています。

慎重さは決して悪いことではありません。

大切なのは、その慎重さが「前へ進むための準備」になっているのか、それとも「行動しないための言い訳」になっているのかを、自分自身で見極めることなのだと思います。

2026年7月13日月曜日

私が3DCGに夢中になったきっかけ

「3DCGをやっていました」と話すことがありますが、実際には始めてから夢中になるまでには少し時間がかかりました。

3DCGを始めたのは約30年前です。ただ、本格的に取り組むようになったのは25年ほど前だったと思います。

最初の4〜5年間は、正直なところ「3DCGはあまり面白くない」と感じていました。当時のパソコンは性能が低く、快適に3D制作ができる環境ではありませんでした。使っていたソフトも操作が難しく、とても使いやすいとは言えませんでした。

それでも、ある日「自分が作ってみたい女の子」を3Dで表現してみようと思い立ちました。

当時はソフトの操作も十分に理解しておらず、ほとんど手探りの状態でした。特に曲線を作る作業には苦労し、何度も試行錯誤を繰り返しました。それでも少しずつ形になり、ついに作品が完成したのです。

完成した画像をレンダリングした瞬間のことは、今でもよく覚えています。

「自分が頭の中で思い描いていたものが、本当に形になった。」

その感動はとても大きく、知り合いにも見せたくなって作品を見てもらいました。

その瞬間、「3DCGってこんなに面白いものなんだ」という感覚が、自分の中に強く刻み込まれました。

そこからは完全に夢中になりました。

仕事から帰宅すると、毎日のように2〜3時間ほど3DCGを制作し、小さな作品でも必ず1枚レンダリングする生活を続けました。

もちろん、一つひとつの作品は決して大作ではありません。しかし、毎日作り続けることでソフトの使い方を自然と覚え、モデリングやライティング、レンダリングの技術も少しずつ身についていきました。

当時使っていたソフトは、どちらかというとCADに近い操作感で、決して初心者向けではありませんでした。それでも制作そのものが楽しく、毎日新しい発見がありました。

この頃は、まだ「アートとは何か」「美術とは何か」といったことはまったく考えていませんでした。

純粋に、「3Dで何かを作ること」が面白かったのです。

今回掲載した時計の画像は、それからずっと後、5〜6年ほど前に制作した作品です。

この頃には、できるだけ本物らしい質感やリアリティを表現することを目標に制作していました。

時計は一見シンプルに見えますが、細かな部品が多く、意外と複雑なモデリングが必要になります。しかし、長年3DCGを続けていたおかげで、以前なら苦労していた作業も比較的スムーズに作れるようになっていました。

