2026年5月2日土曜日

毎日歩くことについて、最近思うこと

僕は毎日、歩いている。

いわゆるウォーキングという感じなんだけど、運動として歩く時もあれば、買い物や用事で歩くこともある。
でも、とにかく1日に最低1回は歩いていると思う。

多い時は2回くらい外を歩いている。

車を持っていないので、移動は基本的に徒歩か、自転車か、交通機関になる。
だから自然と歩く機会が多くなるんだよね。

札幌では、車が当たり前になっている

僕は札幌に住んでいるけれど、やっぱりこの街は車社会だと思う。

もちろん地下鉄やバスなどの交通機関はあるし、コンビニやスーパーもたくさんある。
でも、「自分の行きたい場所へ自由に行く」となると、やっぱり車のほうが便利だ。

実際、周りの家庭もほとんど車を持っている印象がある。

だから、多くの人は移動のたびに車を使っているんじゃないかと思う。

でも、その生活になると、逆にほとんど歩かなくなってしまう。

それは少し不健康なんじゃないか、と個人的には思っている。

散歩している人を、あまり見かけない

歩いていて、いつも思うことがある。

それは、

「散歩している人って、意外と少ないな」

ということだ。

もちろん、たまには見かける。

でも、散歩している人って、なんとなくわかるんだよね。

例えば、

  • 荷物を持っていない

  • 目的地がある感じではない

  • ただ歩いている

そういう雰囲気の人。

でも、そういう人は本当に少ない気がする。

つまり、純粋に「歩くために歩いている人」って、あまりいないんじゃないかと思う。

ジムよりも、散歩のほうが続く

たぶん、多くの人は運動したい時、スポーツクラブとかジムへ行くんだと思う。

実際、僕も昔スポーツクラブに通ったことがある。

でも、正直あまり続かなかった。

まず、行くこと自体がちょっと大変なんだよね。

準備して、移動して、着替えて、運動して、また帰る。
しかも、ジムって意外とハードな運動をすることが多い。

それがだんだん面倒になってしまった。

もちろん、ジムが合う人もいると思う。
でも、自分にはもっと手軽な方法のほうが合っていた。

“続けられる運動”のほうが大事なのかもしれない

その点、散歩やウォーキングはかなり気軽だ。

特別な準備もいらないし、お金もかからない。
思い立ったら、そのまま外へ出ればいい。

しかも、歩いていると頭の整理もできる。

何かを考えながら歩いたり、街の空気を感じたり、季節の変化を見たり。
ただ運動するだけじゃなくて、気分転換にもなる。

だから僕は、激しい運動をたまにするより、

毎日少しでも歩くことのほうが、意味がある

と思っている。

健康って、結局は「続けられること」が一番大事なのかもしれない。

抽象画について、最近思っていること

 以前、現代アートについて自分がどう思っているのかを書いたことがある。

その時、抽象画についても少し触れていたと思う。

実は僕自身、昔は抽象画っぽい表現を描いていた時期があった。

当時は、そういう表現に少し興味があったし、「現代アートとして面白いかもしれない」と思っていたんだよね。

でも、結果的には描かなくなった。

抽象画に興味がなくなった理由

なぜ描かなくなったのかというと、だんだん、

「これは自己満足になってしまうんじゃないか」

と思うようになったからだ。

もちろん、アートは必ずしも他人に理解される必要はない。
そういう考え方もあると思う。

でも僕は、他人が見ても何も感じ取れないものや、意味が全く伝わらないものに対して、少し疑問を持つようになってしまった。

実際、自分自身が「よくわからない抽象画」を見た時に、不快感を覚えることもあった。

もちろん、すべての抽象画がそうというわけじゃない。
でも、「これは何なんだろう」と思うだけで終わってしまう作品も多かった。

現代アートは、なぜ抽象化していったのか

現代アートには抽象的な作品が多い印象がある。

もちろん、現代アート=抽象画というわけではない。
でも、全体として抽象化の方向へ進んでいったのは確かだと思う。

なぜそうなったのか。

僕自身、そこは正直よくわからない。

時代的な価値観の変化や、多様性の考え方も関係しているのかもしれない。
「正解のない表現」が重視されるようになった結果なのかもしれない。

でも、その流れに対して、自分が本当に共感しているかというと、今は少し違う。

“わからないもの”を、無理に理解したいとは思わなくなった

昔は、「理解できないものにも価値がある」と思っていた。

だから抽象画にも興味を持っていたし、自分でも描いていた。

でも今は、そこまで積極的に見たいとは思わなくなってしまった。

もちろん、自分の感覚に合う抽象画もある。
「これは好きだな」と思えるものも、たまにはある。

ただ、そういう作品はかなり限られている。

結果的に、自分が本当に惹かれる抽象画というのは、ごく一部なんだと思う。

今の自分は、“伝わる表現”のほうに興味がある

今の僕は、どちらかというと、

  • 何を感じてほしいのか

  • 何を表現したいのか

  • なぜその作品を作ったのか

そういうものが、ある程度伝わる作品のほうに興味がある。

完全に説明的である必要はない。
でも、少なくとも「何か共有できる感覚」が欲しい。

抽象画は、その“共有”の部分が極端に少なくなりやすい。

だから今は、以前ほど興味を持てなくなってしまったんだと思う。

それは、抽象画を否定したいわけではなくて、単純に自分の感覚が変わったということなんだろうね。

3DCGを30年続けてきて、今あらためて思うこと

 最近、3DCGについて改めて考えることがあった。

僕はもう30年くらい前から3DCGをやっている。
そもそも始めたきっかけは、単純にゲーム業界に入りたいと思ったからだった。

当時はちょうど、「3D表現」というものが世の中に広がり始めた時代だった。

今では3DCGなんて当たり前の技術だけど、その頃はかなり新鮮だった。
「コンピューターの中で立体を作る」ということ自体が、未来の技術みたいに感じられた時代だったと思う。

当時の3DCGは、今とは全然違った

その頃はいろんな3Dソフトが発売され始めていた。

ただ、僕が使っていたのは比較的安いソフトだった。
プロ向けというよりは、初心者向けとか、小規模な制作向けみたいな立ち位置のものだったと思う。

本格的なCGアニメーションを作る人たちは、もっと高価で高性能なソフトを使っていたはずだ。

だから、当時の僕は「プロを目指すCGクリエイター」というより、ただ興味本位で触っていた一般ユーザーに近かったと思う。

しかも、最初はほとんど理解できなかった。

3D空間という概念そのものが難しかったし、操作も複雑だった。
最初の数年間は、「なんとなく触ってるだけ」みたいな感じだったと思う。

一枚の“いい感じの絵”が、すべての始まりだった

でも、ある時、試行錯誤しながら女の子のイメージを作ってみた。

すると、一枚だけ、なんとなく「いい感じ」の絵ができたんだよね。

技術的には全然大したことなかったと思う。
今見たら、おそらくかなり粗いものだったはずだ。

でも、その時に初めて、

「3Dでこういう絵が作れるんだ」

という面白さを感じた。

そこから一気にハマっていった。

技術よりも、“表現できること”が面白かった

当時の僕は、モデリングが特別うまかったわけでもない。

かなり大雑把だったし、高度なこともできなかった。
それでも、3Dで絵を作れるということ自体が面白かった。

たぶん、あの時代に3DCGに触れていた人たちは、みんな似た感覚を持っていたんじゃないかと思う。

「3Dで表現できる」というだけで、すごく新鮮だった。

だから毎日のように何かを作っていた。
いろんな表現を試して、失敗して、また作る。

技術を極めたいというより、
「こんなことができるんだ」という感覚そのものに夢中になっていた気がする。

そして、気づけば“アート”の方向へ向かっていた

ただ、今振り返ると、不思議に思うことがある。

あの時間には、本当に意味があったんだろうか、と。

もちろん、無駄だったとは思わない。
でも、当時の自分は、今みたいな方向に進むとは想像していなかった。

結果的に、僕は「アート」や「芸術」みたいな方向へ興味が向いていった。

その理由の一つは、使っていたソフトにあった気がする。

僕の使っていたソフトは、アニメーションに強いソフトではなかった。
だから、「動き」で見せるというより、一枚の静止画で何を表現できるかを考えるようになった。

もし最初から高度なアニメーションが簡単に作れる環境だったら、たぶん違う方向に行っていたかもしれない。

でも、静止画中心だったからこそ、

  • 一枚の絵の中で何を表現するか

  • 雰囲気や感情をどう出すか

  • 世界観をどう作るか

みたいなことを考えるようになった。

それが結果的に、芸術とかアートの感覚につながっていったんだと思う。

過去は、今につながっている

当時は、ただ面白いからやっていただけだった。

将来どうなるかなんて考えていなかったし、意味があるかどうかもわからなかった。

でも、今こうして振り返ると、あの頃の試行錯誤が、確実に今の自分につながっている。

たぶん人生って、そういうものなのかもしれない。

その時は意味がわからなくても、
後になって、「あれが今につながっていたんだ」と気づくことがある。

3DCGを始めた頃の僕は、ただゲームを作りたかっただけだった。
でも結果的には、表現そのものを考える方向へ進んでいった。

そして、その感覚は今でもどこかで続いている気がする。

人は本当に変われるのか――昔の自分を振り返って思うこと

 何か一つのことについて、とことん突き詰めるというのは、自然なことなんだろうか。

最近、そんなことを考えるようになった。

昔から、自分は一つのことに強くこだわる傾向があった気がする。
でも、それは特別なことではなくて、たぶん誰にでもあるものなんじゃないかとも思う。

例えば、人にはそれぞれ目標がある。
あるいは、「こうなりたい」という思想や理想みたいなものがある。

みんな何かしらを目指して生きているし、それ自体は普通のことだと思う。

ただ、人によって違うのは、「どれだけ深くそれにのめり込むか」なのかもしれない。

僕にとって、それは“自己啓発”だった

20代から30代くらいまで、僕はかなり自己啓発にこだわっていた。

といっても、「成功したい」とか「お金持ちになりたい」というよりは、自分自身を変えたいという感覚に近かった。

もっと自信を持てる人間になりたい。
もっと前向きな人間になりたい。
もっと強い人間になりたい。

そういうことをずっと考えていた気がする。

でも、自己啓発って少し不思議なものだと思う。

例えば資格みたいに、「これを達成した」と目に見える結果があるわけではない。
内面的なものを変えようとする行為だから、変化があったとしても形として見えにくい。

自信がついたとか、考え方が変わったとか、そういう感覚の話になる。

だからこそ、どこまで変われたのか、自分でもよくわからない。

結局、人は根本的には変われないのかもしれない

今振り返ると、僕は「自分を根本から変えたい」と思っていたんだと思う。

そして、そのためにかなり長い時間を使っていた。

仕事も、ある意味ではそういう方向性のものをやっていた。

でも、最終的に感じたのは、

人間は、根本的にはそんなに変わらないのかもしれない

ということだった。

もちろん、技術を身につけたり、仕事を覚えたりすることはできる。
努力によって能力が伸びることもある。

でも、その人の性格や考え方、話し方みたいな「核」の部分は、簡単には変わらない気がする。

頑張れば、行動は変えられる。
モチベーションを上げることもできる。
仕事をバリバリこなす人になることもできるかもしれない。

でも、それは“別人になる”ということではない。

根本にある性質みたいなものは、ずっと残り続ける。

少なくとも、僕自身の経験ではそうだった。

じゃあ、昔の努力には意味がなかったのか

そう考えると、ふと思うことがある。

昔の自分は、一体何をやっていたんだろう、と。

あれだけ時間をかけて、自分を変えようとしていたけれど、本当に意味はあったんだろうか。

もちろん、今さら考えても仕方ない。
過去は変えられない。

でも、ときどきそういう感覚になることはある。

ただ、完全に無意味だったとも思わない。

たぶん、人は「変わる」ことそのものを求めているというより、
「変わろうとする過程」に意味を感じているのかもしれない。

結果として根本は変わらなかったとしても、
その間に悩んだこと、考え続けたこと、行動したことは、確実に今の自分を作っている。

だから、人は変われないのかもしれないけれど、
それでも変わろうとすることには、意味があるのかもしれない。

意識理論の本を読んで思ったこと――僕が考える「生まれ変わり」は宗教とは少し違う

最近、個人的に意識理論に興味があって、いろいろ調べている。

哲学や意識について書かれた本も何冊か買って読んでみた。

でも正直、かなり難しい。

もちろん初心者向けの本もあるにはあるけれど、全体的に見ると、意識についての本は専門的で、普通の人が気軽に読んで理解できるようなものは少ない気がする。
読んでいて、「これは本当に意味があるのか?」と思ってしまうこともある。

