2026年6月5日金曜日

「ひきこもり」とは何なのかを考えてみる

最近、「ひきこもりの人が増えている」という話をよく耳にします。日本には約140万人いるという調査結果もあり、社会的な関心も高いテーマです。

ただ、私は以前から少し疑問に思っていることがあります。

それは、「ひきこもり」とは何を指すのか、ということです。

一般的には、長期間にわたって社会参加をせず、自宅にこもっている状態を指します。しかし、現代ではインターネットを利用して自宅で働く人も増えています。

例えば、テレワークで仕事をしている人がいます。外出はほとんどせず、自宅で生活しているとしても、仕事をして収入を得ているなら、一般的な意味での「ひきこもり」とは少し違うように感じます。

私の個人的な感覚では、「ひきこもり」と「仕事をしていない状態」はかなり重なっているように思います。

たとえば専業トレーダーの人です。実際に、自宅からほとんど出ずに株やFXの取引だけで生活し、多額の資産を築いている人もいます。中には何億円、何十億円という資産を持つ人もいます。

こうした人を「ひきこもり」と呼ぶ人はあまりいないでしょう。

また、YouTuberも同じです。

動画の企画、撮影、編集をほとんど自宅で行い、外出する機会が少ない人もいます。しかし、それで収入を得ているなら職業として成立しています。

極端な話、自宅からほとんど出なくても、収入を得て社会とつながっているなら、「ひきこもり」という言葉から受けるイメージとは違う気がします。

もちろん、誰もが簡単にできることではありません。

トレーダーになるにも知識や経験が必要ですし、YouTubeで収益を上げるにも継続的な努力が求められます。自宅でできる仕事の多くは、時間給ではなく成果報酬型に近いものになります。

だからといって、「ひきこもりの人は努力が足りない」と言いたいわけではありません。

人それぞれ事情がありますし、精神的な問題や家庭環境など、さまざまな要因が関係している場合もあります。

ただ一方で、現代はインターネットによって、自宅にいながら収入を得られる可能性が以前より大きく広がった時代でもあります。

外へ出て働くことだけが仕事ではありません。

もし外で働くことが難しくても、家の中でできる仕事や活動を見つけることができれば、社会との接点を持ちながら生活する道もあるのではないかと思います。

「ひきこもり」とは何か。

単純に外出の有無で決まるのか、それとも社会との関わり方や経済的な自立によって変わるのか。

この問題については、もう少し広い視点で考えてみる必要があるのかもしれません。

2026年6月3日水曜日

写実的な美人画は、なぜ少ないのか

私は以前から、美術界における「写実的な美人画」の立場について考えることがある。

写実的な絵を描く画家は多くいるし、その人気も高い。しかし、その中でも「美しい女性を主題とした写実絵画」を描く人は、意外と少ないように感じる。

私は、このジャンルには確かな需要があると思っている。実際、美しい人物を描いた作品は多くの人の心を惹きつけるし、純粋に「見たい」と思う人も多いはずだ。

それにもかかわらず、美術界にはどこか「美人を描くのは浅い」「個性がない」「古臭い」「面白くない」といった空気が存在しているように感じることがある。

もちろん、それが明確なルールとして存在しているわけではない。しかし、そうした価値観が長年にわたって受け継がれてきた結果、写実的な美人画を積極的に描こうとする人が少なくなっているのではないだろうか。

多くの画家は美術大学などで学び、その中で現代美術や芸術観について教育を受ける。私は美大に通った経験がないので実際のところは分からないが、芸術とはこうあるべきだという価値観が少なからず存在するのではないかと思う。

ただ、その価値観の中には、すでに時代に合わなくなっているものもあるのではないだろうか。

何十年も前の美術界と、現在の美術界では環境も価値観も大きく変化している。インターネットによって作品の発表の場は広がり、鑑賞者の声も直接届くようになった。にもかかわらず、昔の価値観をそのまま引き継いでいる部分もあるように見える。

私は、「写実的で美しい女性を描くこと」に何の問題もないと思っている。

むしろ、それは多くの人が求めている表現の一つではないだろうか。

そして何より、それが私自身の表現だからだ。

私の作品の中心には、写実的な美しさを持った女性像がある。もしそこを捨ててしまったら、それはもう私の絵ではなくなってしまう。

だから私は、「美人を描くべきではない」というような空気があるとすれば、それには従わない。

流行や風潮に合わせるためではなく、自分が本当に描きたいものを描くために。

私はこれからも、写実的な美人画という表現を大切にしていきたいと思っている。

2026年6月1日月曜日

昔のソフトに惹かれる理由


私は昔のソフトが好きです。

特に古いグラフィックソフトやゲーム制作ツール、ゲームエンジンなどを見つけると、つい買ってしまいます。オークションやフリマサイトを見ていると、たまに驚くほど安く出品されていることがあり、「動くかどうか分からないけど試してみよう」と購入することもあります。

先日も15年ほど前のグラフィックソフトを手に入れました。おそらく今の環境では動かないだろうと思いつつも、価格が安かったので実験感覚で購入しました。シリアル番号も付属していないような古いパッケージでしたが、そういう未知のものを試すのも楽しみの一つです。

実際のところ、昔のソフトの多くは現在の環境では使い物にならないこともあります。しかし、たまに驚くほど実用的なものに出会うことがあります。たとえ動かなかったとしても、当時の開発者がどのような考えで作ったのかを感じられるだけで面白いのです。

最近、私が今でも使っている古い3Dソフトについて質問してくる人がいました。どうやって使うのか、どこで手に入るのか、かなり詳しく聞いてきたので、「なぜそんなにこの古いソフトにこだわるのだろう」と思い、理由を尋ねてみました。

すると、その人はこう言いました。

「今の3Dソフトは難しすぎて使えない」

なるほどと思いました。

現代のソフトウェアは非常に高機能です。しかし、その代わりに覚えなければならない機能や操作も膨大になっています。私自身も最新の3Dソフトを前にすると、何から始めればいいのか分からなくなることがあります。

一方で、昔のソフトは機能が少ない分、学習コストが低いのです。操作を覚えるまでの時間が短く、すぐに制作に取りかかれます。

もちろん、最新ソフトと比べれば性能や機能面では劣ります。しかし、だからといって良い作品が作れないわけではありません。

実際には、ソフトの性能以上に「使いこなせるかどうか」が重要です。

機能が限られているからこそ工夫が必要になります。その工夫の中から独自の表現やアイデアが生まれることもあります。むしろ、制約があるからこそ面白い作品が生まれることも少なくありません。

私は昔のソフトを単なる懐古趣味として集めているわけではありません。古いソフトには、今のソフトにはないシンプルさや分かりやすさがあります。そして、そのシンプルさは創作の楽しさに直結しているように思います。

これまで多くのソフトを手放してきましたが、それでも今なお手元に残して使い続けているものがあります。

最新が必ずしも最良とは限らない。

そんなことを、昔のソフトたちは今でも教えてくれている気がします。

2026年5月31日日曜日

「美術とは何か」を考える

 最近、改めて「美術とは何か」ということを考えることが増えた。

もともと現代アートには興味がある。しかし、現代アートと美術という言葉には、どこか微妙なズレがあるように感じている。

現代アートは極端に言えば「何でもあり」の世界だ。既存の価値観や常識を疑い、新しい視点や概念を提示することに意味がある。作品そのものよりも、その背後にある発想や問いかけが重要視されることも少なくない。

だからこそ、現代アートを見るたびに「これは本当に美術なのだろうか?」という疑問が浮かぶ。

ただ意味不明なものに見える作品もある。そこに価値があるのか、それとも単なる思いつきなのか。そうした問いがいつまでも消えない。

しかし、その答えの出なさこそが現代アートの面白さなのかもしれない。

「これはアートなのか?」という問い

最近見に行った展示でも、そんなことを考えた。

展示されていた作品は、一見するとイラストだった。しかし、単なるイラストとも言い切れない何かがあった。

イラストにはイラストとしての役割や文脈がある。しかし、その枠を大きく超えたとき、それはアートになるのではないかと思う。

イラストでありながらアートでもある。

その境界線は非常に曖昧だ。

おそらく作家本人は「イラストを描いている」という意識だったかもしれない。しかし、見る側がそこに別の価値や意味を見出した瞬間、作品は単なるイラスト以上の存在になる。

アートとは技法やジャンルではなく、見る人に新しい認識や体験を与えるものなのかもしれない。

70万円の版画に価値はあるのか

その展示では、ある版画作品が約70万円で販売されていた。

そこで考えた。

「本当に70万円の価値があるのだろうか?」

もちろん限定版であり、枚数も限られている。しかし、実際の市場を見ていると、購入後に売却する場合は定価の半額程度になってしまうケースも珍しくない。

そう考えると、投資として見れば決して有利な買い物ではない。

では、なぜ人は70万円を支払うのだろう。

それは単純に作家が好きだからかもしれない。その作品と一緒に暮らしたいからかもしれない。有名作家の作品を所有する喜びがあるのかもしれない。

つまり、価格と価値は必ずしも一致していない。

美術の価値とは何なのか

結局のところ、美術の価値とは何なのだろう。

資産価値なのか。

希少性なのか。

技術力なのか。

それとも、その作品が自分の心を動かしたという体験そのものなのか。

現代アートを見ていると、答えは一つではないように思える。

そして、私自身が作品を作るときも同じ問いを抱えている。

「これは美術なのか?」

「これはアートなのか?」

その問いに明確な答えはない。

しかし、答えがないからこそ考え続けられるし、考え続けること自体が創作の面白さなのかもしれない。

もしかすると現代アートとは、作品そのものではなく、「問いを生み出す装置」なのではないだろうか。そう考えると、意味が分からない作品に出会ったときの戸惑いさえも、作品の一部なのかもしれない。