振り返ってみると、3DCGは私にとって単なる趣味ではなく、ものづくりの楽しさを教えてくれた大切な存在でした。

2026年7月7日火曜日

長年続けたブログを閉鎖しました

 先日、長年運営していたブログを閉鎖しました。

そのブログは、3Dグラフィックスについて書いていたものです。

私は長年3Dグラフィックスに取り組んできました。そして、今のアート活動につながる考え方や表現の多くは、3Dグラフィックスから学んだものだと思っています。

だから当時は、自分なりの技術や考え方をブログで発信し続けていました。

閉鎖した理由

閉鎖した一番のきっかけは、ある人とのやり取りでした。

大きなトラブルがあったわけではありません。

相手に悪意があったとも思っていません。

コメントをいただいたり、質問を受けたり、いろいろ相談されたりする中で、私もできる限りサポートしていました。

でも、気がつけば、そのやり取りそのものが少しずつ負担になっていました。

今振り返ると、相手が悪かったというより、私自身が応えすぎてしまったのかもしれません。

「どちらが悪い」という話ではなく、ただ自分の気持ちが疲れてしまった。

その結果、「このブログはもう終わりにしよう」と考えるようになりました。

もともと更新は止まっていた

実は、そのブログは以前からほとんど更新していませんでした。

たまに記事を書くことはあっても、自分の中ではすでに一区切りついた存在になっていました。

だから今回の出来事は、閉鎖を決断する最後のきっかけになっただけなのだと思います。

私は過去のブログをよく閉鎖します

実は、こういうことは今回が初めてではありません。

私はこれまでにも、いくつものブログを閉鎖してきました。

それには共通した理由があります。

私は、その時に一番夢中になっていることを発信したいタイプなのです。

何かに本気で取り組んでいる時は、そのことについて文章を書きたくなります。

考えたこと、試したこと、発見したことを誰かに伝えたくなる。

でも、新しいことを始めると、自分の気持ちは自然とそちらへ移っていきます。

そうなると、以前書いていたブログへの興味も薄れてしまいます。

今やりたいことに集中したい

昔やっていたことを否定しているわけではありません。

むしろ、その経験が今の自分を作っています。

ただ、自分の気持ちは常に前へ向いているのです。

だから、今の自分が本当にやりたいことに集中したい。

その結果、過去のブログが役目を終えることもあります。

過去を残すことより、前へ進むこと

「もったいないですね」と言われることがあります。

でも、私はあまりそうは思いません。

もちろん、昔のブログを読み返せば、「こんなことをやっていたんだな」と懐かしく思うことはあります。

しかし、それ以上の意味はあまり感じません。

私にとって大切なのは、過去を保存し続けることではなく、今、自分が何に挑戦したいのかということです。

だから今回も、後悔はありません。

長年続けたブログを閉鎖したことは、一つの終わりではあります。

でも同時に、新しいことへ進むための区切りでもあるのだと思っています。

現代アートは「わからなくていい」その2

以前、「現代アートはわからなくていい」という記事を書いたことがあります。

この言葉は、自分でもとても気に入っています。そして、その記事は思っていた以上に多くの方に読んでいただきました。

そこで今回は、改めて「なぜ現代アートはわからなくていいのか」を、自分なりに説明してみたいと思います。

現代アートは、そもそも難しいもの

私は、現代アートは難しくて当然だと思っています。

なぜなら、現代アートは「これまでになかったもの」を生み出そうとする表現だからです。

古典的な絵画のように、美しさや技術を追求するだけではなく、固定観念にとらわれない発想や、新しい視点を提示することが大切になります。

だからこそ、一目見て理解できない作品がたくさんあります。

それは決して失敗ではなく、現代アートというジャンルの特徴なのです。

現代アートはパズルに似ている

私は、現代アートはパズルのようなものだと思っています。

「この作品は何を表現しているんだろう?」

「作者は何を伝えたかったんだろう?」

そんなことを自分なりに考えていく。

もちろん正解はありません。

でも、「ああ、もしかしたらこういうことかもしれない」と、自分なりの答えにたどり着いた瞬間があります。

その「気づき」こそが、現代アートの面白さなのだと思います。

それでも、私はほとんどわかりません

とはいえ、正直に言えば、私もほとんどの現代アートはわかりません。

意味が理解できない作品もたくさんあります。

そうすると、「結局、何だったんだろう」とモヤモヤしたまま終わってしまいます。

私は、この「理解できないこと」が、現代アートが多くの人に好まれない理由の一つだと思っています。

気持ちよく見られない作品もある

現代アートには、美しい作品ばかりがあるわけではありません。

あえて汚れたものや壊れたものを表現した作品もあります。

死や恐怖、不安、絶望など、人間のネガティブな感情をテーマにした作品も少なくありません。

作品の意味が理解できたとしても、見ていて気持ちが良いとは限らないのです。

だから私は、「現代アートは面白い」と一言で言えるものではないとも思っています。

だから「わからなくていい」

それでも私は、「現代アートはわからなくていい」という考え方を大切にしています。

無理に理解しようとしなくてもいい。

わからなければ、「今日は縁がなかったな」と思って次の作品へ進めばいい。

気楽に見たほうが、かえって楽しめることがあります。

無理に答えを探そうとすると、アートを見ること自体が苦痛になってしまいます。

現代アートは試験ではありません。

全部を理解する必要もありません。

自分に響く作品だけでいい

私は、自分に響く作品だけを見れば十分だと思っています。

何も感じなければ、その作品は今の自分には必要なかったということです。

逆に、一つでも「これは面白い」「何か気になる」と思える作品に出会えたなら、それだけでも現代アートを見た価値があります。

だから私は今日も、「現代アートはわからなくていい」と思っています。

無理に理解しようとするより、自分の感覚を大切にしながら自由に楽しむ。

それが、現代アートとの一番自然な付き合い方なのではないでしょうか。

2026年6月30日火曜日

写真のように見える作品は、アートになり得るのか

最近、自分の作品について考えることがある。

私が制作しているのは、現代アートとしてのデジタルアートだ。作品の多くは、美しい女性をモチーフにした、写真と見間違えるほどリアルな表現になっている。

だからこそ、多くの人は「これは写真では?」と思うかもしれない。

実際、初めて作品を見た人の中には、「写真を加工しただけでは?」という印象を持つ人もいるだろう。そう感じるのは、ごく自然なことだと思う。

しかし、私が目指しているのは「写真を見せること」ではなく、「写真のようなリアリティを持つ現代アート」を表現することだ。

ここで問題になるのが、「アートとは何か」という問いである。

古典的な芸術では、絵画には絵画の技法があり、油彩や水彩、筆遣いなど、長い歴史の中で培われてきた価値観がある。それらはもちろん素晴らしい文化であり、私はそれを否定するつもりはない。

ただ、現代アートは少し考え方が違う。

現代アートには、「こう作らなければならない」という絶対的なルールが存在しない。素材も技法も自由であり、作品そのものだけでなく、発想やコンセプトも作品の一部として評価される世界だ。

だから私は、デジタル技術を使って制作した作品も、現代アートとして成立すると考えている。

もちろん、この考え方に共感してくれる人ばかりではない。

むしろ、芸術について深く学んできた人ほど、伝統的な価値観を大切にしている場合があり、「これはアートではない」と感じることもあるだろう。

それも一つの考え方だと思う。

ただ、古典的な芸術と現代アートは、同じ「アート」という言葉で呼ばれていても、必ずしも同じ基準で語れるものではない。

私は、どちらが正しいと言いたいわけではない。

古典的な芸術には古典的な価値があり、現代アートには現代アートならではの価値がある。その違いを理解した上で作品を見てもらえたら、私の作品も少し違った印象になるのではないかと思っている。

写真のように見える作品だからこそ、「これは写真なのか、それともアートなのか」と考えてもらえる。

私は、その境界線を問いかけること自体も、現代アートの一つの表現だと考えている。

2026年6月27日土曜日

しばらく絵を描くのをお休みします

 しばらくの間、新しい絵を描くのをお休みしようと思っています。

「絵をやめる」というわけではありません。

今、時間をかけて取り組みたい別の作業があり、それが終わるまではそちらに集中することにしました。

理由は単純で、僕は昔から一つのことに集中するタイプだからです。

いくつものことを同時に進めようとすると、どうしても集中力が分散してしまい、どれも中途半端になってしまいます。絵も、他の作業も、どちらも納得のいくものにならない。それなら、一つずつしっかり取り組んだほうが、自分には合っていると感じています。

完成済みの作品は、これからも少しずつ公開したり販売したりするかもしれません。ただ、新しい作品の制作はしばらくお休みになります。

実は、個人的に作ってみたいゲームのアイデアもあります。仕事ではなく完全に趣味としてですが、「試しに作ってみたい」と思える内容です。実現できるかどうかはまだ分かりませんが、まずは挑戦してみたいと思っています。

振り返ってみると、これまでの人生でも、何かに本気で取り組むときは、いつも一つのことに集中してきました。そのやり方が自分には一番合っているようです。

また絵に集中できる環境になったら、そのときは中途半端ではなく、自分が納得できる作品を制作したいと思っています。

それまでは、今やるべきことにしっかり集中していこうと思います。

2026年6月26日金曜日

ウクライナ戦争を見て思ったこと――「守るだけでは終わらない」

 ウクライナ戦争を見ていて、最近特に感じることがあります。

ここ最近、ウクライナはドローンを使ってロシア国内の石油施設やエネルギー関連施設への攻撃を積極的に行っています。もちろん以前から行われていた面もありますが、最近はその存在感が以前より大きくなったように感じます。

それを見て思ったのは、戦争では「守るだけ」では状況を変えることは難しいということです。

防御はもちろん重要ですが、防御だけを続けていれば相手は攻撃を続けることができます。相手にも相応の損害や負担を与える「反撃能力」があって初めて、攻撃を続けるコストを相手に意識させることができるのではないでしょうか。

このことは、日本の安全保障についても考えさせられます。

これまで日本は、防衛を重視した考え方が中心だった印象があります。しかし、もし日本が攻撃を受けた場合、本当に十分な反撃能力を持っているのでしょうか。

特に今回の戦争では、高価な兵器だけでなく、比較的低コストで大量運用できるドローンが戦況に大きな影響を与えています。こうした新しい戦い方に、日本はどこまで対応できるのか気になります。

もちろん、戦争が起こらないことが何より大切です。しかし、抑止力という意味では、「守る力」だけでなく、「必要な場合には反撃できる能力」を持つことも重要なのではないかと、ウクライナ戦争を見ながら考えました。