ただ、その中で自分が本当に知りたいことは、一般的な意識哲学とは少し違うところにあると気づいた。

僕が考えているのは「死後の世界」というより、「主観は再び現れるのか?」ということ

多くの哲学書や意識の本は、「今、自分が生きていることをどう考えるべきか」というテーマを扱っている。
つまり、「生きている現在」の話が中心なんだよね。

一方で、僕が気になっているのは、その先のことだ。

ただし、これは宗教的な意味での「死後の世界」ではない。

例えば、

  • 魂が肉体を離れて移動する

  • 前世の記憶を持ったまま生まれ変わる

  • 天国や霊界へ行く

みたいな考え方には、あまり興味がない。
むしろ、そういうスピリチュアル的な説明にはかなり懐疑的だ。

それでも、「また誰かとして意識が存在する可能性」はあるのではないか

僕が考えているのは、もっと単純で、でも説明しにくい感覚だ。

人は死んだら、その人としての記憶も人格も終わる。
これは普通に考えれば自然なことだと思う。

でも、その後の未来のどこかで、まったく別の人間が生まれる。
その人には当然、自分の記憶も人格もない。
周囲から見ても、完全に別人だ。

ただ、その人には確かに「自分が生きている」という主観が存在している。

つまり、

「意識そのもの」は、別の存在として再び現れる可能性があるのではないか?

という感覚に近い。

これは一般的な「生まれ変わり」とは少し違う。
魂が引き継がれるわけでもないし、自分という存在が継続するわけでもない。

だから、「転生」という言葉もしっくりこない。

むしろ、

  • “主観”という現象は、生命が存在する限り繰り返し発生する

  • その主観の一つとして、今の自分が存在している

  • そして未来にも、別の誰かの中で主観が発生する

というイメージに近い。

これは哲学なのか、それともただの個人的な思想なのか

こういうことを考えていると、これは哲学なのか、それとも単なる個人的な思考なのかわからなくなる。

科学的に証明できる話ではない。
でも完全に非論理的とも思えない。

意識そのものが、まだ科学的にほとんど解明されていない以上、「主観とは何か」という問いには、まだ答えがない。

だからこそ、こういう考え方も、完全に間違いだとは言い切れない気がする。

少なくとも、自分にとっては、

「死んだら無になる」という説明だけでは、どうしても感覚的に納得しきれない部分がある。

もちろん、それを証明したいわけではない。
ただ、意識について考えていると、自然とこういう疑問にたどり着いてしまう。

そして、それを考えること自体に、ある意味では価値があるのかもしれない。

2026年4月26日日曜日

「エロ」はなぜ排除されるのか

最近、令和に入って特に「性」や「エロ」に対する規制やコンプライアンスが強くなったと感じる。昭和にはもっと身近にあった猥雑さや人間くささが、今は排除されつつあるように見える。

もちろん、人権意識やハラスメントへの配慮が進んだこと自体は大切な変化だ。ただ一方で、「いやらしいことを考えてはいけない」という空気にまでなってしまうと、それは人間の本能まで否定することになりかねない。

そもそも性や欲望は、生き物にとって自然なものだ。恋愛や性愛は、生や繁殖にもつながる根源的なエネルギーでもある。

少子化との関係を単純には語れないが、欲望や親密さが生きづらくなっている社会と、出生率の低下は無関係ではない気もする。

興味深いのは、芸術の世界ではエロティシズムが今も表現として認められていることだ。裸や官能は、美や生命を表すものとして扱われてきた。

問題は「エロの是非」ではなく、それをどう社会が扱うかだと思う。排除するのではなく、人間の本能として成熟した形で向き合うことが必要なのではないか。

「エロ」は低俗なものではなく、生と自由に関わるテーマでもある。だからこそ、ただ消していいものではないと思う。

2026年4月20日月曜日

「若い人が働かない」という話題

最近、「若い人が働かない」という話題をネットで目にすることがある。

これについてはさまざまな意見があると思うけれど、そもそもなぜそういう状況が生まれているのか、少し考えることがある。

やはり大きいのは、社会の仕組みそのものが変わってきているという点ではないだろうか。昭和の時代と令和の今とでは、働く環境も価値観も大きく違っている。

昔は「頑張れば報われる」という感覚が、今よりも強かったように思う。努力すれば給料が上がったり、評価されたり、何かしら成果として返ってくるという実感があった。

しかし今は、どれだけ頑張っても、それがそのまま評価や待遇に結びつくとは限らない。会社によっては、同じような仕事を繰り返すだけで、成長や変化を感じにくい環境もある。

さらに、日本特有とも言える年功序列の仕組みも影響しているように感じる。長く在籍している人ほど上に上がっていく構造では、必ずしも「頑張った人が報われる」とは言い切れない。

そうなると、モチベーションを保つのが難しくなるのも無理はない。

結果として、能力のある人ほど、より評価される環境を求めて会社を離れていく。一方で、現状に適応した人が残るという構図になってしまっている側面もあるのかもしれない。

また、いわゆるブラック企業の問題も無視できない。努力に見合った報酬が得られない環境では、働くこと自体に疑問を持つ人が出てきても不思議ではない。

こうした背景を考えると、「若い人が働かない」というよりも、「働きがいを感じにくい環境が増えている」と言ったほうが近いのかもしれない。

とはいえ、個人的に印象に残っている言葉がある。昔、先輩に言われた「仕事なんて面白いものじゃない」という一言だ。

少し極端ではあるけれど、この考え方には一理あると思っている。最初から「仕事は楽しいものではない」と理解していれば、過度な期待を抱かずに向き合うことができる。

そう考えると、「面白い仕事を探す」というよりも、「どう向き合うか」を考えるほうが現実的なのかもしれない。

もし本当にやりたいことを仕事にしたいのであれば、会社に依存するのではなく、自分で道を切り開く必要がある。独立したり、自分で事業を立ち上げたりするという選択もあるだろう。

会社に入ればやりたいことができる、という時代ではなくなってきている。

そう考えると、働くということ自体の意味も、これからますます変わっていくのかもしれない。

絵がうまい人というのは、


 絵がうまい人というのは、やはり「才能」が大きく関係しているのか、それとも「努力」によるものなのか。どちらなんだろう、と。

テレビなどを見ていると、ほとんど絵を習ったことがないような子どもが、いきなり驚くほど上手な絵を描いている場面が紹介されることがある。まだ幼いのに、大人顔負けの表現力を持っている、いわゆる“天才”のような存在だ。

そういうのを見ると、やはり才能というものは確かにあるのかもしれない、と思わされる。

一方で、絵は描けば描くほど上達する、というのも事実だと思う。練習を重ねることで技術が磨かれていくのは、どんな分野でも同じだ。

ただ、それだけで「いい絵」が完成するかというと、どうもそれだけでは足りない気もする。

絵というのは単なる技術の積み重ねではなく、その人の考え方や感性、これまでの経験、表現したいテーマなど、さまざまな要素が重なって生まれるものだと思う。言ってみれば、その人自身がそのまま表れるものなのかもしれない。

だからこそ、ただ練習すれば必ずしも良い作品にたどり着くとは限らないし、逆に、これまであまり絵を描いてこなかった人が、ふとしたきっかけで描いた一枚に独特の魅力が宿ることもあるのではないかと思う。

突発的な発想や、その人ならではの視点が評価されることもあるだろう。

結局のところ、「どうすればいい絵が描けるのか」という問いに、はっきりとした答えはないのかもしれない。

才能、努力、経験、感性――そういったものが複雑に絡み合って、一枚の絵が生まれる。

だからこそ、絵というものは面白いし、簡単には割り切れないものなんだと思う。

人は見た目だけでは、本当のところはわからない


人は見た目だけでは、本当のところはわからないんじゃないか、ということだ。

世の中って、どうしても見た目で判断されがちだと思う。
「あの人はなんとなく怪しい」とか、「感じが良さそう」とか。年齢や性別、服装や雰囲気だけで、無意識のうちに「いい人」「よくない人」と決めつけてしまうことが多い。

でも実際には、それってかなりズレていることもあるんじゃないかと感じる。

たとえば、すごく仕事ができる人がいたとして、その人の見た目が特別良いとは限らない。むしろ、見た目は地味だったり、ぱっとしない印象の人のほうが、コツコツ真面目に仕事をしていたりすることもある。

逆に、見た目が良くて感じも良さそうな人が、必ずしも中身まで優れているとは限らない。もちろんそういう人もいるけれど、見た目と中身が一致しているとは言い切れない。

自分のこれまでの経験からすると、どちらかというと真面目な人ほど、派手さのない落ち着いた格好をしている印象がある。

自分自身について言えば、もう若い頃のような見た目ではないし、いわゆる「かっこいい」という年齢でもない。いわゆる“おじさん”の部類に入ると思う。

だからといって、特別どうこう思うわけではないけれど、せめて清潔感のない格好はしないように気をつけている。安っぽすぎる服は避けるとか、髪型を整えるとか、そのくらいは意識している。

結局、自分で変えられる「見た目」って、その程度のことなのかもしれない。

でも、それ以上に大事なのは、やっぱり中身なんじゃないかと思う。

見た目だけで人を判断することの危うさを、最近あらためて感じている。

2026年4月17日金曜日

iPhoneで絵画を撮影してみた。

先日購入したiPhone17eは、思っていた以上にバランスのいいスマートフォンだと感じている。特にカメラ性能は十分で、普段使いにはまったく不満がない。2倍ズームにも対応していて、日常の撮影はもちろん、絵画の撮影にも活用できるレベルだ。

ただ、実際に撮ってみて改めて感じたのは、撮影そのものの難しさだ。光の当たり方や角度、微妙なブレなど、少しの違いで仕上がりが大きく変わる。やはりプロのカメラマンのように、常に完璧な一枚を撮るのは簡単ではない。

それでも試行錯誤しながら撮影を続けていると、このiPhone17eがしっかり役立ってくれていることに気づき、少し嬉しくなる。

とはいえ、約10万円という価格は決して小さな出費ではない。スマートフォンにこれだけの金額を支払うのは正直なところ悩ましい部分もある。それでも、日々使うものとしての価値を考えると、大きな買い物だったと実感しつつも、納得感はある。


2026年4月16日木曜日

なぜ自分は3DCGを始めたのか?