2026年5月28日木曜日

絵の価値は誰が決めるのか

 最近、絵の価値って一体なんなんだろう、と考えることがある。

そして、その価値を決めているのは誰なのか。

結局のところ、それを決めるのは「見る人」や「お客さん」なんだと思う。

描いた本人がどれだけ満足していても、他人が見て「いい」と思わなければ、世間的には評価されにくい。逆に、作者自身はそこまで自信がなくても、多くの人が「これはいい」と感じれば、高く評価されることもある。

特に今の時代、それがわかりやすく現れるのがSNSだ。

SNSでは、たくさん「いいね」が付いている絵を見ると、なんとなく「これは良い作品なんだ」と感じてしまう。
もちろん、数字だけで全ては決まらない。でも、人はどうしても「みんなが評価しているもの」を価値あるものとして見てしまう。

逆に、誰からも反応がない作品は、「あまり良くないもの」として扱われやすい。
そこに、SNS特有の不公平さもあるように思う。

本来、価値観は人それぞれのはずなのに、数字によって「良い・悪い」が半ば自動的に決められてしまうからだ。

「評価されること」と「売れること」は違う

ただ、SNSの評価と、実際にお金を払って買われるかどうかは、また別の話だと思う。

SNSでは、無料で「いいね」が押せる。
でも、販売となると話は変わる。

どれだけ「すごい絵」と言われていても、実際にお金を出して買う人がいなければ、市場的には価値が成立しない。

逆に、多くの人に理解されなくても、たった一人でも「この作品にお金を払いたい」と思う人がいれば、その作品には確かに価値が生まれる。

そこが面白いところでもある。

例えば、SNSで何万いいねも付いているイラストがあったとして、本当に販売した時に売れるのかというと、意外とそうでもない気がする。

見るのは好き。
でも、お金を払って所有したいかと言われると、そこまでではない。

そういう人は多いと思う。

特にイラストは、「鑑賞する楽しさ」と「購入する価値」が必ずしも一致しない。

「上手い」「すごい」「映える」という感想と、
「これに数万円払いたい」は、全く別の感覚なんだと思う。

芸術としての価値とは何か

では、絵の金銭的価値はどこから生まれるのか。

それは技術だけではなく、「芸術として見られるかどうか」なのかもしれない。

あるいは、その作品に物語や希少性があるか。
作者自身にブランド性があるか。

有名な作家なら、作品そのもの以上に、「その人の作品を持っている」という価値で買われることもある。

つまり、絵の価値というのは単純に「上手いかどうか」では決まらない。

SNSの数字、知名度、ファンの存在、市場、タイミング、希少性。
いろいろなものが混ざり合って、最終的な価値になっていく。

だからこそ、「評価されている=本当に価値がある」とも言い切れないし、逆に「評価されていない=価値がない」とも限らない。

結局のところ、価値というのは、とても曖昧で、人によって変わるものなんだと思う。

2026年5月27日水曜日

最近、本を読むことについて思うこと

最近、自分はあまり積極的に本を読まなくなった。

昔はかなり読んでいた時期があって、月に何冊も読んでいたこともある。けれど今は、「読みたい本」を探すこと自体が難しくなっている気がする。

たまに哲学系の本を買うことがある。
ネットで注文したり、古本屋で見つけたりするんだけど、読んでみると「これは自分には合わないな」と感じることが多い。

古本屋や普通の書店なら、立ち読みで中身を確認できる。
だから「これは違うな」と思えば買わずに済む。
でもネットで買う場合は、タイトルや紹介文から内容を想像するしかない。

そして実際に読んでみると、かなりの確率で「何を言いたいのかわからない」と感じてしまう。

もちろん、自分の理解力の問題もあるのかもしれない。
でも、それ以前に、文章そのものが頭に入ってこない感覚がある。

一つの見出しを読んでも、話がまとまっていないように感じる。
テーマが一つに定まらず、いろんな方向から断片的に語られていて、頭の中で整理できなくなる。

「結局、この章では何を伝えたかったんだろう?」

そんな状態で読み進めることが結構ある。

哲学書って、一つの答えを一直線に説明するというより、概念を多方向から眺めたり、抽象的に考えたりするものが多い。
だから、人によってはそこに深さを感じるんだろう。

実際、レビューを見ると高く評価されている本もかなり多い。
だから自分だけが合わないのかもしれないとも思う。

ただ、自分としては、あまりにも意味が掴めない文章を読むと、途中で疲れてしまう。

その点、自己啓発本の方が、まだ読みやすいと感じることがある。
内容に賛成するかどうかは別として、「この人はこういうことを伝えたいんだな」という方向性は比較的わかりやすい。

文章として筋道が通っていて、読者に何を届けたいのかが見えやすい。
だから全部を信じるわけではなくても、ある程度は納得しながら読める。

でも最近は、自己啓発を強く求めているわけでもないし、哲学を深く学びたいわけでもない。

結局、「これが読みたい」という本がなかなか見つからない。

本を読まなくなったというより、読みたいと思える本に出会いにくくなった。
今はそんな感覚に近いのかもしれない。


「サブカルチャー」って結局何なんだろうと思っていた話

日本には「サブカルチャー」という言葉があるけれど、正直なところ、自分は長い間、その意味がよくわからなかった。

興味を持ち始めたのは10年くらい前、いや、もっと前かもしれない。

東京へ行った時、「サブカルっぽい場所」に行ってみようと思って、秋葉原を歩き回ったことがある。
でも、実際どこに行けば“それ”があるのかが、よくわからなかった。

そんな時、たまたま詳しい人と知り合って、「案内してあげるよ」と言われて連れて行ってもらった場所があった。
結局そこは、自分でも一度行っていた場所だった。

それが、まんだらけ。

そこには昭和時代の古い玩具や雑誌、アニメ関連の商品、フィギュア、アイドルグッズ、古本など、いろんなものが並んでいた。
「ああ、こういう空気感をサブカルって呼ぶのかもしれない」と、なんとなく理解した気がした。

考えてみれば、サブカルチャーと呼ばれるものって、アニメ、ゲーム、漫画、アイドル、特撮、レトロ玩具など、かなり幅広い。
人によってイメージしているものも違うんだろう。

実は札幌にも まんだらけ はある。
だから、わざわざ東京へ行かなくても、そういう世界に触れること自体はできる。

一方で、最近のサブカルを見るなら、やっぱり アニメイト なのかなと思う。

自分はアニメイトの雰囲気、嫌いじゃない。
むしろ見ていて面白いと思う。

ただ、行くと圧倒的に若い人が多い。
10代、20代が中心で、30代くらいまでは普通にいるかもしれない。
でも、40代50代になると、かなり少ない印象がある。

年代によるズレなんだろうか。
同じアニメや漫画でも、世代ごとに触れてきた作品や文化が違うから、興味の方向も変わっていくのかもしれない。

だから中年世代になると、最新のアニメショップよりも、昔の作品を扱うまんだらけのような場所の方が、居心地が良い人も多い気がする。

それでも自分は、今のサブカルも少し見てみたいと思っている。
ただ、若い人ばかりの空間に入ると、少し気後れしてしまう。
興味はあるのに、ちょっと入りづらい。

サブカルチャーって、自由な文化のようでいて、実は世代や空気感みたいなものも強くあるのかもしれない。


2026年5月26日火曜日

久しぶりに百合が原公園へ行って感じたこと

 今日は久しぶりに、札幌の 百合が原公園 へ行ってきました。

以前から「何か工事しているな」と思っていた場所に、新しい施設が完成していました。
見た感じでは、子どもが遊べるスペースとカフェが一体になったような施設で、たぶん札幌市が運営しているのだと思います。

中に入っているカフェは「リリリカフェ」という名前だったかな。
全体的にかなりおしゃれな雰囲気で、木の温もりを感じる今風の空間でした。

平日の昼間だったこともあり、来ている人は年配の方が多かった印象です。
公園という場所柄もあるのか、のんびり時間を過ごしている人たちが集まっている感じでしたね。

こういう施設を見ると、「札幌市って本当に新しい建物を作るのが好きなんだな」と少し思ったりもします。
もちろん今回の施設は大規模な“ハコモノ”というほどではないですが、最近の札幌らしい雰囲気は感じました。

カフェのメニューは、パンやおにぎり、飲み物などシンプルな内容。
ただ、価格はかなり高めでした。

  • パン1個:350円前後

  • おにぎり1個:350円前後

  • ドリンク:350円前後

  • ビール:700円

僕はビールを飲んだんですが、正直「公園のカフェで700円か…」とは思いました。
全体的に、気軽に利用するというよりは、“少し余裕のある人向けのカフェ”という印象です。