2026年6月23日火曜日

JavaScriptでパストレーシングを実験的に作ってみた

 

最近、3Dソフトの実験として「パストレーシングを自作できないか」と思い、試しに作ってみました。

私が普段使っている3Dソフトはパストレーシングに対応していないため、以前から少し不満を感じていました。そこで、3DモデルをVRML形式で書き出し、それをJavaScriptで読み込んでレンダリングする方法を試してみました。

実際にやってみると、思っていたよりも難しくはありませんでした。パストレーシングの仕組み自体は、光がポリゴンに当たり、その反射を計算しながら最終的な色を求めていくものです。もちろん実際には複雑な処理がたくさんありますが、基本的な考え方を理解するだけなら意外とシンプルでした。

ただし、問題もあります。

一番苦労したのはVRMLデータの読み込みです。自分で作成したモデルでも正しく読み込めない部分があり、さらにネット上で公開されているVRMLサンプルを試してみても、ほとんど正常に読み込めませんでした。原因はまだ特定できていませんが、レンダリング以前の段階で課題が残っています。

現在の状態では、あくまで実験レベルです。最低限のパストレーシング表現はできていますが、実用的なレンダラーにはほど遠い状態です。

本格的に作るのであれば、

  • リアルタイムレンダリングへの対応

  • テクスチャマッピング

  • 環境マッピング(HDRI)

  • マテリアル表現の強化

  • ノイズ除去(デノイズ)

  • 高速化のための最適化

など、多くの機能が必要になります。

今のところカメラを動かすことはできますが、リアルタイムでレンダリング結果が更新されるわけではなく、静止画に近い使い方になります。

とはいえ、自分でパストレーシングの仕組みを実装してみたことで、「レンダリングがどのように行われているのか」を以前より深く理解できたのは大きな収穫でした。

実用性という意味ではまだまだですが、技術的な実験としてはなかなか面白い経験だったと思います。今後さらに改良するかどうかは未定ですが、とりあえず「JavaScriptでパストレーシングを動かしてみる」という当初の目的は達成できました。

2026年6月21日日曜日

時計の3DCGデータが出てきた

 昔作っていた時計の3DCGデータが出てきたので、久しぶりに見返してみました。制作したのは4年ほど前だったと思います。

この作品を作っていた頃、僕が一番時間をかけていたのは「リアリティをどう表現するか」という部分でした。モデリング自体は、時間をかければ形にすることができます。しかし、本当に難しくて面白かったのは、その先にある「本物らしさ」を作り込む作業だったように思います。

当時使っていたソフトには、今のように自動でリアルな表現をしてくれる機能はあまりありませんでした。そのため、光の当たり方を細かく調整したり、マテリアルの質感を試行錯誤したり、環境マッピングやテクスチャを工夫して組み合わせたりと、ひとつひとつ手作業で積み重ねていきました。

その過程は大変でしたが、同時にとても面白く、夢中になっていたことを覚えています。

こうして昔の作品を振り返ると、当時から僕は「リアリティ」を何よりも大切にしていたのだと気づきます。人の目を引く派手さよりも、「本当にそこに存在しているように感じられるか」を追求することに魅力を感じていたのかもしれません。

時計以外にもさまざまな3DCGを制作しましたが、どの作品にも共通していたのは、そのこだわりでした。そして、それは今の自分にもつながっている気がします。

ゲーム制作をするときも、映像を作るときも、僕はいつも「どうすればもっとリアルに感じてもらえるか」を考えています。振り返ってみると、昔からずっと、リアリティを追求することに自分の情熱を注いできたのだと思います。


2026年6月17日水曜日

ギャラリーは「絵を見る場所」なのか、「覚悟して入る場所」なのか

 最近、ギャラリーについて考えることがあります。

私はこれまで、絵を展示しているギャラリーに何度か足を運んできました。美術館のような大きな施設だけでなく、個人で運営しているような小さなギャラリーにも入ったことがあります。

ただ、正直に言うと、今の私は「よく知らない小さなギャラリーには、もう入らないかもしれない」と思っています。

理由は、以前、とても嫌な経験をしたからです。

東京の、とある有名な下町の商店街にある小さなギャラリーでした。絵を眺めていると、抽象画が展示されていました。私はその画家のことをまったく知らず、作品も何を表現しているのか理解できませんでした。

そこで、私は素直に「この絵はよくわからないですね」といったようなことを口にしました。

すると、ギャラリーの人が突然感情的になったのです。

押し売りをされるなら、まだ理解できます。ギャラリーは絵を販売する場所でもありますし、営業されること自体は不思議ではありません。

しかし、そのとき感じたのは「売り込み」ではなく、まるで喧嘩を売られているような空気でした。

「どうしてそんな反応になるのだろう」と、今でもよくわかりません。

その絵は、私にとっては本当に理解できない作品でした。抽象画ですから、何が描かれているのかもわからない。画家についての説明もなく、背景も知らない状態です。

そんな状況で「どう思いますか?」と聞かれれば、「正直、よくわかりません」と答える人は少なくないのではないでしょうか。

もちろん、その画家のことを知っていて、作品の文脈や思想を理解していれば、見え方は変わるのかもしれません。

でも、知らない人間にとっては、「わからない」という感想も自然なものだと思うのです。

結局、その場の雰囲気に耐えられず、私は逃げるようにギャラリーを後にしました。

それ以来、小さなギャラリーに対して少し警戒心を持つようになりました。

ギャラリーというと、「押し売りされるのではないか」と心配する人もいると思います。しかし、実際には押し売りよりも、人との相性のほうが大きいのかもしれません。

一方で、最近札幌で訪れた展示会では、まったく違う体験をしました。

そこは比較的大きな団体が運営している展示会で、事前にインターネットで調べると、あまり良くない評判も目にしました。それでも興味があったので、実際に足を運んでみました。

すると、対応してくれたスタッフの女性はとても丁寧な方でした。

私は作品をじっくり見ていたせいか、その方は何度か声をかけてくれました。あとで数えてみると、4回ほど説明に来てくれていたと思います。

しかし、それは押し売りではありませんでした。

「この作品は、こういうテーマで描かれています」
「この作家さんは、こういう経歴の方なんです」

そんなふうに、作品の背景や見どころをわかりやすく説明してくれたのです。

そのおかげで、作品を見る時間そのものが楽しくなりました。

同じ「ギャラリー」でも、こんなに印象が違うものなのだと驚きました。

結局のところ、ギャラリーという場所は、行ってみなければわからないのかもしれません。

嫌な思いをすることもあれば、作品の見方を広げてくれる素敵な出会いもあります。

ただ、私自身はひとつ学びました。

「絵がわからない」と感じることは、決して悪いことではないということです。

わからないものを、わからないと言っていい。

そのうえで、誰かが作品の背景や作者の思いを丁寧に伝えてくれたなら、今まで見えなかったものが見えてくることもある。

もしかすると、本当に大切なのは作品そのものだけではなく、それを伝える人の姿勢なのかもしれません。

ラッセンについて思うこと


ラッセンの絵を初めて見たのは、もう15年くらい前のことだ。その時の正直な感想は「上手いな」だった。

当時の自分は美術についてほとんど知識がなく、いわゆる一般人の目線で見ていたと思う。そしてその経験を振り返ると、美術を知っている人と知らない人では、絵の見方がかなり違うということに気づく。