 「なぜ自分は3DCGを始めたのか?」

そんなことを、今になってふと思い出した。

きっかけはとてもシンプルで、ゲーム業界に入りたかったからだ。今から30年ほど前の話になる。当時、ゲームに関わる仕事といえば、プログラマー、デザイナー、サウンドなどいくつか選択肢があったが、自分にできそうだと思ったのはデザイナーだった。

「それなら、3Dをやればいいかもしれない」

そんな軽い発想から、3DCGに手を出したのが始まりだった。

とはいえ、当時は本当に何もできなかった。マシンの性能が低かったこともあるが、それ以上に「絵を描く」という行為そのものがうまくできなかった。頭の中のイメージに、手がまったく追いついていなかったのだ。

しばらくは思うようにいかず、半ば諦めたように手を止めていた時期もあった。

そんな中でふと、「好きな女性アーティストを描いてみたい」と思った。動機としてはかなり個人的で単純なものだったが、そのときに完成した作品は、ぎこちなさはありつつも、自分でも驚くほど“いい感じ”に仕上がった。

その瞬間、頭の中で何かが切り替わったのをはっきりと覚えている。

「3Dで絵を描くのは面白い」

そう思ってからは、ほとんど毎日のように3DCGに没頭していた。振り返れば、取り憑かれたように描き続けていた時期だったと思う。

結局、ゲーム業界に入ることはなかった。代わりに進んだのはIT業界だった。

ただ、そこでもまた新しい変化があった。WEBデザインに触れたとき、「これは面白い」と直感的に感じたのだ。仕事として関わる中で、デザインを考え、形にしていく過程そのものに強い興味を持つようになった。

最初のきっかけはゲーム業界への憧れだったはずなのに、気づけば違う道に進んでいる。それでも、3DCGもデザインも、自分の中ではどこかで繋がっている感覚がある。

結局のところ、すべては「面白い」と感じた瞬間から始まっているのかもしれない。

恋愛に関する“黒歴史”

以前にも少し触れたけれど、自分の恋愛に関する“黒歴史”が、今の絵に影響しているのではないか――そんなことをふと思ったので書いてみる。

若い頃は、誰でも誰かを好きになるものだと思う。でも、その気持ちがうまく実ることは少なくて、振り返ると、報われない片思いに長い時間を使っていた気もする。

じゃあ、その経験が「絵を描く理由」になっているのかと言われると、正直よくわからない。ただ、恋愛に対してどこか満たされなかった感覚があったのは確かで、それが多少なりとも影響している可能性はあると思う。

思い返せば、昔からいわゆる“オタクっぽい”女の子の絵を描いていた気がする。今でもそういうゲームを遊んでいるし、自分の中の女性像は、そうした世界観に影響を受けているのかもしれない。

もちろん、現実の女性と空想の女性が違うことは理解している。それでも、自分の中で自由に思い描いている分には問題はないとも思っている。

若い頃は女性アーティストに夢中になっていた時期もあった。今振り返れば、ごく普通の若者だったのかもしれない。ただ、それが今の絵にどう関係しているのかは、やはりはっきりとはわからない。

結局のところ、片思いの黒歴史をどこかで誤魔化すために絵を描いているのか、それとも全く別の理由なのか――自分でもよくわからない。ただ、無関係ではない気もするし、かといってそれがすべてとも思えない。

そんな曖昧なまま、今も絵を描いている。

 

2026年4月12日日曜日

僕は長い間3DCGをやっていた。

 以前に少し触れたことがあるけれど、僕は長い間3DCGをやっていた。

ただ、不思議なことに、これまで自分の作品についてはほとんど載せてこなかった。
今回から、少しずつ振り返りながら公開してみようと思う。

自分の方向性としては、どちらかといえばリアル寄りの表現を目指していた。
とはいえ、モデリングそのものよりも、どちらかと言えば「レンダリング」の方に興味があった。

今振り返ると、少し変わっているかもしれない。

というのも、僕は何年もかけてレイトレーシングの研究ばかりしていたからだ。

理由は単純で、当時使っていた3Dソフトがかなり古く、
レイトレーシング性能が低くて、思うように綺麗な絵が出せなかった。

それが、ただただ悔しかった。

普通なら「新しいソフトを使えばいい」と考えるところだと思う。
実際、僕もそう思ったし、試そうとしたこともある。

でも、他の3Dソフトはあまりにも難しすぎて、自分には扱えなかった。

あるとき、詳しい人に相談したら
「Blenderを1年かけて教えてあげる」と言われたこともある。

けれど、さすがに1年という時間は現実的ではなかったし、
そこまでして習得する意味が自分には見いだせなかった。

だから僕は、新しいツールに移るのではなく、
今ある環境でどこまでやれるか、限界を超えることに時間を使うことにした。

他人から見れば、かなり非効率で、
もしかすると「変わっている」と思われる選択だったかもしれない。

それでも、長く使ってきたソフトだったからこそ、
その限界を突き詰めてみたかったのだと思う。

結果として、それなりに「ここまでできるのか」と思えるところまでは到達できた。

ただ、ある程度の成果が出た瞬間、
不思議とそこで満足してしまい、それ以上先に進むことはなかった。

達成して、終わり。

今となっては、その先に何かを積み上げることもなく、
静かに一区切りがついた感じだ。

正直なところ、あの何年間は一体何だったのか、
自分でもよく分からない。

いわゆる「黒歴史」なのか、それともそうではないのか。
はっきりとは言えない。

ただ一つ確かなのは、
あの時間、自分は確かに努力していたということだ。

そして今は思う。

人間にとって大事なのは、結果そのものよりも、
何かに打ち込んでいる時間そのものなのかもしれないと。

そう考えると、あの時間も決して無意味ではなかったのだろう。

早寝早起きって意外といいかもしれない

最近、「早寝早起きって意外といいかもしれない」と思い始めている。

ここ最近、試しに生活リズムを少し変えてみた。
寝る時間は23時ごろ、起きるのは7時ごろ。いわゆる「早寝早起き」だ。

最初は正直、これが本当に良いことなのかよく分からなかった。
でも、しばらく続けてみた結果、「これはアリだな」という結論に落ち着いている。

理由はシンプルで、午前中に使える時間が増えたからだ。

以前は、24時ごろに寝て8時に起きる生活。
これでも睡眠時間は同じく8時間なので、理屈の上では何も変わらない。

ただ、1時間前倒ししただけ。

でも、この「たった1時間」が意外と大きい。

朝の1時間は、ただの1時間ではない。
頭がすっきりしていて、あまり眠くもないので、作業効率がいい。

体感としては、1時間以上の価値がある
おそらく追加で90分くらいの仕事量をこなせている気がする。

同じ8時間寝ているのに、ここまで差が出るのは少し不思議だ。

もちろん、この生活にもハードルはある。

一番の問題は「寝る時間」だ。

23時に寝るためには、22時30分くらいには布団に入る準備をしないといけない。
つまり、かなり早い段階で「今日はもう終わり」と決める必要がある。

これが意外と難しい。

夜はどうしてもダラダラしがちだし、
「あと少しだけ」と思っているうちに時間はすぐ過ぎてしまう。

だからこそ、意志を持って早く寝ることが重要になる

その代わり、次の日は少し早く起きられる。

たったそれだけのことなのに、
1日の流れが変わり、気分も変わる。

今のところ、この生活はかなり気に入っている。

しばらくは、この「23時就寝・7時起床」を続けてみようと思う。

2026年4月8日水曜日

恋愛観について書いてみる(あまり意味はないけれど)

 これまで、自分が恋愛について語ることはほとんどなかった。というのも、誰かと付き合った経験があるわけでもなく、ただ一方的に誰かを好きになっていただけだからだ。

今振り返ると、それは「恋愛」というよりも、ただの勝手な片思いだったのかもしれない。だからこそ、自分には語れるような恋愛観などないのだと思う。

その後も誰かと付き合うこともなく、結婚することもなく、どこか「不完全な人生」を歩いてきたような感覚がある。

女性に対する憧れはある。けれど、どう接していいのかは今でもよくわからない。

ただ一つ、不思議なことがあった。主に学生時代、なぜか自分に好意を持ってくれていた女性がいたことだ。でもその頃の自分は、別の女性に夢中だった。

もしあのとき、自分を好いてくれていた人と向き合っていたら、違う人生になっていたのかもしれない。もしかしたら、幸せな関係を築けていた可能性だってある。

とはいえ、それはすべて「後の祭り」だ。今さらどうこう言っても仕方がない。

振り返れば、その片思いは自分の人生に大きな影響を与えたと思う。あの状態に陥っていなければ、もっと「普通」の人生――恋愛をして、結婚して――そんな道を歩んでいたかもしれない。

片思いも、ある程度を超えると人の人生を歪めてしまうことがある。今だからそう思えるけれど、当時はそんなふうには考えもしなかった。

そして、その想いから目が覚めたとき、自分の中は空っぽになっていた。何のために生きているのかもわからなくなり、自分の存在すら無意味に感じた。

そこからが、いわば「第二の人生」なのかもしれない。

ただ、正直に言えば、あまり面白い人生だとは思えなかった。

人は何かに夢中になっているときのほうが、案外楽しく生きられるのかもしれない。それがなくなったとき、日常は急に色を失ってしまう。

とはいえ、すべては結果論だ。だから、今はただ「そういうものだった」と受け入れるしかないのだと思う。

2026年4月7日火曜日

56歳の誕生日に思うこと

 今朝、スマホのアラームで自分の誕生日だと気づいた。

とはいえ、正直なところ特別嬉しいという感覚はない。

気づけばすっかり中年の「いいおじさん」になったわけで、
年齢そのものに喜びを見出すことは少なくなった気がする。

それよりも今は、アートのことを考えている時間のほうがずっとワクワクする。
きっと、自分が本当に描きたかったものを描けているからだろう。
そこには、ある種の満足感がある。

ただ一方で、家族が入院したりと慌ただしい日々が続いていて、
それだけはどうしても不安が残る。

僕自身はというと、毎日PS5でゲームをしている。
それだけでも十分に楽しいと思えるし、
本当はもっといろいろ楽しみたい気持ちもあるけれど、
そうなるとどうしてもお金がかかってしまう。