とはいえ、店内にはそれなりにお客さんも入っていて、人気はあるようでした。
やはり空間づくりが上手なんですよね。
木を基調にしたデザインで居心地がよく、「また来てもいいかな」と思わせる雰囲気があります。

たぶん、若い人にとってはかなり魅力的な場所なんじゃないでしょうか。
僕のような50代くらいの世代はあまり見かけませんでしたが、それでも「こういう場所が増えるのは悪くないな」と感じました。

値段は少し高めですが、公園の中でゆっくり過ごせる“おしゃれ空間”としては、なかなか面白い場所でした。

2026年5月24日日曜日

たぶん20年くらい前の自己啓発本

 

ちょっと変わった本を買ってしまった。
タイトルは「引っ込み思案な自分を楽にする本」。たぶん20年くらい前の自己啓発本だと思う。

怪しげな店で、なんと10円で売られていた。
正直、買うつもりはなかったんだけど、「10円ならまあいいか」という軽い気持ちで手に取ってしまった。

でも、読んでみると意外と悪くない。
定価は1500円くらいだったらしく、かなり古い本ではあるんだけど、こういうメンタル系・自己啓発系の本って、古くても内容がそこまで劣化しない気がする。

むしろ今読むと、シンプルで分かりやすい。
昔の自己啓発本って、「少し気持ちを軽くする」とか、「考え方を整理する」みたいな方向性が多くて、気軽に読めるんだよね。

2000年代前後って、自己啓発ブームみたいな時期があって、こういう本が大量に出ていた記憶がある。
当時は軽く読める本が多くて、個人的には今よりずっと入りやすかった気がする。

一方で、最近は哲学系の本が増えている印象がある。
もちろん面白いものもあるんだろうけど、自分には難しすぎる本がかなり多かった。

実際、何冊か買って読んでみたんだけど、
「結局何を言いたいんだろう?」
となってしまうことが多い。

文章は難解だし、抽象的だし、最後まで読んでも頭に入ってこない。
哲学を楽しめる人はすごいと思うけど、自分にはちょっと合わなかった。

だから最近は、「難しいことを理解しよう」とするより、昔の自己啓発本みたいな、気軽に読める本の方が合っているのかもしれないと思っている。

10円で買った本だけど、意外と今の自分にはちょうどよかったのかもしれない。

2026年5月23日土曜日

mocha展を見て感じたこと ― これは「イラスト」なのか、「アート」なのか

先日、mocha展に行ってきました。

僕自身、mochaさんについてそこまで詳しいわけではなかったのですが、有名なイラストレーターの一人で、星空や幻想的な風景をテーマにした独特な作品を描く方、という印象を持っていました。

会場にはたくさんの作品が展示されていて、どれも非常に完成度が高く、まるで映画のワンシーンのような世界観でした。
そして驚いたのが、その価格です。

展示されていた作品の多くは版画でしたが、価格は70万円前後。高いものでは100万円近いものもありました。

そこで自然に思ったのが、

「これはイラストなのか、それともアートなのか?」

ということでした。

見た目だけで言えば、確かにアニメ調のイラストです。
キャラクターや背景の描き方も、現代のデジタルイラスト文化の延長線上にあるように見えます。

ですが、実際に作品を目の前にすると、単なる“イラスト”という言葉では収まりきらないものを感じました。

空気感、光の表現、星空の奥行き、細部まで作り込まれた世界観。
ただ「上手い」だけではなく、その空間が本当に存在しているかのようなリアリティがあるんです。

そして何より、「この絵は魅力的だ」と直感的に感じさせる力がありました。

おそらく、mochaさんの作品は“イラストの技法”を使いながら、“アートの領域”にまで到達しているのだと思います。

もしこれを単なるイラストとして見てしまうと、「70万円は高すぎる」と感じる人もいるかもしれません。
ですが、“作品”として見た時、その世界観や存在感込みで価値が成立している。だからこそ、この価格でも支持されているのだと思います。

さらに面白いのは、現代アートでありながら、とても親しみやすいことです。

一般的な現代アートには、「難しい」「意味がわからない」と感じる作品も少なくありません。
しかしmochaさんの作品は、絵に詳しくない人でも、

「綺麗だな」
「幻想的だな」
「この空気感が好きだな」

と、感覚的に楽しむことができます。

そこが大きな魅力なのだと思います。

会場に来ていた人たちも、いわゆる美術ファンだけではなく、アニメやイラスト文化に興味を持つ若い世代が中心でした。
20代〜40代くらいの人が多く、特に女性の来場者が目立っていた印象があります。

「アート」というと敷居が高く感じられることがありますが、mochaさんの作品は、その入口をとても広くしている。
イラストとしての親しみやすさを持ちながら、作品としてはしっかり“アート”になっている。

だからこそ、多くの人に受け入れられ、注目されているのだと感じました。 

2026年5月22日金曜日

今日、mocha展に行ってきました。

展示されていた作品は20点ほどだったと思うのですが、どれも本当に素晴らしく、とても綺麗な作品ばかりでした。特に印象に残ったのは、夜の星空の表現です。幻想的で、空気感まで伝わってくるような描き方をしていて、「こんなふうに描けるんだな」と感心しました。

もちろん、技術的にもかなり高いレベルの作品だと思います。
でも、実際に見ていて強く感じたのは、「技術以上にセンスがすごい」ということでした。

たぶん最初から完璧に描けていたわけではないと思うんです。
最初に、その人の中に独特のイメージや感覚があって、それを表現したいという気持ちが先にあった。そこに後から技術が追いついていって、最終的にああいう完成度の高い作品になったんじゃないかな、そんなふうに感じました。

絵って、結局そこが一番大事なのかもしれません。
技法や描き方、細かなテクニックももちろん重要なんだけど、それ以上に「どんな世界を描きたいのか」という感覚やセンスが大事なんだと思います。

技術というのは、描き続けている人ならある程度は身についていくものなのかもしれません。
でも、「何を描くか」「どんな空気感を作るか」「どんなイメージを持っているか」という部分は、その人自身の感性に関わるものですよね。

今回mocha展を見ていて、改めて「絵はセンスが大事なんだな」と強く感じました。
まず頭の中にイメージがあり、その世界を形にしたいという感覚がある。そこに技術が積み重なって、初めて人を惹きつける作品になるんだと思います。

原油価格のチャートを見て

最近、中東情勢について少し考えていました。

きっかけは、原油価格のチャートを見ていたことです。週足の5年チャートを見ていると、やはり原油価格というのは世界の不安定さを映す重要な指標なんだなと感じます。

原油価格が上がるということは、単純に「石油が不足するかもしれない」という不安が強くなるということですよね。価格が急騰するほど、市場や世界全体がパニックに近づいていく。

前回大きく上昇したのは、4年ほど前のウクライナ戦争の時でした。
あの時は世界中がかなり緊張しましたが、その後は徐々に落ち着きを取り戻しました。

ただ、今回の中東情勢は、個人的にはさらに深刻な可能性もあるのではないかと思っています。
特に日本のようにエネルギー資源を海外に大きく依存している国にとって、原油供給の問題はかなり重要です。

もちろん、すぐに石油がなくなるわけではありません。
今年の分くらいは確保されているのかもしれません。でも、長期的に見ると、「来年はどうなるんだろう」と不安になる部分もあります。

もし原油の輸入が大きく止まったり、供給が不安定になれば、日本経済への影響はかなり大きいはずです。物流、電力、物価、生活コスト……あらゆるものが関係しています。

だから本来は、もっと多くの人が原油価格やエネルギー問題に関心を持ってもいいのではないか、と感じています。
ただ実際には、世の中全体はまだ比較的楽観的に見えるんですよね。

もちろん、必要以上に不安になる必要はないと思います。
ただ、「エネルギーには限りがある」という意識や、省エネを大切にする感覚は、もっとあってもいいのではないかとも思います。

たとえば、無駄なエネルギー消費を減らすとか、できる範囲で節約するとか。
そういう空気感が、今はあまり強くない気がするんです。

投資をしていたり、経済のチャートを日常的に見ている人でないと、原油価格を意識する機会は少ないのかもしれません。

現代アートって、正直かなり難しい。

ネットを見ていると、「現代アートはわからない」「意味不明」「好きになれない」という意見をよく見かけます。実は僕自身も、そういう感覚に近いものがあります。

現代アートって、正直かなり難しい。
何を表現しているのか、何が描かれているのか、よくわからない作品も多いですよね。

実は僕も、以前は抽象画のような作品を作っていた時期がありました。
その時は、自分の中ではすごく面白かったんです。抽象画って、とにかく自由なんですよね。何を描いても間違いではないし、自分のイメージや感覚をそのまま形にできる。自由度が高くて、描いていて気持ちいい感覚がありました。

たとえば、水が流れ落ちるようなイメージの作品を描いたこともありました。
自分の中にはちゃんと感覚やイメージがあるんです。でも、それを他人が見たら「何これ?」となるかもしれない。意味不明に見えるかもしれない。