美術に詳しくない人は、そもそも絵を買わない。ところがラッセンの絵は、一般の人に売れた。むしろ美術を知っている人たちは買わなかった。値段が高かったせいもあるだろう——100万〜150万円ほどだったと聞く。そんな値段の絵を、普通の人が買ったのだ。半分は「買わされた」と言えるかもしれないけれど、それでも結果として手に入れたのは事実だ。

美術を知っている人たちの目から見ると、それは少し嫌な話だったと思う。「ラッセンは美術ではない」と断言する人もいた。

でも一般の人から見れば、いわゆる「美術的な絵」の方こそ意味不明なのだ。意味がわからないものは買わない。説明を聞けば少し理解できるかもしれないが、特に現代アートは抽象画が多く、一般の人が自分のために買うことはほぼない。お金持ちが買う場合は、資産として持つためだったり、値上がりを見越した投資だったりする。動機がそもそも違う。

だから僕は、美術がわかっている人の目線だけで物事を見るのは違うんじゃないかと思っている。両方の目線を持った方が、いい絵が作れる。

最近では、イラストレーターの延長線上から出発して、一般の人が見ても「素晴らしい」と感じるほどのクオリティに到達したクリエイターが何人もいる。そういう人の作品が、けっこうな値段で一般の人に売れている。それはそれでいい、と思う。

もし古典的な絵を描く人ばかりが増えていったとしたら、正直つまらない。新しい表現が出てきてこそ、アートは面白くなると思っている。

2026年6月8日月曜日

思いがけず雑誌に掲載された話

先日、私が作ったコンテンツについて、ある雑誌から掲載の問い合わせをいただきました。

SNS経由で連絡が来て、「紹介記事として掲載してもよろしいでしょうか」という内容でした。その雑誌は女性向けの内容を扱うもので、私の活動や絵とは直接関係のない媒体です。最初は少し意外に思いましたが、「せっかく見つけていただいたのだから」と掲載をお願いすることにしました。

実際に掲載された記事を見てみると、私の作ったコンテンツについてかなり具体的に紹介してくださっていて、とても好意的な内容でした。

それにしても、よく私の作品を見つけてくれたなと思います。世の中には本当にさまざまな雑誌があり、それぞれ独自の視点で情報を探しているのだと改めて感じました。

そういえば、私の作品が本や雑誌に掲載されたのは今回が初めてではありません。

20年ほど前、2003年か2004年頃だったと思いますが、私が制作したCG作品が書籍で紹介されたことがありました。そのときは原稿料として6万円ほどいただいた記憶があります。

掲載されたのは、私が制作していた3DCGの漫画でした。かなりふざけた内容で、いわゆる真面目な作品ではありませんでしたが、その馬鹿馬鹿しさや独特な発想が評価されたのかもしれません。他の人にはなかなか作れないような作品だったのではないかと思います。

当時は掲載されたこと自体も嬉しかったですし、原稿料をいただけたこともあって、とても印象に残っています。

今回は報酬などはありませんでしたが、それでも自分の作ったものを紹介してもらえるのはありがたいことだと思っています。

私は基本的に、こうした掲載依頼を断ることはあまりありません。誰かが自分の作品やコンテンツに興味を持ち、紹介したいと思ってくれる。それだけでも十分に嬉しいことだからです。

作品を作り続けていると、思いもよらないところで誰かの目に留まることがあります。今回の出来事は、そんなことを改めて感じさせてくれる出来事でした。

2026年6月7日日曜日

美人画を描くことは、美術なのか?

私は昔から、なぜか美人画を描き続けてきました。

特に「美人画を描こう」と強く意識していたわけではありません。ただ、気がつくと女性をモチーフにした作品を描いていることが多かったのです。

今振り返って昔の作品を見ると、技術的にはかなりぎこちなさがあります。しかし、その頃から一貫して「美しい人物を描きたい」という気持ちはあったように思います。

ただ、美術教育を受けた人の中には、私の作品を見て「これは本当に美術なのか?」と思う人もいるかもしれません。

なぜなら、美術の世界には「美人を描くこと」と「芸術であること」を切り離して考える傾向があるように感じるからです。

美人を描くことは悪いことなのか

私は、美人を描くこと自体に何の問題もないと思っています。

多くの人は、美しいものを見たいと思っています。人物画であれば、美しい顔立ちや魅力的な表情、独特の雰囲気に惹かれることは自然なことです。

もちろん、作品の価値は単純な容姿だけで決まるものではありません。表情や空気感、物語性なども重要です。

それでも私は、「美しさ」は絵画表現の大切な要素の一つだと思っています。

ところが、美術の世界では時として「美人を描くことは浅い」「芸術性が低い」といった見方をする人もいるように感じます。

本当にそうなのでしょうか。

現代アートなら何を表現してもいい

私自身は、自分の作品を現代アートの一種として考えています。

現代アートの魅力は、固定観念に縛られないことです。

古典的な芸術のルールに従う必要もなければ、「こうでなければ芸術ではない」という決まりもありません。

社会問題を扱う作品があってもいいし、抽象表現があってもいい。美しい人物を描く作品があってもいいはずです。

表現の自由こそが、現代アートの大きな特徴だと思います。

批判されることを恐れる必要はない

今描いている作品を見返すと、美術界の一部から反発を受けそうな要素も確かにあります。

しかし、それはそれで構わないとも思っています。

誰かの価値観に合わせるために作品を作っているわけではありません。

私は私が描きたいものを描いているだけです。

それが美人画であっても、現代アートであっても、自分自身が納得できる表現であることの方が重要だと思っています。

芸術に正解はありません。

だからこそ、自分が本当に描きたいものを追求し続けることに意味があるのではないでしょうか。 

2026年6月5日金曜日

「ひきこもり」とは何なのかを考えてみる

最近、「ひきこもりの人が増えている」という話をよく耳にします。日本には約140万人いるという調査結果もあり、社会的な関心も高いテーマです。

ただ、私は以前から少し疑問に思っていることがあります。

それは、「ひきこもり」とは何を指すのか、ということです。

一般的には、長期間にわたって社会参加をせず、自宅にこもっている状態を指します。しかし、現代ではインターネットを利用して自宅で働く人も増えています。

例えば、テレワークで仕事をしている人がいます。外出はほとんどせず、自宅で生活しているとしても、仕事をして収入を得ているなら、一般的な意味での「ひきこもり」とは少し違うように感じます。