結局、人間は「楽しいこと」を追い求めるほど、
お金という現実にぶつかるのだと思う。

だからこそ、散歩のようにお金を使わない楽しみはとてもいい。
ゲームもそうだし、何より自分の描きたいアートを描くこと。
それだけで、もう十分なのかもしれない。

あとは、どれだけ自分が納得できる作品を描けるか。
それが一番大事なことだと思っている。

食事についても同じで、贅沢をする必要はない。
最低限のもので十分だし、外食はむしろ贅沢の部類だろう。
家で気楽に食べていれば、それでいい。

56歳になって思うのは、
「足るを知る」ということなのかもしれない。

社会の構造は本当に理不尽なのか

社会の構造は本当に理不尽なのか——そんな問いが、これまで何度も自分の中に浮かんできました。

その背景には、会社勤めをしていた頃の経験があります。いわゆるブラック企業やパワハラと呼ばれるような環境でしたが、当時はまだそうした言葉自体が一般的ではない時代でした。概念として存在していなくても、どこか「これはおかしいのではないか」という違和感だけは、はっきりと感じていたのです。

その中で特に強く感じたのが、「会社は何をもって人を評価しているのか」という点でした。一見すると、人間性が重視されているように見えます。では、その人間性とは何なのか。仕事に対する真面目さなのか、気力や体力なのか。

自分なりに考えた結論は、少し違うものでした。会社における人間性とは、つまりコミュニケーション能力のことなのではないか、ということです。

極端に言えば、コミュニケーション能力がある人は評価され、そうでない人は評価されにくい。そこには、仕事ができるかどうかとは別の基準が存在しているように感じました。たとえ高いスキルを持っていても、周囲とうまく関係を築けなければ必要とされない。一方で、多少仕事ができなくても、人との関係性が良ければ認められることもある。

もちろん職種による違いはあるにせよ、こうした傾向は多くの組織に共通しているのではないかと思います。

では、コミュニケーション能力とは何か。それは突き詰めれば、「人から好かれるかどうか」ということに近いのかもしれません。周囲に受け入れられる人は居場所を持てるが、そうでない人は排除されやすい。そんな構造があるように感じていました。

仕事ができるだけでは不十分で、人間関係の中でうまく振る舞えることが求められる。その現実が、自分にとってはどこか理不尽に思え、苦しさの原因にもなっていました。

結果として、自分は組織から離れ、独立という道を選びました。ただそれも、強い意志というよりは、流れの中でたどり着いた選択だったように思います。

結局のところ、どんな立場であっても、自分にできることを一つひとつ積み重ねていくしかない。そうやって、自分なりの生き方や表現を見つけていくしかないのだと、今は感じています。


セカンドコレクションを本格的に始動するにあたって


現在さまざまな説明やビジュアルを制作しています。

作り始めてみると、これが想像以上に面白くて、気づけば夢中になってデザインを組み上げています。感覚としては、まさにWebデザインを作っているような手応えです。もともと自分の本業の一部でもあるため、このプロセスには自然と没頭してしまいます。

制作を進める中で、「こういう仕様の方がいいかもしれない」といった新たな気づきも次々と生まれています。アイデア同士が結びつき、作品としての完成度や価値が一段と高まっている実感があります。この試行錯誤そのものが、とても刺激的であり、同時に大きな学びにもなっています。

さらに深く掘り下げていくと、「そもそもYUMIアートとは何なのか」という核心にも自然と向き合うことになります。そして、自分がなぜアートを描いているのか、その理由にも改めて気づかされる瞬間があります。

昔に思い描いていたイメージや考え方が、今まさに現実になろうとしている。その感覚はどこか不思議で、同時に強い面白さを伴っています。

かつて3Dではどうしても表現しきれなかった葛藤や限界。それらを、今なら乗り越えられるのではないか——そんな確かな手応えも感じています。

YUMIアートは、単なる作品制作ではなく、自分自身の内面と向き合い続けるプロセスそのものなのかもしれません。

2026年4月4日土曜日

iPhone 17eを購入したので、その感想を少し書いてみたい。

実は、iPhoneを買ったのは今回が初めてだ。これまでずっとAndroidスマホを使い続けてきたから、自分でも少し意外な選択だったと思う。

買い替えた理由はシンプルで、6年も同じ端末を使っていたからだ。さすがにそろそろ新しくしたいと思った。ただ、いざ探してみると、Androidの機種はどれも似たり寄ったりに見えてしまい、これだと思えるものがなかなか見つからなかった。

もしかするとこれは、以前使っていたBlackBerryの影響もあるのかもしれない。物理キーボードが付いたあの独特な端末に慣れていたせいで、キーボードのないスマホはどれも同じように感じてしまう。そう考えると、見た目や持ったときの感覚まで含めて「これならいいかもしれない」と思えたのが、iPhoneだった。

理由としては、意外と単純だ。

そしてふと思ったのは、こういう理由でiPhoneを選ぶ人は、意外と他にもいるのではないかということだ。逆に、iPhoneからAndroidに乗り換える人がいるなら、その理由も少し気になる。やはり価格の問題は大きいのだろうか。

正直に言えば、10万円という価格はかなり高いと感じた。スマホ1台にここまで出すのか、という抵抗はあった。それでも結局は必要に迫られて購入したわけだが、実際に使ってみると、良いスマホだとは思う。少なくとも「失敗した」という感覚はない。

パソコンに比べれば安い、と無理やり納得している部分もあるけれど、それもひとつの考え方かもしれない。

そして何より、新しいものを手に入れたときのあの感覚。これはやはり嬉しいものだと改めて感じた。

結局のところ、今一番強く感じているのは、そのシンプルな喜びなのかもしれない。

他人の作品に強い興味が持てないのはなぜだろう。

自分にとっての「アート」とは何なのか――そんなことを、これまで何度も考えてきた。

以前にも書いたように、現代アートを数多く見てきたものの、「これが本当に好きだ」と思える作品になかなか出会えないという現実に、少し戸惑っていた時期があった。現代アートそのものには興味があるのに、肝心の作品に対して心が動かない。気に入るものを見つけること自体が、どこか難しく感じられた。

もちろん、数を重ねていくうちに、アートの意味や構造のようなものは徐々に理解できるようになった。それでも、「欲しい」「手元に置きたい」と思えるほど惹かれる体験は、あまり多くはなかった気がする。

振り返ると、作品を理解しようとする過程そのものに、かなりのエネルギーを使っていた。学ぶこと、意味を読み取ることに苦労した記憶が強く残っている。そして今でも、抽象画の一部を除けば、どうしても好きになれない作品は多い。

ただ最近では、「無理に好きになる必要はない」と思うようにもなった。

そう考えると、これまで美術館に足を運び続けてきた時間は何だったのか、と自分に問いかけたくなることもある。正直なところ、はっきりとした答えは出ていない。

それでも一つ確かなのは、その遠回りのような経験を通して、「アートを見る目」は確実に養われたということだ。それだけでも意味があったのではないかと思う。

もう一つ、ずっと気になっていることがある。

仮に「アートを見る目がある人」がいたとして、その人は素晴らしい作品を自ら生み出せるのだろうか。アートを描くには技術が必要だと考えると、「見る力」だけでは不十分なのかもしれない。

逆に、「見る目がまったくない人が描けない」というのは、なんとなく理解できる気もする。では、見る目がある人とない人の差とは、いったいどれほどのものなのだろうか。

結局のところ、「好みの問題」と言ってしまえばそれまでかもしれない。それでも、その曖昧な境界線について考えること自体に、どこか惹かれている自分がいる。

2026年3月29日日曜日

睡眠時間を見直して気づいたこと|早起きは本当に得なのか?

最近、あらためて「睡眠」の大切さを実感しています。

というのも、しっかり眠れていないと、とにかく体がつらい。そして何より、仕事の効率が明らかに落ちると感じるようになりました。時間をかけても進まない、集中できない——そんな状態が続いていたんです。

そこでどうすればいいか考えた結果、シンプルですが「寝る時間を早くする」しかない、という結論にたどり着きました。

ルールを決めたら生活が安定した

試しに「夜11時までには必ず寝る」というルールを設定してみました。

これが思った以上に効果的でした。

生活リズムが整い、毎日が安定するようになったんです。朝も自然と起きられるようになり、日中のパフォーマンスも上がりました。

さらにもう一つ、大事にしているルールがあります。

それは「必ず8時間寝ること」。

例えば、

  • 23時に寝るなら7時起き
  • 22時に寝るなら6時起き

というように、睡眠時間をきっちり確保することを優先しています。

早起き=正解とは限らない?

よく「早起きは得」と言われますが、個人的には少し違うと感じています。

無理に早起きすると、かえってリズムが崩れることもあるからです。

大事なのは「何時に起きるか」ではなく、「必要な睡眠時間を確保できているか」。

その意味で、“きっちり8時間寝る”というのは、自分にとってかなり重要なポイントでした。

シンプルだけど効果的な習慣

今のところ、このルールで生活していて特に問題はなく、むしろかなり調子がいいです。

  • 体が楽
  • 集中力が続く
  • 一日の流れが安定する

こうした変化を実感しています。

父の言葉が今になってわかる

この考え方、実は昔から父に言われていたことでもあります。

「早く寝るのは大事だ」

当時はあまりピンと来ていませんでしたが、今になってその意味がよくわかります。

結局、シンプルな習慣こそが一番効果的なのかもしれません。

早起きが得かどうかよりも、「しっかり眠れているか」。

それを基準に生活を整えることで、毎日は確実に変わっていくと感じています。

2026年3月28日土曜日

写真のように見えるデジタルアート

最近、写真のように見えるデジタルアートを描くことにハマっています。

もちろん本物の写真ではなく、実在する人物でもありません。それでも不思議とリアルに感じられる表現に挑戦するのがとても面白く、今ではひとつの作品スタイルとして続けていこうと思うようになりました。

もともとは実験的な試みとして始めたものですが、思いのほかしっくりきて、自分でも気に入っています。「写真のようでありながらアートでもある」という在り方は、現代アートの流れにも自然と重なる部分があるように感じます。実際に写真家としてだけでなく、アーティストとして活動している人も多く、その境界はますます曖昧になってきています。

とはいえ、僕自身は写真そのものに強い興味があるわけではありません。あくまで「女性を描くこと」にこだわりがあり、その表現方法のひとつが、たまたま写真風のタッチだったというだけです。

イラストであれ写真風であれ、魅力的な女性を描くこと、そしてそれを見ることは、やはり純粋に楽しいものです。

ある意味、それは男のロマンなのかもしれません。


2026年3月23日月曜日

絵画教室に通っていたこと

 昔、ほんの短い期間ですが絵画教室に通っていたことがあります。

今振り返ると、成人男性が一人で絵画教室に通うケースはあまり多くないのかもしれません。定年後の趣味として通う人はいるでしょうが、当時の僕のような立場は少し珍しかった気がします。

実際、教室に通っていたのはほとんどが学生でした。小学生から高校生まで幅広く、中には美大進学を目指して真剣に取り組んでいる高校生もいました。そんな中で、僕だけがいわゆる「おっさん」。周りからどう見られていたのかは分かりませんが、少し浮いていたのは確かです。

そもそも僕が絵画教室に通った理由は、3Dグラフィックをやっていたことから「アート」に興味を持った、ただそれだけでした。

教室の先生は、いわゆる現代アート寄りの作風で、抽象画を中心に描く人でした。さらに、その弟子も通っていて、同じく抽象画に取り組んでいました。弟子の方はまだ無名で、コンクールに出す作品を一生懸命制作していたのが印象的でした。