そこでふと、「他の人が見てわからない絵を描くことに意味はあるんだろうか?」と思うようになりました。
もちろん、アートは必ずしも説明できる必要はないし、自由なものだと思います。でも、自分の中ではその疑問が大きくなっていって、結局それ以上、抽象画を描かなくなってしまいました。

ただ、今になって思うのは、現代アートって「無理に理解しなくてもいい」のかもしれない、ということです。
わからなければ、わからないままでもいい。見る側が無理に意味を探したり、理解しようと頑張る必要はないのかもしれません。

抽象画を描いていた頃から、しばらく何を描けばいいのかわからなくなって、絵から少し離れていた時期もありました。
でも今は、女の子の絵を描いています。

結局、自分が本当に描きたかったものは、そういう絵だったのかもしれません。

遠回りしたけれど、最後は自分の原点に戻ってきた。そんな感覚があります。 

「mocha展」に行ってみようと思っています。

mochaというアーティストの展示なのですが、札幌ではこういう現代的なアート展示はかなり珍しいんですよね。たまたま今日開催していることを知って、「これは行ってみたいな」と思いました。

mochaさんの作品は、今の時代の感性にすごく合っている気がします。
映画やアニメ映画のワンシーンのような雰囲気があって、特に星空をテーマにした作品が多い印象です。やっぱり星空というモチーフは、それだけで人を惹きつける魅力がありますね。幻想的で、物語を感じさせる世界観があります。

札幌では、美術展というと古典的な作品や伝統的な展示が多い印象があります。もちろんそういう文化も大事だと思うのですが、個人的には現代的な感覚のアートの方が好みです。だから今回のような展示は、とても貴重に感じます。

作品は版画らしいのですが、価格もかなり高額とのこと。
50万円くらいする作品もあるそうで、人気作品になると70万円、もしかすると100万円近いものもあるのかもしれません。もちろん自分が購入するわけではないのですが、実際に本物を見るだけでもかなり刺激になりそうです。

東京ならこういう展示は比較的多いのかもしれませんが、札幌ではなかなか出会えません。
だからこそ、今回のmocha展はとても楽しみです。実際にどんな空気感の作品なのか、じっくり見てこようと思います。

2026年5月20日水曜日

10年ほど前、岡本太郎記念館に行ったことがある。

当時の僕は、いろいろな美術館を見て回っていた時期だった。有名な美術館を中心に巡っていて、その流れで岡本太郎にも興味を持ち、実際に足を運んでみた。

記念館の中で特に印象に残っているのは、「写真」の多さだった。

もちろん絵画や作品もたくさん展示されていたのだけれど、それ以上に白黒写真が強く記憶に残っている。カラーではなく、モノクロ写真だったと思う。現地の人々を撮影したような写真が多くて、ただ作品を展示するというより、「人間を見つめている」という雰囲気があった。

岡本太郎は絵を描くだけではなく、人や文化そのものへの興味がとても強かったのかもしれない。そんなことを、なんとなく感じた記憶がある。

そして、もう一つ強く覚えているのが、「拳骨のような腕」をモチーフにした作品群だった。

腕を振り上げたような、力強い形のアートが何点も並んでいて、それがすごく印象的だった。抽象画なのか、印象表現なのか、分類はよく分からない。でも、とにかく同じテーマに強くこだわっている感じがした。

一つや二つではなく、似たようなモチーフが何度も繰り返されていたので、「なぜここまでこの形に執着するんだろう」と思ったのを覚えている。

でも逆に、その“異常なくらいのこだわり”こそが、作家性なのかもしれない。

人はどうしても「違うものを作ろう」と考えがちだけれど、本当に強い作家は、同じテーマを何度も掘り下げていく。そんなことを、後になってから思った。

そして、その日はとにかく暑かった。

ほとんど真夏のような日差しで、記念館を見たあと、隣のカフェでジュースを飲んだ記憶が残っている。作品そのものだけではなく、暑さや空気感、歩いた道、休憩した場所――そういう感覚まで含めて、記憶というのは残るものなんだと思う。

美術館の記憶というのは、作品だけではなく、その日の空気ごと心に残っているのかもしれない。

最近、仕事について考えることがある。

以前、ある病院でとても一生懸命に働いているスタッフを見たことがあった。常に仕事に集中していて、技術にも真剣で、「職人タイプ」の人だなという印象だった。でも、不思議なことに、その人が職場で強く評価されているようには見えなかった。むしろ、上の立場の人と衝突しているようにも見えた。

その時に思った。

仕事に全力を注ぐ人ほど、必ずしも周囲から認められるわけではないのかもしれない、と。

もちろん、仕事を頑張ること自体は悪いことではない。むしろ素晴らしいことだと思う。ただ、仕事に集中しすぎる人は、周囲への気配りやコミュニケーションにエネルギーを割けなくなることがある。職人気質の人ほど、自分の作業や結果に意識が向きやすい。

一方で、少し肩の力を抜いて働いている人は、周りを見る余裕がある。人と話したり、空気を読んだり、タイミングよくフォローしたりすることができる。だから職場の人間関係もうまくいきやすい。

そして会社という場所では、「仕事ができること」だけではなく、「周囲と円滑にやれること」も大きく評価される。

さらに、常に全力で働いている人ほど疲労も溜まりやすい。疲れれば当然ミスも出る。でも周囲は、その人が普段頑張っている分、逆に少しのミスにも厳しくなったりする。

逆に、普段余裕を持って働いている人は、ここぞという場面で集中できる。精神的な余白があるからだと思う。

だからといって、「適当に仕事をした方がいい」と言いたいわけではない。ただ、仕事というのは努力量だけで評価されるわけではなく、余裕やコミュニケーション能力も含めて見られているのだと思う。

これは実際に会社の中にいると、なかなか気づきにくいことかもしれない。でも、いろいろな職場を見てきて、「頑張っている人ほど報われない場面がある」という現実は確かに存在する気がしている。

もしかすると、長く働くためには、“全力で走り続けること”よりも、“余裕を保ちながら続けること”の方が大切なのかもしれない。

UFO映像について考えること

昔は、ネットに出回っているUFO映像を見て「本物かもしれない」と思っていた。でも、自分で映像を作るようになってから、その考えは少し変わった。

実は3年ほど前、試しにUFO映像を作ったことがある。映像編集ソフトやCGを使えば、意外と簡単に“それらしい映像”が作れてしまう。しかも、SNSに公開すると、多くの人が「これは本物だ」と反応した。想像以上に注目されて驚いたのを覚えている。

その経験から、世の中に出回っている多くのUFO映像は、作られたものである可能性が高いのではないか、と考えるようになった。むしろ、はっきり鮮明に映っている映像ほど、疑って見てしまう。

逆に、本当に存在するとしたら、遠くに小さく映っている程度のものの方が、現実味があるのかもしれない。もちろん、それが本物かどうかは分からない。でも少なくとも、「鮮明だから本物」とは言えない時代になっていると思う。

ただ、だからといって、僕はUFOそのものを否定しているわけではない。

宇宙には人類よりはるかに高度な文明が存在する可能性もあるし、もしそうした存在がいるなら、人間には理解できないような技術を持っていても不思議ではない。例えば、映画に出てくるような瞬間移動や、現在の物理学では説明できない移動方法を実現していたとしても、完全には否定できない気がする。

人間の常識の範囲で「絶対に来れない」と決めつけることもできない。だから僕は、「UFOは存在する」と断言はしないけれど、「存在する可能性はある」と考えている。

そして今の時代は、映像技術が発達したからこそ、映像そのものよりも、“なぜそれを信じるのか”という人間側の心理の方が面白いのかもしれない。

2026年5月19日火曜日

BASICシミュレーターで作った「スペースインベーダー」

2022年頃、BASICシミュレーターを使って、簡単なスペースインベーダー風ゲームを作っていたことがあります。

当時はまだシミュレーターの操作にも慣れていなくて、使い方を覚えながらの制作でした。それでも、不思議なくらい作業が楽しくて、たしか5日くらいで完成した記憶があります。

プログラム自体はかなり単純なものでした。BASICらしいシンプルな構造で、今見ると技術的にすごいものではありません。でも、その時はとにかく夢中でした。
ごちゃごちゃ試しながら動かしていたら、少しずつゲームの形になっていく。その感覚がすごく面白かったんです。

当時の自分は、特に昔のゲームに強く惹かれていました。中でも、ゲーム史を代表する存在としてスペースインベーダーに特別な魅力を感じていた気がします。

「いつか自分でも作ってみたい」

そんな気持ちは、かなり前からどこかにあったんだと思います。
そこにたまたまBASICシミュレーターを手に入れたことで、「じゃあ試しに作ってみようかな」と自然に始まった感じでした。

この後もいろいろなゲームを試作しましたが、振り返ると、このスペースインベーダー制作の時が一番純粋に楽しかったかもしれません。

BASICだからこその手軽さもあって、思いついたものをすぐ形にできる。
難しいことを考える前に、とにかく作ることそのものが楽しかった時期でした。

 