私の個人的な感覚では、「ひきこもり」と「仕事をしていない状態」はかなり重なっているように思います。

たとえば専業トレーダーの人です。実際に、自宅からほとんど出ずに株やFXの取引だけで生活し、多額の資産を築いている人もいます。中には何億円、何十億円という資産を持つ人もいます。

こうした人を「ひきこもり」と呼ぶ人はあまりいないでしょう。

また、YouTuberも同じです。

動画の企画、撮影、編集をほとんど自宅で行い、外出する機会が少ない人もいます。しかし、それで収入を得ているなら職業として成立しています。

極端な話、自宅からほとんど出なくても、収入を得て社会とつながっているなら、「ひきこもり」という言葉から受けるイメージとは違う気がします。

もちろん、誰もが簡単にできることではありません。

トレーダーになるにも知識や経験が必要ですし、YouTubeで収益を上げるにも継続的な努力が求められます。自宅でできる仕事の多くは、時間給ではなく成果報酬型に近いものになります。

だからといって、「ひきこもりの人は努力が足りない」と言いたいわけではありません。

人それぞれ事情がありますし、精神的な問題や家庭環境など、さまざまな要因が関係している場合もあります。

ただ一方で、現代はインターネットによって、自宅にいながら収入を得られる可能性が以前より大きく広がった時代でもあります。

外へ出て働くことだけが仕事ではありません。

もし外で働くことが難しくても、家の中でできる仕事や活動を見つけることができれば、社会との接点を持ちながら生活する道もあるのではないかと思います。

「ひきこもり」とは何か。

単純に外出の有無で決まるのか、それとも社会との関わり方や経済的な自立によって変わるのか。

この問題については、もう少し広い視点で考えてみる必要があるのかもしれません。

2026年6月3日水曜日

写実的な美人画は、なぜ少ないのか

私は以前から、美術界における「写実的な美人画」の立場について考えることがある。

写実的な絵を描く画家は多くいるし、その人気も高い。しかし、その中でも「美しい女性を主題とした写実絵画」を描く人は、意外と少ないように感じる。

私は、このジャンルには確かな需要があると思っている。実際、美しい人物を描いた作品は多くの人の心を惹きつけるし、純粋に「見たい」と思う人も多いはずだ。

それにもかかわらず、美術界にはどこか「美人を描くのは浅い」「個性がない」「古臭い」「面白くない」といった空気が存在しているように感じることがある。

もちろん、それが明確なルールとして存在しているわけではない。しかし、そうした価値観が長年にわたって受け継がれてきた結果、写実的な美人画を積極的に描こうとする人が少なくなっているのではないだろうか。

多くの画家は美術大学などで学び、その中で現代美術や芸術観について教育を受ける。私は美大に通った経験がないので実際のところは分からないが、芸術とはこうあるべきだという価値観が少なからず存在するのではないかと思う。

ただ、その価値観の中には、すでに時代に合わなくなっているものもあるのではないだろうか。

何十年も前の美術界と、現在の美術界では環境も価値観も大きく変化している。インターネットによって作品の発表の場は広がり、鑑賞者の声も直接届くようになった。にもかかわらず、昔の価値観をそのまま引き継いでいる部分もあるように見える。

私は、「写実的で美しい女性を描くこと」に何の問題もないと思っている。

むしろ、それは多くの人が求めている表現の一つではないだろうか。

そして何より、それが私自身の表現だからだ。

私の作品の中心には、写実的な美しさを持った女性像がある。もしそこを捨ててしまったら、それはもう私の絵ではなくなってしまう。

だから私は、「美人を描くべきではない」というような空気があるとすれば、それには従わない。

流行や風潮に合わせるためではなく、自分が本当に描きたいものを描くために。

私はこれからも、写実的な美人画という表現を大切にしていきたいと思っている。

2026年6月1日月曜日

昔のソフトに惹かれる理由


私は昔のソフトが好きです。

特に古いグラフィックソフトやゲーム制作ツール、ゲームエンジンなどを見つけると、つい買ってしまいます。オークションやフリマサイトを見ていると、たまに驚くほど安く出品されていることがあり、「動くかどうか分からないけど試してみよう」と購入することもあります。

先日も15年ほど前のグラフィックソフトを手に入れました。おそらく今の環境では動かないだろうと思いつつも、価格が安かったので実験感覚で購入しました。シリアル番号も付属していないような古いパッケージでしたが、そういう未知のものを試すのも楽しみの一つです。

実際のところ、昔のソフトの多くは現在の環境では使い物にならないこともあります。しかし、たまに驚くほど実用的なものに出会うことがあります。たとえ動かなかったとしても、当時の開発者がどのような考えで作ったのかを感じられるだけで面白いのです。

最近、私が今でも使っている古い3Dソフトについて質問してくる人がいました。どうやって使うのか、どこで手に入るのか、かなり詳しく聞いてきたので、「なぜそんなにこの古いソフトにこだわるのだろう」と思い、理由を尋ねてみました。

すると、その人はこう言いました。

「今の3Dソフトは難しすぎて使えない」

なるほどと思いました。

現代のソフトウェアは非常に高機能です。しかし、その代わりに覚えなければならない機能や操作も膨大になっています。私自身も最新の3Dソフトを前にすると、何から始めればいいのか分からなくなることがあります。

一方で、昔のソフトは機能が少ない分、学習コストが低いのです。操作を覚えるまでの時間が短く、すぐに制作に取りかかれます。

もちろん、最新ソフトと比べれば性能や機能面では劣ります。しかし、だからといって良い作品が作れないわけではありません。

実際には、ソフトの性能以上に「使いこなせるかどうか」が重要です。

機能が限られているからこそ工夫が必要になります。その工夫の中から独自の表現やアイデアが生まれることもあります。むしろ、制約があるからこそ面白い作品が生まれることも少なくありません。

私は昔のソフトを単なる懐古趣味として集めているわけではありません。古いソフトには、今のソフトにはないシンプルさや分かりやすさがあります。そして、そのシンプルさは創作の楽しさに直結しているように思います。