一方の僕はというと、ひたすら模写。

正直に言うと、最初は「なぜ模写をするのか」が全く理解できませんでした。意味が分からないことを続けるのはなかなか辛く、面白さも感じられず、「これに意味はあるのか?」と疑問ばかりが浮かんでいました。

けれど、後になってその理由が少しずつ分かってきます。初心者にとって模写は基礎であり、観察力や手の動きを鍛えるための大切なプロセスだったのです。

実際、何枚か描いていくうちに、わずかではありますが自分でも上達を感じる瞬間がありました。やってみて初めて、手描きとCGがまったく別物であることも実感しました。デジタルとは違い、線一本にも技術が必要で、思った以上に「描く力」が問われる世界でした。

そんな中で、ふと「女の子の絵を描きたい」と思ったことを覚えています。

不思議なもので、そのときは実際に描くことはありませんでしたが、頭の中ではずっとイメージしていました。構図や表情、雰囲気のようなものをぼんやりと。

そして今、こうして改めて絵を描いている自分は、もしかするとあのとき頭の中にあったイメージを、ようやく現実にしているのかもしれません。

2026年3月22日日曜日

2年間のゲーム制作が黒歴史になった話





2024年から2025年にかけて、僕は本気でゲーム制作に打ち込んでいた。もともとずっとやってみたかったことだったし、仕事の時間も最低限に抑えて、ほとんどの時間を制作に費やしていた。

あの頃は、「ここまでやれば何かしら結果が出るだろう」と思っていた。でも、振り返ってみると、現実はかなり厳しかった。

売上という意味では、正直に言って惨敗だったと思う。

それでも、完全に何も残らなかったわけではない。最終的に10本以上のゲームを完成させることができた。ただ、その内容は他人から見れば中途半端に映ったかもしれない。

自分の中でのこだわりははっきりしていて、グラフィックに全力を注いでいた。プログラミングが得意ではなかったこともあり、ゲーム性にはあまり重点を置かなかった。この判断が良くなかったのは間違いないと思う。

さらに大きかったのは、「自分が作りたいゲーム」と「世間が求めているゲーム」のズレだった。

自分の作品は自分では気に入っている。でも、それが他人にも受け入れられるかというと、話は別だ。そのギャップは最後まで埋まらなかった気がする。

ただ、グラフィックに全振りした制作スタイルは、いかにも自分らしいとも思う。他の人とは少し違う感覚で作っていたのかもしれない。

後半は、いわゆる“バイブコーディング”にもかなり力を入れた。ただ、Unityのような高機能なエンジンを使っていたわけではなく、自分のやり方には限界もあった。それも含めて、自分らしい結果だったと思う。

器用に何でもこなせるタイプではなかった。でも、それでも制作をやり切ったという事実だけは残った。

この2年間が無駄だったのかどうかは、まだわからない。

ただ一つ言えるのは、「グラフィックにすべてを賭けた」という確かな記録だけは、自分の中に残っている。

2026年3月21日土曜日

iPhone17eを買う直前に感じたこと

今使っているスマホは、気づけばもう6年。さすがに動作も重くなり、そろそろ買い替え時かなと考えている。

そんな中で目に入ったのがiPhone17e。これまで一度もiPhoneを使ったことはないけれど、「デザインが良い」というイメージはずっと持っていた。

ただ、最近のiPhoneを見ていると、その印象が少し変わってきた気がする。昔のiPhoneは、無駄を削ぎ落としたような洗練された美しさがあった。それに比べると、今はどこか方向性が変わってきているように感じる。

理由はいろいろあるのだろう。技術の進化やユーザーのニーズに応えるため、機能性がどんどん優先されてきた結果かもしれない。新しい機能やアップデートがなければ売れない時代になり、その積み重ねが本体デザインに影響しているのだと思う。

機能が増えるほど、見た目が少しずつ複雑になっていく。結果として、かつてのようなシンプルで美しい印象は薄れてきた。そこは正直、少し残念に感じる部分でもある。

とはいえ、完全に魅力がなくなったわけではない。今でもiPhoneらしいシンプルさや統一感はしっかり残っているし、全体としての完成度はやはり高い。

もう一つ悩ましいのが価格だ。昔なら5万円前後でスマホが買えた感覚があるが、今のiPhoneは10万円クラスが当たり前。スマホにそこまでの価値があるのか、と考えてしまう。

性能を見ればパソコンに近いレベルとも言えるし、物価の上昇を考えれば仕方がないのかもしれない。ただ、気軽に買い替えられる金額ではないのも事実だ。

キャリアの「返却プログラム」を使えば実質半額で持てる場合もあるが、あれは2年で手放す前提。いわばリースのようなものだと感じている。

自分は格安SIMを使っているので、キャリアの高い料金プランは正直合わない。だからこそ、簡単に買い替えるわけにもいかない。

長く使う前提で考えると、なおさら慎重になる。

2026年3月20日金曜日

少しいい絵が描けた気がする日。

相変わらず毎日、作風を試行錯誤しているのだけれど、今日は少しだけ「これ、いいかも」と思える一枚ができた気がする。

どこがいいのかと聞かれると、正直うまく言えない。雰囲気なのか、バランスなのか。ただ、なんとなく「しっくりくる」感じがあった。

それでふと、自分が描きたい絵の方向が少し見えたような気もした。はっきり言語化できるわけじゃないけれど、「こういう感じなんだろうな」という輪郭が、ぼんやり浮かんできた。

そんなことを考えていたら、もう3月も終わりそうだ。
4月が来るのがやけに早く感じて、少し焦る。

今年に入って、自分は何をしていたんだろうと思う。結局ずっと試行錯誤していただけなんじゃないか、と。

もちろん、それなりにいろいろやってきたつもりではある。でも、目に見える結果という意味では、何かを掴めたとは言い切れない。

だからこそ、「この絵でいい」と自分で区切りをつけるのも一つの答えなのかもしれない。
これが今の自分の到達点だと認めること。

無理やりでも納得する、というのも時には必要なのだろうか。

話は変わるけれど、実はコートを買い替えた。

10年着ていたスプリングコートがさすがにボロボロになって、ついに手放した。
とはいえ、新しいコートを選ぶのもなかなか面倒で、店舗も見て回ったけれどピンとくるものがなかった。

結局、「もういいか」と思ってAmazonで適当に購入。

10年前に3万円で買ったコートに対して、今回は5千円。品質の違いはあるのかもしれないけれど、見た目だけで言えばそこまで大きな差は感じない。

少なくとも、10年着続けて傷んだコートよりはずっといい。

別に節約しているつもりでも、困っているわけでもない。
ただ単純に、「10年も着たら十分だろう」と思っただけだ。

絵のことも、こういう日常のことも含めて、今はまだ途中なのだと思う。
それでも、少しでも「これでいい」と思える瞬間があるだけで、救われる気がする。

なんとなく晴れない毎日。

毎日のように絵は描いているのに、それだけが原因じゃない気がしている。むしろ、いろんな小さな「引っかかり」が積み重なって、気持ちがモヤっとしている感じだ。

最近は家庭の事情でやらなければいけない作業もあって、正直ちょっと面倒に感じている。本来なら業者に頼めば済む話だけど、そこそこ費用がかかるので結局自分でやることに。やればできるとはいえ、気が重いのは変わらない。

それとは別に、スマホの買い替えもずっと気になっている。今使っているものはもう6年目。ここまで長く使う人もあまりいない気がする。

次はiPhoneにするかどうかで迷っているけれど、これまで使ったことがないので少し不安もある。eSIMの設定も少し面倒そうだし、何より価格が10万円前後というのがなかなか厳しい。

今のスマホ自体は気に入っているのに、「古いものを使い続けている」という事実が、どこか引っかかってしまう。こういう小さな違和感も、積み重なると意外と気になるものだ。

さらに言えば、PCも5年使っているので買い替えを考えたけれど、特に壊れているわけでもない。欲を出さなければ、まだ数年は使えそうだと思うと、決断も先送りになる。

やりたいことはいろいろあるのに、なかなか手をつけられない。進めたいのに進めていない感覚がずっとある。

もしかすると、この「停滞している感じ」こそが、今のモヤっとの正体なのかもしれない。

絵のことも、仕事のことも、全部含めて。
少しずつでも前に進めていけたらいいのだけれど。

2026年3月19日木曜日

写真のような質感を持つアート

 ――いわゆる「写真風アート」に、最近取り組んでいる。

現代では、写真そのものがアートの一分野として確立されていることもあり、こうした表現もまたアートの自然な派生形だと感じている。実際に制作してみると、想像以上に面白い。

もちろん、これはデジタルで生み出された作品であり、被写体は実在しない架空の人物だ。それでも、不思議なことに強い「存在感」がある。名前も年齢も背景もないはずなのに、まるでどこかに本当に存在しているかのように感じられる瞬間がある。

制作中、「この人は実在しているのではないか」と錯覚することさえある。それほどまでに、イメージと存在感の距離が近づいているのだと思う。

絵画の世界には、筆で驚くほど写実的に描く画家がいる。その技術には純粋に敬意を抱くし、自分の好みにも近い表現だと感じている。ただ、自分自身は筆を取ることはなく、あくまでデジタルアートという手法にこだわっている。

振り返ると、思考のベースは30年前に取り組んでいた3Dグラフィック制作と大きく変わっていない気がする。当時のPCは性能も低く、表現できることには明確な限界があった。リアルな人物、特に自然な女性像を作ることはほぼ不可能だった。

それを思えば、現在こうした作品を生み出せていることは、これまで積み重ねてきた時間や試行錯誤の延長線上にある結果なのかもしれない。

技術の進化とともに、表現の可能性は確実に広がっている。そしてその中で、自分なりの「リアル」を追い続けること自体が、このYUMIアートの進化系への挑戦なのだと感じている。

2026年3月17日火曜日

戦争と仕事とアートについて考えてみた

 最近の世界情勢は、どこか物騒になってきている。

いくつかの国では戦争が起きており、ニュースでもその話題が毎日のように流れてくる。

そんな状況の中で、日本がとても平和な国であることに、ふと不思議さを感じることがある。
多くの人が毎日三食の食事をとり、日常生活を普通に送っている。
少なくとも、日本国内にいる限り「危機」という実感はあまりない。

それでもニュースでは戦争の話題が絶えない。
見ようと思わなくても、自然と耳に入ってくる。

そういう情報に触れるたびに、
「自分には何ができるのだろう?」
と考えてしまうことがある。

しかし冷静に考えると、個人の力で外国の戦争を止めることはできない。
どれだけ心配しても、それだけで戦争が終わるわけではない。

もちろん、遠い国の出来事でも日本に間接的な影響はある。
経済やエネルギー価格など、世界はつながっているからだ。
それでも、個人レベルでできることは限られている。

もし現実的に行動するとすれば、投資という形で関わることくらいだろう。
FXや株式市場、原油先物などは戦争や国際情勢に敏感に反応する。
投資家にとっては、大きなチャンスになる場面もある。

しかし多くの人にとっては、ただニュースを見ているだけで終わることがほとんどだ。

それならば、あまり複雑に考えすぎず、自分の仕事に集中する方が良いのではないだろうか。
目の前の仕事に取り組み、日々積み重ねていくこと。
その方が、未来に残るものを作ることにつながる気がする。