2026年5月15日金曜日

耳鳴りは2年かけて改善した。僕の実体験を書きます

 今日は、僕の耳鳴りが改善した体験について書こうと思います。

結論から言うと、改善するまでに約2年かかりました。
完全に治ったわけではありません。でも、今ではほとんど気にならないレベルまで落ち着いています。

同じように耳鳴りで悩んでいる人にとって、少しでも参考になればと思います。

突然、耳鳴りが大きくなった

もともと僕には軽い耳鳴りがありました。

普段で言えば「10%くらい」の感覚です。
静かな場所で少し気になる程度で、普通に生活はできていました。

ところが2年前、突然その耳鳴りがかなり大きくなりました。

感覚としては、一気に「70%くらい」まで悪化した感じです。

かなり気になっていたんですが、すぐには病院へ行かず、2週間くらい様子を見ていました。
その後、耳鼻科を受診して薬をもらい、治療を始めました。

薬を飲み始めても、すぐには改善しなかった

薬を飲み始めた最初の頃は、正直あまり効果を感じませんでした。

最初の1か月くらいで、ピーク時よりは少しマシになった気はしたんですが、その後もしばらく耳鳴りはかなり大きいままでした。

病院でも「なかなか良くならないです」と先生に話していたのを覚えています。

それでも薬は飲み続けました。

3か月に1回くらい通院して、薬をもらっていました。

半年くらいで、少し変化を感じ始めた

はっきり「少し改善したかもしれない」と感じ始めたのは、半年くらい経った頃です。

ただ、それが薬のおかげなのか、時間経過によるものなのかは正直わかりません。

でも、悪化はしていなかったので、とにかく続けようと思って薬を飲み続けました。

その後も少しずつですが、確実に楽になっていった感覚があります。

1年半を過ぎた頃、「かなり良くなった」と感じた

1年半くらい経った頃には、さらに改善した実感がありました。

そこで、「これ以上薬を飲み続けても、大きな変化はないかもしれない」と思い始め、最終的には薬をやめました。

飲んでいた期間は、合計で1年8か月くらいだったと思います。

現在の耳鳴りは、感覚的には「20〜30%くらい」です。

完全にゼロではありません。
でも以前のように常に気になる状態ではなくなりました。

今は薬も飲んでいません。

原因は正直、はっきりわからない

耳鳴りの原因については、本当にいろいろ考えました。

ストレス、疲れ、生活習慣など、複数の要因が重なっていたと思います。

その中で、自分では「あるお風呂屋さんでのストレス」がかなり大きかったんじゃないかと感じています。

当時、少し小さめの銭湯のような場所によく行っていたんですが、そこには常連の人たちがいて、みんなすごく仲が良かったんですよね。

僕はそういう空気が少し苦手でした。

本来、お風呂ってリラックスする場所のはずなんですが、その場所では逆に気を使ってしまっていました。

「関わりたくないけど、無視するわけにもいかない」

そんな微妙なストレスが積み重なっていた気がします。

もちろん、それだけが原因とは言い切れません。
でも、今振り返ると、かなり精神的な負担になっていたと思います。

2年経って思うこと

今回の経験で実感したのは、耳鳴りは「時間をかけて改善することもある」ということです。

すぐに治らないと、不安になると思います。

僕自身、「このままずっと治らないんじゃないか」と何度も思いました。

でも実際には、少しずつ、本当に少しずつ改善していきました。

だから今つらい人も、あまり悲観しすぎなくていいのかもしれません。

薬については、「絶対に効いた」とは言えません。
ただ、少なくとも僕は、飲まないよりは飲んでよかったと思っています。

毎日3回、1年8か月ほど続けていました。

その積み重ねも、多少は意味があったんじゃないかなと思っています。

2026年5月14日木曜日

去年、作りかけで止まった「オープンワールドRPG」を見返して思ったこと

 昔のファイルを整理していたら、去年作っていたゲームのデータが出てきた。

ジャンルとしてはロールプレイングゲームで、いわゆる“オープンワールド風”の作品を目指していた。

ただ、結局は途中で開発が止まっている。
今見返すと、完成品というよりはデモ版に近い状態だった。

プレイヤーキャラクターが広いフィールドを走り回れるようになっていて、背景や地形は自動生成。
毎回ランダムに世界が作られる仕組みにしていたので、自分で大量のマップを作り込まなくても済む。そこはかなり効率的だったと思う。

「フィールド制作を自動化できれば、個人でも大きな世界を作れるんじゃないか」

そんな発想で作り始めた。

実際、ここまでなら比較的スムーズに進んだ。
もちろん苦労はしたけれど、ベースになるテンプレートを拡張しながら進めたので、半月ほどで形にはなった。

特に地形のランダム生成は色々工夫していて、動かしているだけでも雰囲気はかなり良かったと思う。

でも、本当に大変なのはその先だった。

ゲーム制作って、フィールドができた段階ではまだ“入口”なんだよね。

ここから先には、

  • 敵キャラクター

  • レベルシステム

  • 武器や装備

  • アイテム

  • バランス調整

  • ストーリー

  • 隠し要素

  • クエスト

  • 世界観の整合性

そういう膨大な要素が待っている。

例えば、

「このレベル帯ならどんな敵が出るのか」
「武器の強さをどう調整するのか」
「探索する意味をどう作るのか」

そういう細かい設計が必要になる。

しかも、それら全部が噛み合わないと、ゲームとして成立しない。

だから、「動くフィールドを作ること」と、「面白いRPGを完成させること」は、全く別の難しさなんだと思った。

個人開発で何年もかけてゲームを完成させる人がいるけれど、実際それくらいの時間が必要なんだろうなと思う。

自分の場合、一番大きかったのはやっぱり時間の問題だった。

もし十分な時間があれば、もう少し続けられたかもしれない。
でも現実的には、生活もあるし、他にやることもある。

さらに、ゲーム制作は時間だけじゃなく資金も必要になる。

仮に資金提供してくれる人がいて、「数年かけて作っていい」と言われる環境なら、挑戦してみたい気持ちはある。
でも実際には、そういう支援があるわけでもない。

しかも、完成したとして、その投資を回収できる保証もない。

そう考えると、個人で大規模RPGを作るのは、本当に難しい。

それでも、去年の自分が「ここまで作った」という事実は、今見返してみると結構面白かった。
未完成ではあるけれど、ちゃんと“世界を作ろうとしていた痕跡”が残っていたからだ。

完成しなかったとしても、あの時期に本気で作っていた経験は、無駄ではなかったと思う。


2026年5月13日水曜日

腕時計のデザインや3Dモデリング




 







以前、腕時計のデザインや3Dモデリングに夢中になっていた時期があります。
主に腕時計の外装デザインを作っていて、中には実際に製品化まで進んだものも少しだけありました。

ただ、全体として見ると、形にならなかった案の方が圧倒的に多かったですね。
ビジネスとして成功したかと言われると、正直そこまでではなかったと思います。

でも、「作っていて面白い」という感覚はかなり強かった。

腕時計って、一見すると複雑そうに見えるんですが、実際に3Dで作り始めると、基本構造にはある程度共通したパターンがあるんですよね。
ケースの形、ボタンの配置、ベルトとの接続部分など、細かな違いはあっても、大枠の構造はかなり似ています。

最初は「何がどうなっているのか」全然わからなかったんですが、一度理解すると、時計のデザインの見方が変わりました。

そこからは単純な形状というより、「全体の雰囲気」をどう作るかが重要になってくる。
高級感なのか、スポーティーさなのか、無骨さなのか。
ほんの少しのラインや厚み、ボタンの形状だけで印象が大きく変わるところが、時計デザインの面白さだったと思います。

腕時計って、機能だけで成立しているものではなく、かなり“感覚的なデザイン”の世界なんですよね。
だからこそ、細部を調整している時間がすごく楽しかった。

考えてみると、時計や車、カメラみたいなものって、昔から男性が惹かれやすいジャンルなのかもしれません。
もちろん人それぞれですが、「機能」と「デザイン」が強く結びついているプロダクトには、独特の魅力があります。

その中でも腕時計は、小さなサイズの中に世界観や高級感を凝縮できるところが面白い。
だから当時は、結果よりも「作ること自体」にかなりハマっていた気がします。

NFTアートを制作していました。

4年ほど前、NFTが大きな盛り上がりを見せていた頃、僕もNFTアートを制作していました。

当時は、正直「NFTとは何か」を深く理解していたわけではなく、とにかく夢中になって作品を作っていた感覚が強かったです。

ただ、振り返ってみると、作りたいものの方向性は最初からある程度決まっていた気がします。
それは「ポップアート風の女の子のイラスト」。

一般的なアニメ系の女の子イラストとは少し違って、もっとカラフルで、ポップで、アート寄りの雰囲気を意識していました。
日本では意外と「ポップアート風の女の子」を前面に出した作品は少なかったので、その独特なテイストが少し受け入れられたのかもしれません。

制作していた当時は、とにかく手を動かすのが楽しくて、毎日のように作品を作っていました。
今思えば、「どうすれば成功するのか」なんて全然わかっていなかったけれど、だからこそ純粋に面白かったんですよね。