これまで多くのソフトを手放してきましたが、それでも今なお手元に残して使い続けているものがあります。

最新が必ずしも最良とは限らない。

そんなことを、昔のソフトたちは今でも教えてくれている気がします。

2026年5月31日日曜日

「美術とは何か」を考える

 最近、改めて「美術とは何か」ということを考えることが増えた。

もともと現代アートには興味がある。しかし、現代アートと美術という言葉には、どこか微妙なズレがあるように感じている。

現代アートは極端に言えば「何でもあり」の世界だ。既存の価値観や常識を疑い、新しい視点や概念を提示することに意味がある。作品そのものよりも、その背後にある発想や問いかけが重要視されることも少なくない。

だからこそ、現代アートを見るたびに「これは本当に美術なのだろうか?」という疑問が浮かぶ。

ただ意味不明なものに見える作品もある。そこに価値があるのか、それとも単なる思いつきなのか。そうした問いがいつまでも消えない。

しかし、その答えの出なさこそが現代アートの面白さなのかもしれない。

「これはアートなのか?」という問い

最近見に行った展示でも、そんなことを考えた。

展示されていた作品は、一見するとイラストだった。しかし、単なるイラストとも言い切れない何かがあった。

イラストにはイラストとしての役割や文脈がある。しかし、その枠を大きく超えたとき、それはアートになるのではないかと思う。

イラストでありながらアートでもある。

その境界線は非常に曖昧だ。

おそらく作家本人は「イラストを描いている」という意識だったかもしれない。しかし、見る側がそこに別の価値や意味を見出した瞬間、作品は単なるイラスト以上の存在になる。

アートとは技法やジャンルではなく、見る人に新しい認識や体験を与えるものなのかもしれない。

70万円の版画に価値はあるのか

その展示では、ある版画作品が約70万円で販売されていた。

そこで考えた。

「本当に70万円の価値があるのだろうか?」

もちろん限定版であり、枚数も限られている。しかし、実際の市場を見ていると、購入後に売却する場合は定価の半額程度になってしまうケースも珍しくない。

そう考えると、投資として見れば決して有利な買い物ではない。

では、なぜ人は70万円を支払うのだろう。

それは単純に作家が好きだからかもしれない。その作品と一緒に暮らしたいからかもしれない。有名作家の作品を所有する喜びがあるのかもしれない。

つまり、価格と価値は必ずしも一致していない。

美術の価値とは何なのか

結局のところ、美術の価値とは何なのだろう。

資産価値なのか。

希少性なのか。

技術力なのか。

それとも、その作品が自分の心を動かしたという体験そのものなのか。

現代アートを見ていると、答えは一つではないように思える。

そして、私自身が作品を作るときも同じ問いを抱えている。

「これは美術なのか?」

「これはアートなのか?」

その問いに明確な答えはない。

しかし、答えがないからこそ考え続けられるし、考え続けること自体が創作の面白さなのかもしれない。

もしかすると現代アートとは、作品そのものではなく、「問いを生み出す装置」なのではないだろうか。そう考えると、意味が分からない作品に出会ったときの戸惑いさえも、作品の一部なのかもしれない。

2026年5月28日木曜日

絵の価値は誰が決めるのか

 最近、絵の価値って一体なんなんだろう、と考えることがある。

そして、その価値を決めているのは誰なのか。

結局のところ、それを決めるのは「見る人」や「お客さん」なんだと思う。

描いた本人がどれだけ満足していても、他人が見て「いい」と思わなければ、世間的には評価されにくい。逆に、作者自身はそこまで自信がなくても、多くの人が「これはいい」と感じれば、高く評価されることもある。

特に今の時代、それがわかりやすく現れるのがSNSだ。

SNSでは、たくさん「いいね」が付いている絵を見ると、なんとなく「これは良い作品なんだ」と感じてしまう。
もちろん、数字だけで全ては決まらない。でも、人はどうしても「みんなが評価しているもの」を価値あるものとして見てしまう。

逆に、誰からも反応がない作品は、「あまり良くないもの」として扱われやすい。
そこに、SNS特有の不公平さもあるように思う。

本来、価値観は人それぞれのはずなのに、数字によって「良い・悪い」が半ば自動的に決められてしまうからだ。

「評価されること」と「売れること」は違う

ただ、SNSの評価と、実際にお金を払って買われるかどうかは、また別の話だと思う。

SNSでは、無料で「いいね」が押せる。
でも、販売となると話は変わる。

どれだけ「すごい絵」と言われていても、実際にお金を出して買う人がいなければ、市場的には価値が成立しない。

逆に、多くの人に理解されなくても、たった一人でも「この作品にお金を払いたい」と思う人がいれば、その作品には確かに価値が生まれる。

そこが面白いところでもある。

例えば、SNSで何万いいねも付いているイラストがあったとして、本当に販売した時に売れるのかというと、意外とそうでもない気がする。

見るのは好き。
でも、お金を払って所有したいかと言われると、そこまでではない。

そういう人は多いと思う。

特にイラストは、「鑑賞する楽しさ」と「購入する価値」が必ずしも一致しない。

「上手い」「すごい」「映える」という感想と、
「これに数万円払いたい」は、全く別の感覚なんだと思う。

芸術としての価値とは何か

では、絵の金銭的価値はどこから生まれるのか。

それは技術だけではなく、「芸術として見られるかどうか」なのかもしれない。

あるいは、その作品に物語や希少性があるか。
作者自身にブランド性があるか。

有名な作家なら、作品そのもの以上に、「その人の作品を持っている」という価値で買われることもある。

つまり、絵の価値というのは単純に「上手いかどうか」では決まらない。

SNSの数字、知名度、ファンの存在、市場、タイミング、希少性。
いろいろなものが混ざり合って、最終的な価値になっていく。

だからこそ、「評価されている=本当に価値がある」とも言い切れないし、逆に「評価されていない=価値がない」とも限らない。

結局のところ、価値というのは、とても曖昧で、人によって変わるものなんだと思う。

2026年5月27日水曜日

最近、本を読むことについて思うこと

最近、自分はあまり積極的に本を読まなくなった。

昔はかなり読んでいた時期があって、月に何冊も読んでいたこともある。けれど今は、「読みたい本」を探すこと自体が難しくなっている気がする。

たまに哲学系の本を買うことがある。
ネットで注文したり、古本屋で見つけたりするんだけど、読んでみると「これは自分には合わないな」と感じることが多い。

古本屋や普通の書店なら、立ち読みで中身を確認できる。
だから「これは違うな」と思えば買わずに済む。
でもネットで買う場合は、タイトルや紹介文から内容を想像するしかない。