遠くの出来事ばかり気にしていても、自分の人生は前に進まない。

だからこそ、自分の場合はアートを描くことに集中したいと思う。
作品を作り続けることでしか、成長することはできない。

世界の出来事に無関心になるわけではない。
ただ、自分のエネルギーを向ける場所は選びたい。

2026年3月15日日曜日

先日出会った、とても印象的な女性のこと

先日、とても素敵な女性に会った。
こんな話を書くのもどうかと思ったのだけれど、その人があまりにも印象的だったので、少し書いてみたくなった。

過去に出会った女性の中で一番印象的だった、と言うと少し大げさだろうか。
でも、それくらい強いインパクトがあったのは確かだ。

きっと誰が見ても「素敵な人だ」と思うような人だったと思う。
だから特別だったのは、もしかすると僕だけではないのかもしれない。

見た目だけではなく、生き方のようなものも含めて、どこかすごい人だと感じた。

ただ、その人はもう北海道にはいない。
だから、もう会うことはないのだと思う。

そう思うと、あの時間はどこか夢の中の出来事だったような気がしてくる。
もし札幌に住んでいる人だったなら、またどこかで会う可能性もあったかもしれない。
でも、それがないと思うと、現実だったのか不思議な気持ちになる。

その時は、僕のやっていること――
絵を描いていることや仕事のことなどを少し話した。

こちらから話せることがあまりなかったので、自然とそんな話になったのだと思う。

今までにも、女性とそういう会話をしたことはある。
けれど、今回の感覚はそれとはまったく違っていた。

不思議なことに、その人を見たとき、
まるで自分が描いている女性の絵が、そのまま現実に現れたような気がした。

もちろん、僕が描く女性は空想の存在だ。
現実にいるはずがない。

でも、その時は本当に、
その空想が現実の形をとって目の前に現れたように感じた。

だからこそ、強く印象に残ったのだと思う。

現代アートへ最近思うこと?


 これまで僕は、現代アートにそれなりの関心を持ってきた。

しかし最近、その考え方が少しずつ変わってきている。

美人画を描くようになってから、現代アートとは距離ができてきたと感じる。
「それは当然では?」と思われるかもしれない。実際、そうなのだと思う。

かつての僕は、現代アートをかなり真剣に追いかけていた。
その理由は、「アートとは何か」という根本的な問いを考えていたからだ。

特に抽象画をよく見ていた。
理解できない作品の意味を考え続けること自体に、どこか惹かれるものがあった。
同時に、自分が理解できないことに対して、モヤっとした感情も抱えていた。

けれど最近、美人画の世界と抽象画(いわゆる現代アート)の世界は、
そもそも混ぜて考えるものではないのではないか、と思うようになった。

現代アートと聞くと、僕の中では抽象表現の世界が強くイメージされる。
例えばポップアートのような表現。
かつては、そうした方向こそが新しいアートの道だと思っていた。

しかし今、自分が描いているのは抽象画ではなく、美人画だ。
その事実に気づいたとき、現代アートの文脈と無理に結びつける必要はないのではないか、と感じた。

おそらく、根本にある概念そのものが違う。
だからこれからは、現代アートとは切り離して考えていこうと思う。

とはいえ、過去に抽象表現を試していた時期が無意味だったとは思っていない。
当時は3Dグラフィックを使うことで、抽象的な表現がやりやすかった。
その経験があったからこそ、アートについて考え続けることができたのだと思う。

もし3Dグラフィックを触っていなかったら、
そもそもアートにここまで関心を持つこともなかったかもしれない。

遠回りではあったが、その過程があったからこそ、
今の自分の方向が見えてきたのだと思う。

そして今はっきりしているのは、
自分が描く美人画と、現代アートは別のものだということ。

だからこれ以上、無理に理解しようとする必要はない。
いま自分が描いているものに、集中した方がいい。

今はそう思っている。

2026年3月11日水曜日

正解のないアートの中で見えてきたもの


現代アートの世界には、おそらく「これが正解」というものは存在しないのだと思う。

もちろん、ある程度のジャンルや流れはある。しかし突き詰めていけば、それぞれが自分独自のジャンルへと行き着くのではないだろうか。

そう考えると、ジャンルそのものを自分で創り出すという発想も決して間違いではない。

とはいえ、現実は今でも試行錯誤の毎日だ。
「本当にこれでいいのか?」と自問自答することも多い。

それでも最近、ひとつ気づいたことがある。

少なくとも自分には、作品を観察する力がある。
良い絵なのか、そうでないのか。その判断だけは比較的はっきりできる。

だからこそ、その感覚を頼りにしながら、少しずつ作風も変化してきた。

そして今日、ふと思ったことがある。
古風な画風と、現代のイラスト風を掛け合わせてみたらどうだろうか。

これは自分の中では、新しい発見だった。

もちろん、それが本当に受け入れられるのかは分からない。
それでも、いつも「人に届く絵を描きたい」という思いはある。

だからこそ判断はどんどん繊細になっていく。

ただ、最近はなんとなく進む方向が見えてきた気もする。
頭の中でいくら考えていても答えは出ない。
実際に絵を描き、作品として形にしてみて初めて分かることがある。

そう考えていると、不思議と「すごい作品が生まれるかもしれない」という予感がしてくる。

古風な表現と現代的なイラスト。
この二つは、思っている以上に相性がいいのかもしれない。

今は、その方向性が自分にとって間違いではない。
そんな確信を感じている。

2026年3月8日日曜日

ヤフオクの闇?絵画のコピー品が横行する現実

ヤフオクを見ていると、時々「これは大丈夫なのか?」と思うような出品に出会うことがある。

特に気になるのが、絵画のコピー品だ。

これはヤフオクに限った話ではないが、絵画の世界では本物ではない作品が売られていることがある。もちろん、コピー品として安い価格で販売されている場合もあるが、問題なのは「本物であるかのような表現」で出品されているケースだ。

それらしい説明文や雰囲気で出品されると、購入者が勘違いしてしまう可能性もある。そう考えると、少し怖い世界でもある。

美術の世界では、偽物が出回ること自体は昔から珍しいことではない。
そして残念ながら、それを利用してうまく人を騙そうとする人がいるのも事実だ。

こうした問題がヤフオクのような個人売買の場で起こると、さらに厄介になる。

なぜなら、評価が必ずしも信用できるとは限らないからだ。
評価がそこまで悪くない出品者だと、つい「大丈夫だろう」と思ってしまう人も多いだろう。

しかし、もし多くの人が本物だと信じて購入しているのだとしたら、当然評価は悪くならない。
結果として「評価が良いから安心」という判断で、さらに購入者が増えてしまうという構図も考えられる。

ヤフオクを何気なく眺めているだけでは、こうした点にはなかなか気づきにくい。
むしろ、美術に少し興味がある人ほど「掘り出し物かもしれない」と思ってしまい、騙される可能性もある。

だからこそ、絵画や美術品に素人が手を出すときは特に注意が必要だと思う。

ヤフオクのような個人取引では、基本的にすべてが自己責任になる。
自分も、何も知らずに見ていたら騙されてしまうかもしれない。

とはいえ、個人的には絵画を買うことはあまりないだろう。
よほどのお金持ちにでもならない限りは。

2026年3月7日土曜日

精神的な生きづらさとアートについて考える

精神障害を抱えている人の中には、アートの分野で特別な才能を発揮する人がいます。テレビなどで紹介されることもあり、そうした例を目にする機会もあります。もちろん、すべての人がそうではありません。しかし、ごく一部の人には、強い表現力や独特の感性を持っている場合があるのだと思います。

これはとても難しいテーマですが、個人的な経験からも少し考えることがあります。

私は精神障害があるわけではありません。ただ、一般の人のようにコミュニケーションが得意ではありません。そのため、会社に勤めていた頃は人間関係にとても苦労しました。

どうにか改善できないかと思い、カウンセリングや催眠療法に通ったこともあります。自分を変えたい、克服したいという気持ちが強かったからです。

しかし、会社という場所では、仕事の能力以上に人間関係が重視されることがあります。人間関係がうまく築けない人は、仕事ができたとしても評価されにくい。場合によっては「扱いづらい人」「使えない人」と見られてしまうこともあると感じました。

以前、ある女性の話を聞いたことがあります。その人は仕事が非常にできる人だったのですが、先輩との人間関係がうまくいかず、結果的に会社を辞めてしまったそうです。

その話を聞いたとき、改めて思いました。社会は、仕事の能力だけで成り立っているわけではないのだと。

私自身も、会社にいた頃はそれを痛感していました。真面目に仕事をしても評価されないこともあり、世の中は理不尽な部分もあるのだと感じていました。

ただコミュニケーションが得意ではないというだけで、「使えない人」のように扱われることもありました。そうした経験が積み重なり、会社に勤めること自体に抵抗を感じるようになっていきました。

振り返ると、こうした傾向は学生の頃からあまり変わっていません。努力すれば完全に直るという種類のものではないのかもしれない。だからこそ、「話すことが得意ではない自分」を受け入れるしかないのだと思うようになりました。

幸いなことに、フリーで仕事ができるようになってからは気持ちがとても楽になりました。ただ、会社員時代の記憶は、どうしても良い思い出ばかりではありません。時々思い出すこともあります。

そんな中で、絵を描くという行為を続けていると、一つ気づくことがあります。

もしかすると、自分のようなタイプの人間は、こういう表現の世界に向いているのかもしれないということです。

少し変わっている人、一般的なコミュニケーションが得意ではない人ほど、絵のような表現活動に向いている場合もあるのかもしれません。

考えてみると、自分は無意識のうちに絵を描く方向へ向かってきたのかもしれない。そう思うと、これまでの経験や選択にも、どこか納得できる部分があります。

人にはそれぞれ向いている場所があります。

もし社会の中で生きづらさを感じることがあったとしても、それは「価値がない」ということではなく、単に自分の力を発揮できる場所が違うだけなのかもしれません。

そして私にとって、その一つが「絵を描くこと」なのだと思います。

少し絵画寄りの雰囲気


作風を少し変えてみました。
これまでのポップなイラスト風から、少し絵画寄りの雰囲気にしています。

別にイラスト風が嫌いになったわけではありません。ただ、自分が描いているものは、いわゆるイラストレーターが描くイラストとは少し違う気がしていました。

アートとして考えるなら、やはりどこか絵画の空気感があった方がしっくりくる。
理屈では分かっていたのですが、自分の中でなかなか決めきれなかったんです。

でも、実際に描いてみると不思議なもので、「ああ、これだな」とはっきり感じました。

頭の中で考えているだけでは意味がない。
どこか違和感はあったのに、それをどう直せばいいのか分からず、しばらく迷走していた気がします。

それでも、今回で一歩前進できたような感覚があります。

とはいえ、このような絵が受け入れられるのかどうかは、正直よく分かりません。
絵の見方は人それぞれですし、自分の好みがそのまま他の人に伝わるとは限りません。

そもそも絵画というのは、ある意味で一部の人にしか分からない世界でもあると思っています。
それを大衆にすべて理解してもらおうとするのは、無理があるのかもしれません。