あの頃のNFT界隈には、独特の熱気がありました。
「これから大きな時代が来る」という空気感があって、多くの人が未来に期待していたと思います。

今ほど冷静な市場ではなく、ある意味バブルのような状態だったのかもしれません。
でも、そのタイミングでNFTに触れられたのは、自分にとってすごく良い経験でした。

実際、僕の作品も思っていた以上に売れました。
もちろん、全く売れない人もたくさんいた世界ですが、その中では比較的反応をもらえた方だったと思います。

今振り返ると、「NFTで成功した」というより、あの熱狂の中で、自分の好きな表現を夢中で追いかけられたこと自体が、一番価値のある体験だったのかもしれません。


2026年5月11日月曜日

2022年頃、僕は女の子の絵をよく描いていた。

2022年頃、僕は女の子の絵をよく描いていた。
実写寄りというか、写真のような質感のある絵で、それをNFTアートとして出していた時期もある。

ただ、当時のNFT界隈とは、正直あまり相性が良くなかった。

NFTで強かったのは、いわゆる“キャラクター性”のある作品だった。
たとえばトレーディングカードやゲームのキャラクターのように、ひと目で認識できて、コレクションしたくなるような存在感のあるもの。イメージとしては、ポケモン的な文脈に近かった気がする。

もちろん現代アート的な作品も存在していたけれど、NFTの市場では「キャラクターとして成立していること」がかなり重要だったように思う。

その中で、僕が描いていたような実写寄りの女の子の絵は、少し方向性が違っていた。
アルバムの1ページみたいな感覚というか、物語や空気感を切り取るような作品だったので、NFT的な“トレードされるキャラクター性”とは噛み合わなかったんだと思う。

でも、自分では結構気に入っている。

最近になって、なぜ自分がこういう絵を描いていたのかを少し考えることがある。
以前、「それは慰めなんじゃないか」という話をしたこともあったけれど、当時の自分にはそういう自覚はなかった。

ただ描きたいから描いていただけで、特別な意味を持たせていたわけでもない。
面白いから描いている、という感覚に近かった。

でも今振り返ると、たぶん“慰め”のようなものも、どこかに含まれていたのかもしれない。

とはいえ、描いている最中は本当に何も考えていない。
頭の中を整理するためでもなく、誰かに理解してもらうためでもなく、ただ自然に描いていた。

結局のところ、なぜ描いていたのかは、自分でもまだよくわからない。 

「若者が働かなくなった」という話

 最近、「若い世代の生活保護受給者が増えている」というニュースを見かけた。

詳しい原因までは分からないけれど、「若者が働かなくなった」という話は以前よりよく聞く気がする。

その一方で、世の中では人手不足とも言われている。
実際、自分の家の近くでも、以前は24時間営業だった店が深夜営業をやめてしまった。おそらく人手不足の影響なんだろう。
こういう変化は、いろいろな場所で起きているように感じる。

最近は「若い人がすぐ会社を辞める」という話もよく聞く。
ただ、これは別に今に始まったことではなく、昔からある話でもあると思う。

それに、辞める人の中には「できる人」も多いと言われる。
能力がある人ほど、他の会社でもやっていける自信があるし、実際に転職先が決まって辞めるケースもある。
そういう人にとっては、「辞めること」がそこまで大きなリスクではないんだろう。

一方で、自分は「若いうちはある程度頑張ったほうがいい」とも思っている。
無理をしろ、という意味ではない。
ただ、若い時期に、自分なりの限界に近いところまでは頑張ってみる経験は大事なんじゃないかと思う。

もちろん、限界を超える働き方まで耐える必要はない。
職場によっては、本当に人を壊すような働かせ方をする場所もある。
そういう環境なら、辞めてしまっていいと思う。

今は人手不足もあって、特に若い世代は昔より会社を選びやすい時代になっている。
昔のように、「会社に使ってもらう」という感覚だけではなく、「自分に合う場所を選ぶ」という考え方も強くなっている気がする。

だから、「この環境は合わない」と感じたら辞めるのも一つの選択肢だと思う。
ただ、自分としては、気軽に何度も辞めるというよりは、「自分なりにやれるところまではやってみる」という感覚のほうが大事なんじゃないかと思っている。

耐えられる限界を超えてしまうと、人は壊れてしまう。
実際、無理を続ければ、心を病んでしまうこともある。

だから、限界を超える前に辞めるのは必要な判断だと思う。
でも、「働かない」という方向に行ってしまうのは、また別の問題のようにも感じる。

特に若いうちは、仕事を通して学べることも多い。
だからこそ、自分を壊さない範囲で、できるだけ社会の中で踏ん張ってみることには意味があるんじゃないかと思う。

2026年5月10日日曜日

昔描いていた抽象画がいくつも出てきた

 10年くらい前のファイルを整理していたら、昔描いていた抽象画がいくつも出てきた。

当時は現代アートに強く興味を持ち始めた頃で、「こういうものが面白いのかもしれない」「こういう雰囲気が現代的なんじゃないか」と、自分なりに模索しながら描いていたんだと思う。

でも、今の自分はもう抽象画をほとんど描きたいとは思わない。
嫌いになったというより、あの頃とは興味の向いている方向が変わった、という感じに近い。

改めて見返してみると、当時はかなり迷走していたなと思う。
「何を描きたいのか」「何を表現したいのか」もまだ曖昧で、とにかく現代アートというものを知りたくて、手探りでいろいろ試していた時期だったんだろう。

今見ると、自分でも少し笑ってしまう。
「何をやっていたんだろう」と思う部分もあるし、正直よく分からない作品も多い。
でも、その頃なりに必死に模索していた痕跡ではあるんだと思う。

完成されたものではないけれど、「自分がどこを通ってきたのか」を感じられる記録として、こういう過去の作品も悪くないのかもしれない。


2026年5月9日土曜日

1年間遊んでいる『アイドルマスター スターリットシーズン』について考えた

ここ1年くらい、ずっと アイドルマスター スターリットシーズン を遊んでいる。

でも最近、「自分はこのゲームを本当に面白いと思っているんだろうか」と少し考えることがある。

とはいえ、1年も続けているということは、たぶん自分にとって何かしら強くハマる要素があるんだと思う。
ただ、その“面白さ”を言葉にするのが難しい。

今は他にそこまでやりたいゲームもない。
もしかしたら、あまり頭を使いたくない時期なのかもしれない。

このゲームには、本編とは別にライブを作ったり、他の人が作ったライブを見たりできるモードがある。
自分が特に好きなのは、たぶんそこなんだと思う。

ライブを鑑賞したり、演出を組んだりする時間は、いわゆる「攻略」や「効率」を考える必要があまりない。
どちらかというとゲームというより、ライブをプロデュースしたり、映像作品を眺めたりする感覚に近い。

本編ももちろん面白かった。
実際、3周くらいはしっかり遊んだ。
でも、さすがにそこまでやると少し飽きてしまう。

他のゲームを遊んでいた時期もあったけれど、クリアすると次のゲームを始めるのがだんだん面倒になって、結局また『スターリットシーズン』に戻ってきてしまう。

もともと以前から気になっていた作品だったので、「ずっとやりたかったゲームを今ようやく遊んでいる」という感覚もあるのかもしれない。
正直、自分でもまだよくわからない。

一方で、このシリーズにものすごくハマる人がいるのもわかる気がする。
特に日本のファンには、シリーズ作品を幅広く追いかけている人も多い。

自分は今のところ『スターリットシーズン』しか遊んでいないし、シリーズ全体を深く追うところまではいっていない。
でも、「ライブを見る」という体験に関しては、このゲームならではの魅力が確かにあると思う。

2026年5月8日金曜日

昔の東京の写真を見て思い出したこと

 昔、東京へ行った時の写真が出てきたので、久しぶりに見返していた。

たぶん表参道あたりで撮った写真だと思う。
今から10年くらい前のものかな。

その頃の東京は、自分にとって本当に特別な場所だった。

僕は札幌に住んでいるので、東京へ行くには飛行機に乗らなければならない。
気軽に「ちょっと行こう」という距離ではない。

それでも、多い時は年に3回くらい東京へ行っていた。

なぜそんなに行っていたのかというと、やっぱり東京には刺激が多かったからだと思う。

札幌にももちろんイベントや面白いものはあるんだろうけど、自分はそこまで積極的にイベントを探すタイプではなかった。
だから日常の中では、どこか「変化の少なさ」を感じていた。