そして実際に読んでみると、かなりの確率で「何を言いたいのかわからない」と感じてしまう。

もちろん、自分の理解力の問題もあるのかもしれない。
でも、それ以前に、文章そのものが頭に入ってこない感覚がある。

一つの見出しを読んでも、話がまとまっていないように感じる。
テーマが一つに定まらず、いろんな方向から断片的に語られていて、頭の中で整理できなくなる。

「結局、この章では何を伝えたかったんだろう?」

そんな状態で読み進めることが結構ある。

哲学書って、一つの答えを一直線に説明するというより、概念を多方向から眺めたり、抽象的に考えたりするものが多い。
だから、人によってはそこに深さを感じるんだろう。

実際、レビューを見ると高く評価されている本もかなり多い。
だから自分だけが合わないのかもしれないとも思う。

ただ、自分としては、あまりにも意味が掴めない文章を読むと、途中で疲れてしまう。

その点、自己啓発本の方が、まだ読みやすいと感じることがある。
内容に賛成するかどうかは別として、「この人はこういうことを伝えたいんだな」という方向性は比較的わかりやすい。

文章として筋道が通っていて、読者に何を届けたいのかが見えやすい。
だから全部を信じるわけではなくても、ある程度は納得しながら読める。

でも最近は、自己啓発を強く求めているわけでもないし、哲学を深く学びたいわけでもない。

結局、「これが読みたい」という本がなかなか見つからない。

本を読まなくなったというより、読みたいと思える本に出会いにくくなった。
今はそんな感覚に近いのかもしれない。


「サブカルチャー」って結局何なんだろうと思っていた話

日本には「サブカルチャー」という言葉があるけれど、正直なところ、自分は長い間、その意味がよくわからなかった。

興味を持ち始めたのは10年くらい前、いや、もっと前かもしれない。

東京へ行った時、「サブカルっぽい場所」に行ってみようと思って、秋葉原を歩き回ったことがある。
でも、実際どこに行けば“それ”があるのかが、よくわからなかった。

そんな時、たまたま詳しい人と知り合って、「案内してあげるよ」と言われて連れて行ってもらった場所があった。
結局そこは、自分でも一度行っていた場所だった。

それが、まんだらけ。

そこには昭和時代の古い玩具や雑誌、アニメ関連の商品、フィギュア、アイドルグッズ、古本など、いろんなものが並んでいた。
「ああ、こういう空気感をサブカルって呼ぶのかもしれない」と、なんとなく理解した気がした。

考えてみれば、サブカルチャーと呼ばれるものって、アニメ、ゲーム、漫画、アイドル、特撮、レトロ玩具など、かなり幅広い。
人によってイメージしているものも違うんだろう。

実は札幌にも まんだらけ はある。
だから、わざわざ東京へ行かなくても、そういう世界に触れること自体はできる。

一方で、最近のサブカルを見るなら、やっぱり アニメイト なのかなと思う。

自分はアニメイトの雰囲気、嫌いじゃない。
むしろ見ていて面白いと思う。

ただ、行くと圧倒的に若い人が多い。
10代、20代が中心で、30代くらいまでは普通にいるかもしれない。
でも、40代50代になると、かなり少ない印象がある。

年代によるズレなんだろうか。
同じアニメや漫画でも、世代ごとに触れてきた作品や文化が違うから、興味の方向も変わっていくのかもしれない。

だから中年世代になると、最新のアニメショップよりも、昔の作品を扱うまんだらけのような場所の方が、居心地が良い人も多い気がする。

それでも自分は、今のサブカルも少し見てみたいと思っている。
ただ、若い人ばかりの空間に入ると、少し気後れしてしまう。
興味はあるのに、ちょっと入りづらい。

サブカルチャーって、自由な文化のようでいて、実は世代や空気感みたいなものも強くあるのかもしれない。


2026年5月26日火曜日

久しぶりに百合が原公園へ行って感じたこと

 今日は久しぶりに、札幌の 百合が原公園 へ行ってきました。

以前から「何か工事しているな」と思っていた場所に、新しい施設が完成していました。
見た感じでは、子どもが遊べるスペースとカフェが一体になったような施設で、たぶん札幌市が運営しているのだと思います。

中に入っているカフェは「リリリカフェ」という名前だったかな。
全体的にかなりおしゃれな雰囲気で、木の温もりを感じる今風の空間でした。

平日の昼間だったこともあり、来ている人は年配の方が多かった印象です。
公園という場所柄もあるのか、のんびり時間を過ごしている人たちが集まっている感じでしたね。

こういう施設を見ると、「札幌市って本当に新しい建物を作るのが好きなんだな」と少し思ったりもします。
もちろん今回の施設は大規模な“ハコモノ”というほどではないですが、最近の札幌らしい雰囲気は感じました。

カフェのメニューは、パンやおにぎり、飲み物などシンプルな内容。
ただ、価格はかなり高めでした。

  • パン1個:350円前後

  • おにぎり1個:350円前後

  • ドリンク:350円前後

  • ビール:700円

僕はビールを飲んだんですが、正直「公園のカフェで700円か…」とは思いました。
全体的に、気軽に利用するというよりは、“少し余裕のある人向けのカフェ”という印象です。

とはいえ、店内にはそれなりにお客さんも入っていて、人気はあるようでした。
やはり空間づくりが上手なんですよね。
木を基調にしたデザインで居心地がよく、「また来てもいいかな」と思わせる雰囲気があります。

たぶん、若い人にとってはかなり魅力的な場所なんじゃないでしょうか。
僕のような50代くらいの世代はあまり見かけませんでしたが、それでも「こういう場所が増えるのは悪くないな」と感じました。

値段は少し高めですが、公園の中でゆっくり過ごせる“おしゃれ空間”としては、なかなか面白い場所でした。

2026年5月24日日曜日

たぶん20年くらい前の自己啓発本

 

ちょっと変わった本を買ってしまった。
タイトルは「引っ込み思案な自分を楽にする本」。たぶん20年くらい前の自己啓発本だと思う。

怪しげな店で、なんと10円で売られていた。
正直、買うつもりはなかったんだけど、「10円ならまあいいか」という軽い気持ちで手に取ってしまった。

でも、読んでみると意外と悪くない。
定価は1500円くらいだったらしく、かなり古い本ではあるんだけど、こういうメンタル系・自己啓発系の本って、古くても内容がそこまで劣化しない気がする。

むしろ今読むと、シンプルで分かりやすい。
昔の自己啓発本って、「少し気持ちを軽くする」とか、「考え方を整理する」みたいな方向性が多くて、気軽に読めるんだよね。

2000年代前後って、自己啓発ブームみたいな時期があって、こういう本が大量に出ていた記憶がある。
当時は軽く読める本が多くて、個人的には今よりずっと入りやすかった気がする。