結局のところ、本当の意味で楽しめるのは、絵が好きな人やマニアックな人たちなのかもしれない。

もし自分がギャラリーの立場でこの絵を見たらどう思うだろうか、と考えることもあります。

少なくとも、自分の好みの絵であることは間違いない。
そして、客観的に見ても「うまく描けているな」とは思います。

ただ、それが単なる自己満足になっていないか。
そこは常に気にしています。

だからこそ、できるだけ客観的に見るように、いつも自分に問いかけながら描いています。

2026年3月5日木曜日

デジタルアートの葛藤──伝統と革新の狭間で

最近、私が深く考え続けているテーマがある。デジタルアートは、果たして「アート」なのだろうか。現代アートとして、どう位置づけられるべきなのだろうか。

これは、思いのほか深い問いだ。

手描きとデジタル、その決定的な違い

手描きのアートとデジタルアートには、本質的な違いがある。

デジタルの場合、作品は印刷という工程を経て初めて「絵」としての形を持つ。つまり、ジークレー版画というジャンルに分類される。限定枚数を設けて一点物として販売することも可能だが、手描きの一点物が持つ存在感とは、どこか異なるものがある。

「それがどうした」と思われるかもしれない。しかし、この違いは重要だ。

デジタルアートとイラストレーションの境界

これまでのデジタルアートの多くは、デジタルならではの特徴を活かした作品だった。鮮やかな色彩のイラストレーションは、その典型例だろう。

だが、それらの多くはイラストのジャンルに近く、「アート」として位置づけるには曖昧なものが多い。イラストレーターはあくまでイラストを描く人であり、アートを創作しているわけではない。画家でもない。商業的な役割を担う職業として、イラストを描いているのだ。

デジタルイラストを描く人は多い。しかし、それはアートを描くこととは違う。

稀有な立ち位置──デジタルアート画家

だからこそ、「デジタルアート画家」という私の立ち位置は、それほど多くない。

制作過程でデジタルを利用する画家は存在する。しかし最終的には、筆で絵を描くことが画家の条件だと考えられているように思う。最後までデジタルで描くことを選んだ私のような人間は少ない。そもそも、画家としての職業が成り立たない可能性が高いからだ。

私の挑戦──古来の日本画をデジタルで

私がやろうとしているのは、古来の日本画をデジタルアートで表現する試みだ。

このような取り組みをしている人は、本当に稀な存在だと思っている。挑戦的ではある。しかし、実際に表現できているのか、可能なのか──毎日が試行錯誤の連続だ。

それでも、私は「出来る」と信じて描いている。だから、確実にそれに近づいている。そう確信している。

2026年3月4日水曜日

いつか誰かが訪れたとき、「すごいね」と感じてもらえる場所

 最近、ブログやサイトの更新が楽しくて仕方がありません。 このブログは「セカンドコレクション」の開始をきっかけに立ち上げたものですが、書けば書くほど、自分の中に新しい発見があります。

よく「ブログは作り始めが一番楽しい」と言われますが、果たしてこの先飽きがくるのでしょうか?今の私には、そんな気配は全くありません。

1. 「書くこと」は心のデトックスであり、情報の整理術

振り返ってみれば、過去にもいくつかのブログを書いてきました。 当時は自分の現状に対する「吐き出し」のような内容も多かった気がします。

「情報整理」と言えば聞こえはいいですが、実際は自分の中に溜まった熱量や、時にはモヤモヤした感情を外に出すための「捌け口」だったのかもしれません。

書いた内容を頻繁に見返すわけではありません。しかし、「書く」という行為そのものが、自分の中の混沌とした思考を整理し、形にしていくプロセスになっています。集中して作業した後は、不思議と心が整う感覚があるのです。

2. SNSもブログも、本質は「言いたいこと」の集積

SNSを眺めていると、一見「意味のない投稿」で溢れているように見えます。 でも、それはそれでいいのだと思います。誰もが論文を書きたいわけではありません。

人はただ、自分のなかに湧き出た「言いたいこと」を形にしたい。 このブログも、もしかしたら端から見ればそう見えるかもしれません。しかし、その「意味のなさそうな一歩」の積み重ねが、自分自身のアーカイブになっていくのだと感じています。

3. 公式サイトは「自分の顔」として育っていく

ブログと並行して、公式サイトの更新も続けています。 日々デザインを微調整し、テキストを磨き上げることで、サイトがみるみる良くなっていく。この「充実していく過程」を見るのは、何物にも代えがたい喜びです。

「単なる自己満足では?」と自問自答することもありますが、それでいいのだと思います。 公式サイトは、その人の「顔」そのもの。 その人が何を考え、何に情熱を注いでいるのか。すべてが伝わる場所であることに、無意味なことなど一つもありません。

いつか誰かが訪れたとき、「すごいね」と感じてもらえる場所。 そして何より、自分自身が納得できる場所。

集客という目的も大切ですが、まずはこの「作る楽しさ」を原動力に、自分自身の表現を深めていきたい。そう強く思っています。

2026年3月3日火曜日

その1時間は「自分」のため?情報過多の時代に、私たちが失っているもの

SNSを開けば、頼んでもいない情報が次から次へと流れてくる。 気づけば1時間、2時間と過ぎていて、ふと我に返ったときに「自分は何をしていたんだろう?」という虚無感に襲われる。

そんな経験、あなたにはありませんか?

最近、私は強く感じます。 「このネットの中に溢れる膨大な情報を追いかけることに、一体どれほどの価値があるのだろうか?」と。

■ 「なんとなく見る」は、命(時間)の切り売り

統計によると、若者のスマホ利用時間は1日平均5時間。多い人では10時間を超えるそうです。 1日の半分近くを、小さな画面の中の「誰かの日常」や「断片的な知識」に費やしていることになります。

ネットで生計を立てているプロならまだしも、一般の私たちが目的もなくSNSを眺めて得られるものは、実はほとんどありません。

  • ちょっとした雑学が増える

  • ほんの一瞬、暇がつぶせる

  • 希薄な人間関係が維持できる

得られるメリットはせいぜいこの程度。一方で、失っているものは「自分のための貴重な時間」そのものです。

■ 本や新聞、ネット。その差は「目的」にある

もちろん、情報を得ることすべてが無駄だとは思いません。 本や新聞、そしてネットの情報も、使い道次第で大きな武器になります。

その境界線は、「目的があるかどうか」です。

  • 目的がある情報収集: 自分の目標を達成するために必要な知識を取りに行く「投資」

  • 目的のない情報収集: ダラダラとテレビを見続けるのと同じ「浪費」

娯楽として楽しむ時間を否定はしません。しかし、無意識に流れてくる情報を浴び続けるのは、自分自身の人生を他人に委ねているのと同じではないでしょうか。

■ 自分にとって、本当に大事なことは何か?

ネットの世界に価値がないわけではありません。 しかし、その情報はあなたの人生を豊かにする「目的」に紐づいていますか?

「知識を広げたい」「スキルを磨きたい」という明確な意図があるなら、ネットは最高のツールになります。しかし、そうでなければ、それは単なるノイズです。

スマホを置き、顔を上げた先に、もっと大切にすべき「自分の時間」や「やるべきこと」が隠れているはずです。

情報の波に飲み込まれる前に。 一度立ち止まって、自分に問いかけてみてください。

「今、この瞬間のために、自分の大切な時間を使う価値はあるか?」

2026年2月28日土曜日

現代アートの逆襲。画家・岡靖知が示す「写実」の真価と、忘れていた日本の美。

 

岡靖知 作
岡靖知 作

現代アートとは一体何なのか。 その答えを求めていく中で、僕が今、もっとも興味を惹かれている画家がいます。岡靖知(おか やすとも)氏です。

彼の描く作品は、時には1,000万円を超える価格で落札され、通常でも数百万円という高い評価を受け続けています。これほどまでに市場を動かす日本の画家は、決して多くはありません。

写実的アートの再来——「逃げ」ない表現

カメラが登場して以来、アートの正解は「写実」から「印象派」「抽象画」へと移り変わってきました。 現代の評論家の中には、「今さら写実的に描くことに何の意味があるのか」と懐疑的な目を向ける人もいるかもしれません。

しかし、現実はその逆です。 多くの現代アートが抽象的な表現や概念的な多様性に逃げているようにも見える中で、あえて「写実」という原点に立ち返る表現が、今まさに求められているのではないでしょうか。

それは一種の差別化であり、私たちが心のどこかで求めていた「美の基準」への回帰なのかもしれません。

単なる「そっくり」を超えた、圧倒的なセンス

もちろん、岡靖知氏が評価されている理由は、単に「写真のように見えるから」という技術的な理由だけではありません。

彼の絵を支えているのは、極めて高いセンスの良さです。 描かれる女性たちはどれも息をのむほど美しく、それでいてどこか懐かしい「日本の女性」の魅力を湛えています。

  • 忘れかけていた、たおやかな美しさ

  • 存在感を引き立てる卓越した構成力

  • 観る者を吸い寄せる、極限まで高められた価値

それらが合わさることで、彼の絵は単なる「写実」の枠を超え、一つの完成された世界観を作り上げています。

「美しい女性」を描き切るという覚悟

「美しい女性を描くこと」に徹底的にこだわり、その魅力を極限まで引き出す。 このシンプルで力強い意志こそが、彼の作品に圧倒的な説得力を与えているのだと感じます。

理屈や流行に左右されない、本物の「美」。 岡靖知氏の作品を眺めていると、写実的アートの時代が再び幕を開けたことを確信せずにはいられません。

なぜ「女子高生」を描くのは難しいのか?――背景を超えて、その存在感を追い求める。

絵を描く中で、今もっとも高い壁として立ちはだかっているのが「女子高生」というモチーフです。

女性のさまざまな姿を描くことに挑戦していますが、女子高生を描こうとすると、どうしても「ありきたり」な枠に収まってしまいそうになる。その難しさに日々頭を悩ませています。

今回は、そんな試行錯誤の中で「自分なりに手応えを感じた」2枚を載せてみます。

「ありきたり」の向こう側にあるもの

女子高生という記号的な可愛さは、世の中に溢れています。 だからこそ、ただ制服を着せるだけでは、僕が表現したい「何か」に届かない。

「こう描けばOK」という単純な理屈やルールなんて存在しません。 特別な一人を描き出そうとすればするほど、表現の正解が見えなくなっていく。そのもどかしさこそが、創作の苦しみであり、楽しさでもあるのだと感じています。

背景は「おまけ」でいい。

僕の絵において、背景はあくまでもおまけ程度。 もちろん、世界観を構築するために背景が必要なのは分かっています。でも、僕が本当に描きたいのは、そこに立つ女性そのものです。

極論を言えば、彼女たちの可愛さ、そして圧倒的な「存在感」。 それさえ描ければ、あとは何もいらない。それくらい潔い気持ちでキャンバスに向かっています。

空想の中に宿る「真実の存在感」

僕が描いているのは、現実の誰かではなく、空想の中の女性です。 けれど、ふと目が離せなくなるような、絵の中に引き込まれる感覚。それはきっと、描き手が彼女たちの「存在感」をどれだけ信じられるかにかかっている気がします。