でも東京へ行くと、街そのものに情報量がある。

歩いているだけで、見るもの全部が新鮮だった。

建物も、人も、店も、空気感も。
何を見ても「面白い」と感じていた記憶がある。

たぶん、その頃の写真には、そういう感覚がそのまま残っているんだと思う。

ただ、何度も東京へ行くようになると、少しずつ感覚は変わっていった。

最初に感じていた“圧倒的な新鮮さ”みたいなものは、だんだん薄れていった。

飽きたというより、「慣れてしまった」という表現の方が近いかもしれない。

人は同じ刺激を何度も受けると、それが当たり前になってしまう。
だから最初ほど強く感動しなくなる。

昔は、歩いているだけで何か特別に感じていたのに、何度も行くうちに、その感覚が少し鈍くなっていった。

でも、それでも東京はやっぱり面白い。

今でも年に一回くらいは行きたいと思っている。

札幌にいる時とは違う刺激があるし、見ているだけで勉強になることも多い。

完全に飽きることはないんだと思う。

ただ問題は、やっぱり「飛行機に乗って行く」ということなんだよね。

これが意外と大きい。

近場なら気軽に動けるけど、飛行機で移動するとなると、どうしても気合いが必要になる。

何か大きな目的があれば動きやすい。
でも、「ただ遊びに行く」というだけだと、なかなか腰が重くなる。

それでも、昔の写真を見返していると、また東京を歩いてみたいなと思う。

最初に感じたあの新鮮さは戻ってこないかもしれない。
でも、年齢を重ねた今だからこそ、また違う見え方をする気もしている。


なぜ今、昔のレースゲーム「ファイナルラップ」が面白いのか

 最近、僕がよく遊んでいるゲームに「ファイナルラップ」というレースゲームがある。

もともとはゲームセンターにあったアーケードゲームなんだけど、その後家庭用ゲーム機にも移植されて、今はそれを遊んでいる。

このゲーム、今やってもかなり面白い。

もちろんレースゲームとして普通に楽しいんだけど、僕が特に惹かれているのは、「見た目の美しさ」なんだと思う。

今の最新のレースゲームって、ほとんどがリアルな3Dポリゴンで作られている。
映像も本当に綺麗だし、実写に近いレベルになっている。

でも、不思議なことに、そういう最新のレースゲームには、あまり深くのめり込めない。

それよりも、「ファイナルラップ」のような昔のグラフィックの方が、なぜか魅力を感じる。

このゲームは、完全な3Dではない。
基本は2Dグラフィックなんだけど、「3Dっぽく見せようとしている」表現になっている。

そこがすごく面白い。

本物の3Dではないからこそ、逆に「立体感を表現しようとしている工夫」が見えて、その表現自体が美しく感じる。

ある意味、“架空の3D”なんだよね。

限られた技術の中で、「どうやって立体に見せるか」を考えて作られている。
だから単なるリアルさとは違う、独特の魅力がある。

今の3Dレースゲームは、どちらかというと「シミュレーター」に近いと思う。
実際の車の挙動を再現して、リアルに運転する方向へ進化している。

でも、「ファイナルラップ」のような昔のレースゲームは、もっと純粋に“ゲーム”なんだと思う。

現実を再現するというより、「遊びとして気持ちいいか」が重視されている。

だから、最新のシミュレーター系レースゲームとは、面白さの種類が違う。

シンプルなんだけど、ゲームとして成立している感覚が強い。

そして、このゲームが当時すごかったのは、ゲーム性だけじゃない。

ゲームセンターでは、最大8人対戦ができた。

8台の筐体を通信でつないで、8人が同時にリアルタイム対戦できたんだ。

今のオンラインゲームの時代から見ると普通に感じるかもしれないけど、当時としてはかなり画期的だった。

実際に同じ空間で、8人が同時にレースをして盛り上がる。
あの体験は、当時かなりインパクトがあったと思う。

だから「ファイナルラップ」は、単なるレースゲームというより、“時代の熱気”も含めて記憶に残っているゲームなんだと思う。

でも、今の僕が惹かれているのは、やっぱりあの独特な映像表現なんだよね。

完全なリアルではない。
でも、「リアルに見せようとしている表現」がある。

その不完全さというか、技術と表現の間にある独特の美しさが、今見ると逆に新鮮で、とても綺麗に感じる。


子供の頃、美術だけはなぜかできた

子供の頃、僕は正直あまり勉強が好きではなかった。

というより、ほとんど勉強していなかったと思う。

だから当然、成績も良くなかった。
勉強しない人間が成績良くなるわけがないし、特別頭が良かったわけでもない。

でも、不思議なことに、美術だけは違った。

絵だけは、なぜか描けた。

特に努力した記憶もないし、勉強したわけでもない。
それなのに、美術の成績だけは良かった。
今振り返ると、クラスの中でもかなり上手い方だった気がする。

でも当時の自分にとっては、それが特別なことだとは思っていなかった。
ただ普通に描いていただけだった。

だから逆に、「なぜ描けたのか」は今でもよくわからない。

その後、一度だけ美術系の専門学校を見学しに行ったことがある。
だから全く興味がなかったわけではないんだと思う。

ただ、結局そこには入らなかった。

理由は単純で、その頃の自分には「美術を仕事にする」という感覚がまったくなかったからだ。
絵を描くことに対して、将来の方向性を見出していなかった。

だから結局、社会人になってからは、美術とはまったく関係ない道に進んだ。

今思えば、かなり遠回りをしたのかもしれない。

後になって親から聞いた話では、当時の担任の先生は「この子は美術の方向に進ませた方がいい」と言っていたらしい。

でも僕自身は、そのことをまったく知らなかった。

もしその時、違う選択をしていたら、人生はかなり変わっていたのかもしれない。
ただ、それが良かったのか悪かったのかは、今でもわからない。

とはいえ、完全に離れてしまったわけでもなかった。

30代になってから、僕はウェブデザインの仕事に関わるようになった。
形は違うけれど、「デザインする」「視覚的に表現する」という意味では、また美術的な世界に戻ってきた感覚がある。

だから結局、自分はどこかでずっと「視覚表現」の方向へ引っ張られていたのかもしれない。

ただ、子供の頃の僕は、いわゆる古典的な芸術にはあまり興味がなかった。

美術館にあるような伝統的な絵画や、格式ある芸術作品に惹かれるタイプではなかったと思う。
それは今でもあまり変わっていない。

むしろ、自分が今興味を持っているのは、現代アートや抽象的な表現の方だ。

ただ、僕が子供だった頃は、今のように「現代アート」や「現代美術」が身近に語られていた時代ではなかった気がする。

もちろん存在はしていたのかもしれない。
でも少なくとも、僕の世界には入ってきていなかった。

だから当時は、「美術」というと、どうしても古典的なものとしてしか見えていなかったのかもしれない。

もし今の時代に子供だったなら、また違った形で美術にのめり込んでいたのかもしれない。

なぜ僕は宇宙や物理学に惹かれていたのか

 若い頃、僕はなぜか宇宙や物理学に強く惹かれていた。

特に相対性理論には夢中になっていて、関連する本をかなり読んでいた記憶がある。

当時は「なぜこんなに興味があるのか」は、自分でもよくわからなかった。
ただ、宇宙とは何か、この世界はどう成り立っているのか――そういう問いに、自然と引き寄せられていたんだと思う。

その後、興味は量子力学へ移り、さらに超弦理論や紐理論のような、より抽象的で難解な世界へ向かっていった。
正直、完全に理解できていたわけではない。
でも、「世界の根本には何があるのか」を知りたいという感覚だけは、ずっと変わらなかった。

今になって振り返ると、それらは自分の「意識理論」を考えるための土台だったのかもしれないと思う。

僕が意識について考えるようになったのは、おそらく10年ほど前からだ。
でも、その理論にたどり着く以前に、長い時間をかけて物理学や宇宙論に触れていた。
つまり、自分の中では「物理学の理解」が先にあり、その上に「意識理論」が積み上がっていった感覚がある。

なぜなら、意識を考えるには、まず「この世界がどうできているのか」をある程度理解しようとしなければならないと思ったからだ。

だから、自分の意識理論を一般の人に説明しようとしても、なかなか難しい。
その理論は、物理学や宇宙論への興味を前提として成り立っている部分があるからだ。

でも僕自身は、その「過程」がとても面白いと思っている。

宇宙に興味を持ち、物理学を読み、量子論に惹かれ、そこから意識について考えるようになった。
一見バラバラに見える興味が、あとから一本の線でつながっていく感覚がある。

だから結局、若い頃に夢中になっていた物理学も、決して無駄ではなかったんだと思う。

ただ、それでも最初に「なぜ宇宙に興味を持ったのか」は、今でもよくわからない。
理由があったのか、偶然だったのか、それとも何か内側から自然に惹かれていたのか。

そこは、まだ自分でも説明できない。

2026年5月5日火曜日

僕が考えている「意識理論」について

僕の中には、昔からなんとなく考えている「意識理論」みたいなものがある。

普段はほとんど人に話さない。
たぶん話しても、うまく伝わらないと思うからだ。

最近は哲学ブームみたいなものもあって、本屋に行くと哲学系の本がたくさん並んでいる。
「人生をどう生きるか」とか、「幸せとは何か」とか、そういうテーマの本だ。

でも、僕が考えているのは、そういう話とは少し違う。

もっと単純で、もっと奇妙なテーマだ。

それは「生まれ変わり」について。

ただし、よくあるスピリチュアル的な話ではない。
魂が別の人間に乗り移るとか、前世の記憶がどうとか、そういう話でもない。

むしろ逆で、「自分とは無関係な別人として生まれる」という考え方に近い。

無から生まれて、また無に戻る

人は生まれる前、無の状態だったと思う。

少なくとも、自分には生まれる前の記憶はない。
何もない状態から、突然「自分」という意識が始まった。

そして死ねば、また無に戻る。

ここまでは、多くの人がなんとなくイメージできると思う。

でも僕が気になるのは、その“次”なんだ。

もし自分が死んだあと、どこかで別の誰かが生まれたとする。

当然、その人は自分ではない。
記憶も違うし、人格も違う。
客観的に見れば、完全に別人だ。

でも、その人にはその人の「一人称」がある。

つまり、その人は「自分として」世界を見ている。

一人称の不思議

ここで重要なのは、「一人称」と「三人称」の違いだと思う。

他人から見れば、その人はただの別人だ。
それは三人称の視点。

でも、その人自身の視点に入れば、そこには確かに「自分」が存在している。

つまり、

  • 外から見れば別人

  • でも内側から見れば、“自分”として世界を体験している

ということになる。

そして考えてみると、今の自分も同じなんだよね。

自分は無の状態から突然「自分」として始まった。
気づいたら、この視点、この意識、この世界の中にいた。

もしそれが一度起きたのなら、また起きないと断言できるのか?