一方で、最近は哲学系の本が増えている印象がある。
もちろん面白いものもあるんだろうけど、自分には難しすぎる本がかなり多かった。

実際、何冊か買って読んでみたんだけど、
「結局何を言いたいんだろう?」
となってしまうことが多い。

文章は難解だし、抽象的だし、最後まで読んでも頭に入ってこない。
哲学を楽しめる人はすごいと思うけど、自分にはちょっと合わなかった。

だから最近は、「難しいことを理解しよう」とするより、昔の自己啓発本みたいな、気軽に読める本の方が合っているのかもしれないと思っている。

10円で買った本だけど、意外と今の自分にはちょうどよかったのかもしれない。

2026年5月23日土曜日

mocha展を見て感じたこと ― これは「イラスト」なのか、「アート」なのか

先日、mocha展に行ってきました。

僕自身、mochaさんについてそこまで詳しいわけではなかったのですが、有名なイラストレーターの一人で、星空や幻想的な風景をテーマにした独特な作品を描く方、という印象を持っていました。

会場にはたくさんの作品が展示されていて、どれも非常に完成度が高く、まるで映画のワンシーンのような世界観でした。
そして驚いたのが、その価格です。

展示されていた作品の多くは版画でしたが、価格は70万円前後。高いものでは100万円近いものもありました。

そこで自然に思ったのが、

「これはイラストなのか、それともアートなのか?」

ということでした。

見た目だけで言えば、確かにアニメ調のイラストです。
キャラクターや背景の描き方も、現代のデジタルイラスト文化の延長線上にあるように見えます。

ですが、実際に作品を目の前にすると、単なる“イラスト”という言葉では収まりきらないものを感じました。

空気感、光の表現、星空の奥行き、細部まで作り込まれた世界観。
ただ「上手い」だけではなく、その空間が本当に存在しているかのようなリアリティがあるんです。

そして何より、「この絵は魅力的だ」と直感的に感じさせる力がありました。

おそらく、mochaさんの作品は“イラストの技法”を使いながら、“アートの領域”にまで到達しているのだと思います。

もしこれを単なるイラストとして見てしまうと、「70万円は高すぎる」と感じる人もいるかもしれません。
ですが、“作品”として見た時、その世界観や存在感込みで価値が成立している。だからこそ、この価格でも支持されているのだと思います。

さらに面白いのは、現代アートでありながら、とても親しみやすいことです。

一般的な現代アートには、「難しい」「意味がわからない」と感じる作品も少なくありません。
しかしmochaさんの作品は、絵に詳しくない人でも、

「綺麗だな」
「幻想的だな」
「この空気感が好きだな」

と、感覚的に楽しむことができます。

そこが大きな魅力なのだと思います。

会場に来ていた人たちも、いわゆる美術ファンだけではなく、アニメやイラスト文化に興味を持つ若い世代が中心でした。
20代〜40代くらいの人が多く、特に女性の来場者が目立っていた印象があります。

「アート」というと敷居が高く感じられることがありますが、mochaさんの作品は、その入口をとても広くしている。
イラストとしての親しみやすさを持ちながら、作品としてはしっかり“アート”になっている。

だからこそ、多くの人に受け入れられ、注目されているのだと感じました。 

2026年5月22日金曜日

今日、mocha展に行ってきました。

展示されていた作品は20点ほどだったと思うのですが、どれも本当に素晴らしく、とても綺麗な作品ばかりでした。特に印象に残ったのは、夜の星空の表現です。幻想的で、空気感まで伝わってくるような描き方をしていて、「こんなふうに描けるんだな」と感心しました。

もちろん、技術的にもかなり高いレベルの作品だと思います。
でも、実際に見ていて強く感じたのは、「技術以上にセンスがすごい」ということでした。

たぶん最初から完璧に描けていたわけではないと思うんです。
最初に、その人の中に独特のイメージや感覚があって、それを表現したいという気持ちが先にあった。そこに後から技術が追いついていって、最終的にああいう完成度の高い作品になったんじゃないかな、そんなふうに感じました。

絵って、結局そこが一番大事なのかもしれません。
技法や描き方、細かなテクニックももちろん重要なんだけど、それ以上に「どんな世界を描きたいのか」という感覚やセンスが大事なんだと思います。

技術というのは、描き続けている人ならある程度は身についていくものなのかもしれません。
でも、「何を描くか」「どんな空気感を作るか」「どんなイメージを持っているか」という部分は、その人自身の感性に関わるものですよね。

今回mocha展を見ていて、改めて「絵はセンスが大事なんだな」と強く感じました。
まず頭の中にイメージがあり、その世界を形にしたいという感覚がある。そこに技術が積み重なって、初めて人を惹きつける作品になるんだと思います。

原油価格のチャートを見て

最近、中東情勢について少し考えていました。

きっかけは、原油価格のチャートを見ていたことです。週足の5年チャートを見ていると、やはり原油価格というのは世界の不安定さを映す重要な指標なんだなと感じます。

原油価格が上がるということは、単純に「石油が不足するかもしれない」という不安が強くなるということですよね。価格が急騰するほど、市場や世界全体がパニックに近づいていく。

前回大きく上昇したのは、4年ほど前のウクライナ戦争の時でした。
あの時は世界中がかなり緊張しましたが、その後は徐々に落ち着きを取り戻しました。

ただ、今回の中東情勢は、個人的にはさらに深刻な可能性もあるのではないかと思っています。
特に日本のようにエネルギー資源を海外に大きく依存している国にとって、原油供給の問題はかなり重要です。

もちろん、すぐに石油がなくなるわけではありません。
今年の分くらいは確保されているのかもしれません。でも、長期的に見ると、「来年はどうなるんだろう」と不安になる部分もあります。

もし原油の輸入が大きく止まったり、供給が不安定になれば、日本経済への影響はかなり大きいはずです。物流、電力、物価、生活コスト……あらゆるものが関係しています。

だから本来は、もっと多くの人が原油価格やエネルギー問題に関心を持ってもいいのではないか、と感じています。
ただ実際には、世の中全体はまだ比較的楽観的に見えるんですよね。

もちろん、必要以上に不安になる必要はないと思います。
ただ、「エネルギーには限りがある」という意識や、省エネを大切にする感覚は、もっとあってもいいのではないかとも思います。

たとえば、無駄なエネルギー消費を減らすとか、できる範囲で節約するとか。
そういう空気感が、今はあまり強くない気がするんです。

投資をしていたり、経済のチャートを日常的に見ている人でないと、原油価格を意識する機会は少ないのかもしれません。

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