「存在感とは何だろう?」

その答えはまだ言葉にはできません。 でも、その輪郭を掴むために、僕は今日も「特別な一人」を描き続けたいと思います。

2026年2月27日金曜日

予測不能な「遊び」が教えてくれたこと。昔の作品を振り返って。

 

久しぶりに、昔描いた自分の作品を眺めていました。 そこにあったのは、今の自分でも「何を考えていたんだろう?」と首をかしげてしまうような、純粋な試行錯誤の跡でした。

3DCGで描く「水遊び」という実験

特に印象的だったのが、3Dソフトを使って描いた抽象画『水遊び』と、ユーチューバー風のキャラクターイラストです。

当時の自分は、あえて3Dを2D風に表現する手法を試していました。 3Dレンダリングというのは面白いもので、計算が終わるまで、最終的にどんな絵が飛び出してくるか完全には予測できないところがあります。

  • 狙い通りにいかない面白さ

  • 偶然生まれた形や色を楽しむ余裕

  • ダメなら修正し、また回す。その繰り返し。

一般的な絵画は「意図」を形にするものかもしれませんが、僕にとっては「偶然」との対話が、何よりの制作の醍醐味だったのだと思います。

「自己満足」という壁にぶつかって

けれど、今の僕は抽象画を描くのをやめてしまいました。 理由はシンプルで、「自分だけで満足してしまい、誰にも伝わらない」ことに限界を感じたからです。

自分では「いい絵ができた!」と手応えを感じても、それが他人の心に届かなければ、ただの自己満足の世界で終わってしまう。 「これには一体、どんな意味があるんだろう?」 そんな風に、描く意義を見失いそうになった時期もありました。

過去の「点」が、今の「線」になる

でも今振り返ると、その迷いや実験の日々が無駄だったとは思いません。

意味があるかないか、誰かに伝わるかどうか。 それを必死に考えて、手を動かし、予測不能な結果にワクワクしていたあの経験があったからこそ、今の自分の表現があるのだと確信しています。

どんなに支離滅裂な妄想に見えても、当時はそれが僕の全力でした。 その積み重ねの上に今の自分が立っていると思うと、過去の作品たちが少しだけ愛おしく感じられるのです。

2026年2月26日木曜日

あの頃、僕は3Dグラフィックに夢中だった。

 



あの頃、僕は3Dグラフィックに夢中だった。
テーマは――「いかにして綺麗にレンダリングするか?」。

当時は、今のように高機能な環境が整っていたわけではない。
特にこだわっていたのがレイトレーシング。光の反射や屈折を計算してリアルな描写を生み出す技術だ。今ではゲームでも当たり前に使われ、さらにラジオシティによって、反射光まで計算された自然な“ぼんやりと明るい空間”を表現することができる。

けれど、僕が使っていたソフトには、その表現がなかった。

部屋全体がやわらかく明るくなる、あの自然な光。
直接光だけでなく、壁や床に当たって跳ね返った光まで計算された空気感。
それをどうにか再現したくて、何年も試行錯誤を重ねた。

そしてあるとき、ついに思い描いていたレンダリングができた。

その一枚の画像は、他人から見れば何の変哲もない3D作品かもしれない。
けれど僕にとっては、何年もの研究の結晶だった。
初めて「反射した部分まで明るくなる空間」を表現できた瞬間の喜びは、今でも忘れられない。

でも、ふと思うことがある。

今の3Dソフトを使えば、あの表現は誰にでも簡単にできてしまう。
ボタン一つで、自然なグローバルイルミネーションが手に入る。

そう考えると、あの何年もの研究は無駄だったのだろうか?

もしかすると、効率という意味ではそうかもしれない。
もっと別のことに時間を使えた可能性もある。

けれど――

あの時間があったからこそ、僕は「ひとつのことを徹底的に追いかける」姿勢を身につけた。
試行錯誤を繰り返し、うまくいかない原因を考え、改善し続ける。
そのプロセスそのものが、今の自分のアートの土台になっている気がする。

アートは、完成した一枚だけで語れるものではない。
そこに至るまでの研究や迷い、失敗の積み重ねが方向性を決めていく。

僕にとって、その過程がたまたま3Dだっただけなのかもしれない。

あの頃つくった数えきれないほどの3D作品。
それらがすべて無駄だったとは思わない。
確実に何かの糧になり、今につながっている。

遠回りだったのかもしれない。
でも、その遠回りがあったからこそ、今の表現がある。

そう思うと、あの何年もかけたレンダリング研究にも、ちゃんと意味があったのだと感じている。

2026年2月24日火曜日

現代アートについて、正直に思うこと

昔、現代アートに興味を持ちはじめた頃の私は、正直に言ってほとんど理解できていませんでした。

当時は現代アートをわかりやすく説明してくれる書籍も少なく、作品の意図や背景を知る機会も限られていたように思います。それでも、確実に現代アートが広がっていく空気は感じていました。だからこそ、「理解したい」という気持ちはとても強かったのです。

では、今はどうか。

最近になって、もう一度きちんと向き合ってみようという気持ちが少し芽生えてきました。けれど同時に、どうしても拭えない“もやっとした感覚”があるのも事実です。

自分が好きなものだけを受け入れる

いろいろ考えた末に、今の私が出した結論はとてもシンプルです。

「自分が好きだと思える作品だけを受け入れればいい」

ただ、それは数としては圧倒的に少ない。
多くの現代アートは、どこかネガティブな方向性に感じられてしまうのです。

もちろん、それ自体が悪いわけではありません。社会への問いや問題提起は、現代アートの重要な役割のひとつでしょう。ただ、もう少し素直で、ポジティブなエネルギーを感じられる作品があってもいいのではないか――そんな思いもあります。

他人が「素直に良い」と感じる作品

こうした経験から、私は自分なりのアート観を考えるようになりました。

いわゆる、他人が見て「素直に良い」と感じられるもの。それでいいのではないか、と。

自分勝手で、ある意味で理解が難しい作品は、もう作りたくない。そう強く思うようになったのです。

実は、私は昔、抽象画を制作していた時期があります。その頃ふと感じたのは、「自分だけが納得できても意味がないのではないか?」という疑問でした。

自分の理解や思いを伝えるために描いているはずなのに、それが他者に届かないのであれば、本当にそれでいいのだろうか。そんな迷いがありました。

これは理屈というより、ただ素直にそう思っただけです。

時間を経て、今思うこと

それからかなりの時間が経ちました。そして今、当時感じた違和感は、間違っていなかったのではないかと思えるようになっています。

私にとって現代アートは、どこか難しく、時には嫌な感覚さえ覚えるものです。これが、今の私の率直で客観的なイメージです。

正直に言えば、こうした考えを書くことには躊躇もあります。けれど、自分の中にある本音を無視するわけにもいきません。

現代アートを全面的に否定したいわけではない。ただ、自分はどうありたいのか――そこを大切にしたい。

理解されなくてもいい作品ではなく、誰かが見て「いいな」と素直に感じてくれる作品をつくりたい。

それが、今の私の正直な気持ちです。

イラストレーター兼YouTuberの「さいとうなおき」さんについて

 


イラストレーター兼YouTuberの「さいとうなおき」さんについて、最近あらためて考える機会がありました。きっかけは、彼の著書を読んだことです。以前から存在は知っていましたが、本を通して触れることで、これまでとは少し違った視点が生まれました。

ネット上では圧倒的に有名なイラストレーターであり、一時は登録者数120万人を超えるYouTuberとしても活動していました。ところが、ある手違いにより突然チャンネルが削除(いわゆるBAN)されるという出来事が起こります。

その詳細な経緯ははっきりとは分かりませんが、その後チャンネルを再始動し、現在も活動を続けているようです。

彼がここまで注目を集めた理由の一つに、かつてコナミデジタルエンタテインメントに勤務していた経歴があるのではないかと感じます。会社員として働きながらYouTubeを始めたことも、大きな転機だったのかもしれません。

イラストレーターがYouTubeで発信を行うスタイルは、今でこそ珍しくありませんが、当時はまだ先駆的な存在だったという印象があります。

実力があることはもちろんですが、「受ける絵を描く」と本人が語っている点も興味深いところです。自分の描きたいものだけでなく、求められるものを意識して描く。そのバランス感覚こそ、プロとしての才能なのではないでしょうか。あまりに個性が強すぎると、画家のような立ち位置になってしまう可能性もあります。イラストレーターという職業は、表現力と同時にニーズへの適応力も求められる世界です。

学歴や経歴が注目されるのも、やはりそれだけ信頼や説得力につながるからでしょう。しかし最終的には、「うまい絵を描けること」、そしてそれを継続して発信できること。その積み重ねが、今の知名度につながっているのだと思います。

時代の流れを読みながら、自身のスキルを発信へと結びつけた存在。そんな印象を、あらためて強く感じました。

2026年2月23日月曜日

アートと葛藤の中で思うこと

私は毎日アートを描いている。

ただ正直に言えば、それが本当に「正しい」のかどうかは、今でもよくわからない。

方向性は間違っていないのか。
これは本当に自分の描くべきものなのか。

そんな問いを抱えながら、試行錯誤の日々を過ごしている。

それでも、前に進まなければならない。
描くことをやめるという選択肢はなく、結局は「描くしかない」のだ。

私は、自分が描いているものはアートだと確信している。
しかし同時に、それは本当にアートなのか、それともイラストなのか、という疑問が常につきまとう。

この「アート」と「イラスト」の線引きは、とても曖昧で厄介だ。
内容も意味も、その境界線によって大きく変わってしまう。

ひとつだけはっきりしているのは、
決してイラストを描いているつもりはない、ということだ。

ただ、アートに近づけば近づくほど、
絵はわかりにくくなり、意味不明に見えてしまうこともある。

わかりやすさだけで言えば、イラストの方が圧倒的だ。
理解しやすく、伝わりやすい。

けれど、イラストとアートはまったく別物だと、私は思っている。

だからこそ、その狭間で葛藤しなければ作品は完成しない。
アートに寄りすぎれば意味不明になり、
イラストに寄ればアートではなくなる。

この矛盾した状況の中で制作し続けるのは、正直かなり厳しい。

いっそどちらかに決めてしまった方が、どれほど楽だろうかとも思う。
しかし現実は、
アートでありながら、イラストのようなわかりやすさも求められる

その度に私は自問する。
「これは本当にイラストではないのか?」と。

そして、自分の作品をできる限り客観的に見ようとする。
その繰り返しが、毎日の作業になっている。

そんな日々の中で、
頭の中で何かがおかしくなる瞬間がある。

考えすぎて、狂いそうになる感覚。
もしかすると、芸術に向き合う人間なら誰もが通る道なのかもしれない。

考えれば考えるほど、頭が壊れそうになる。
それでも、その限界を超えなければ、先には進めない。

毎日歩くことについて、最近思うこと

僕は毎日、歩いている。 いわゆるウォーキングという感じなんだけど、運動として歩く時もあれば、買い物や用事で歩くこともある。 でも、とにかく1日に最低1回は歩いていると思う。 多い時は2回くらい外を歩いている。 車を持っていないので、移動は基本的に徒歩か、自転車か、交通機関になる。...