というのが、僕の考えていることなんだ。

「絶対に生まれ変わらない」と証明できるのか

もちろん、「また生まれる」と証明することもできない。

でも逆に、「絶対に生まれ変わらない」とも言い切れない気がする。

ここで言う生まれ変わりは、魂の移動ではない。

むしろ、

「無」→「一人称の発生」→「無」→「別の一人称の発生」

という現象が、繰り返される可能性について考えている感じだ。

それは“同じ自分”ではない。
でも、その瞬間にはまた「自分」という感覚が存在している。

この感覚を、うまく説明するのはかなり難しい。

たぶん普通の生まれ変わりの話とは全然違うし、スピリチュアルとも少し違う。
どちらかというと、意識そのものについての哲学的な疑問に近いのかもしれない。

この考えを突き詰めると面白い

この理論を突き詰めていくと、かなり不思議な話になっていく。

「自分とは何か」
「意識とはどこから来るのか」
「一人称はなぜ存在するのか」

そういう話につながっていくからだ。

正直、うまく説明できている自信はない。

でも、自分の中ではずっと引っかかっているテーマでもある。

たぶん、この感覚を完全に理解できる人は少ないと思う。
それでも、考え始めると結構面白いテーマなんじゃないかなと思っている。

将棋ゲームを作ってみて思ったこと

 僕は別に、将棋が特別好きというわけではない。

毎日将棋を指しているわけでもないし、「どうしても将棋ゲームを作りたい」と思っていたわけでもなかった。

それでも将棋ゲームを作った理由は、単純に「難しそうだったから」だ。

去年あたり、「バイブコーディング」という言葉がかなり流行っていた。
コンピュータを使いながらコードを書いたり、勢いでアプリやゲームを作ったりする流れだ。

それを見て、「自分も何か挑戦してみたい」と思った。

でも、簡単なゲームを作っても面白くない。
平面的で単純なゲームなら、ある程度は誰でも作れる。

だったら、もっと難しそうなものをやってみようと思った。
そこで頭に浮かんだのが将棋だった。

将棋は“考え方”が難しい

実際に作り始めてみると、やっぱり将棋は難しい。

将棋そのものも難しいし、「コンピューターにどう考えさせるか」が特に難しかった。

人間なら感覚的に「この手が良さそう」と考えるけれど、コンピューターにはそれがない。
だから、盤面を点数化していく必要がある。

簡単に言えば、

  • 駒を取ればプラス

  • 有利な位置に駒があればプラス

  • 相手に取られそうならマイナス

みたいな感じで、盤面全体をスコアとして計算していく。

そして、「どの手を打てば最終的に一番スコアが高くなるか」を選び続ける。

要するに、コンピューターは“勝ちたい”というより、「より有利な状態」を探し続けている感じなんだと思う。

先を読むほど強くなる

将棋ゲームでは、「何手先まで読むか」がかなり重要になる。

プロ棋士だと、30手先くらいまで考えているとも言われるけれど、コンピューターでそれをやろうとすると、計算量が膨大になる。

理想的には10手くらい先まで読めるとかなり強くなるらしい。
でも、それを実現するには相当な計算能力が必要になる。

僕が作った将棋ゲームは、もちろんそこまで強いわけじゃない。

でも、作りながら、

「将棋って、“どうやって勝つか”というより、“どうすれば少しでも有利になるか”を積み重ねるゲームなんだな」

という感覚は少しわかった気がする。

作ることと、強くなることは別

ただ、将棋ゲームを作ったからといって、自分が将棋で強くなるわけではない。

ルールや考え方のヒントにはなる。
でも、実際に上達するには、何度も対局して、基本を繰り返して覚えていくしかないんだと思う。

ゲームを作ることと、実際に将棋が強いことは、また別の能力なんだろう。

僕自身、将棋はそんなに上手いわけじゃない。
それでも、なんとなく“それっぽいもの”は作れた。

それはそれで面白かった。

一番こだわったのはグラフィック

ただ、正直に言うと、僕は将棋の中身そのものより、グラフィックの方にかなり力を入れていた。

もちろんゲーム性も大事なんだけど、見た目が良いと、それだけで「ちゃんとしてる感じ」が出る。

個人的には、そこがかなり重要だった。

だから実際には、ゲームのロジックよりも、グラフィックを作り直している時間の方が長かった気がする。

細かい部分を何回も修正して、何度も作り直した。

たぶん、普通の人はそこまで気づかない。
でも、自分の中ではかなりこだわっていた部分だった。

なんというか、その辺りはすごく“自分らしい”気がする。


ゴールデンウィークがあまり好きじゃない理由


 世間はゴールデンウィークで盛り上がっているけれど、実は僕はこういう大型連休があまり好きではない。

というのも、僕は自営業なので、「休日」や「日曜日」という感覚があまりない。
基本的に毎日何かしら仕事をしていて、常に何かを作っているような生活をしている。

だから、世間が休みになると、逆に動きづらく感じてしまう。

連休になると、みんな外へ遊びに出かける。
すると、どこへ行っても人が多い。

スーパーに行っても混雑しているし、街中もごった返している。
落ち着いて買い物をするのも難しくて、なんとなく疲れてしまう。

僕はもともと、人混みがあまり得意ではない。
ガヤガヤした雰囲気よりも、静かで余裕のある空気の方が好きだ。

だから、むしろ平日の方が快適に感じる。

平日の街は人が少なく、どこか落ち着いている。
スーパーもゆっくり見て回れるし、移動もしやすい。
そういう空気の方が、自分には合っている気がする。

もちろん、会社勤めをしている人にとっては、連休は貴重な休息の時間なんだと思う。
平日は仕事があるからこそ、休日のありがたさを感じるんだろう。

でも、僕の場合は少し感覚が逆だ。

「休み」という区切り自体があまりなくて、毎日が仕事でもあり、毎日が普段通りでもある。

だからゴールデンウィークになると、「みんなが休んでいる期間」というより、「どこも混んでいて動きづらい期間」という感覚の方が強い。

これって、自営業だからなのか、それとも単純に人混みが苦手なだけなのか。
たぶん、同じように感じている人も意外といるんじゃないかなと思う。

2026年5月3日日曜日

女性を描く理由について

 女性を描く理由について、ときどき自分でも考えることがあります。

でも、正直に言うと「これが理由です」とはっきり説明できるものではありません。

おそらく、多くの画家にとって女性を描くことはごく自然なことで、特別な意味を持たない場合もあると思います。僕自身も、何か大きなテーマや理由があって描いているわけではありません。

昔、好きだった女性の存在がどこかで影響しているのかもしれない――そう思ったこともあります。でも、その人を意識して描いているわけではないし、実際には関係ない気もしています。

ただ、自分の気持ちの奥に、何か慰めのような感覚があって、それが女性を描かせているのかもしれない。そんなふうに考えたこともありました。でも、それも本当のところはわかりません。

気づけば、かなり昔からずっと女性を描こうとしていました。
「描いていた」というより、「描くことに挑戦し続けていた」という感覚のほうが近いかもしれません。

結局のところ、なぜ描いているのか、自分でもよくわからないんです。
ただ、「描きたい」という気持ちだけがあって、その気持ちに従って描いている。

だから今も、他のものを描こうとはあまり思わないのだと思います。

実験的なRPGの画面が出てきた

 昔バックアップしていた画像を見返していたら、以前に作っていた実験的なRPGの画面が出てきた。

これは、いわゆる「BASICシミュレーター」のようなツールを使って制作していたもので、本格的なゲームエンジンとはかなり違う、かなりシンプルな環境だった。そんな環境で、無理やりオープンワールド風のRPGを作ろうとしていた。

結局、完成までは至らなかったのだけど、当時かなり苦労していたのを思い出した。

一番大変だったのは、背景のスクロール処理だった。

そもそもそのツールには、4方向スクロールの機能が存在しない。だからプログラムでマップのマスを一つずつ動かし、疑似的にスクロールしている。かなり力技で実装していたので、処理負荷がものすごく重かった。実際、ゲーム全体の処理の大半を、そのスクロールだけで使っていたような状態だったと思う。

一応、敵も登場する。

ただし敵は動かず、地面に固定されているだけで、それを倒していくような形だった。倒しても経験値が入るわけでもなく、レベルアップもない。そこまでシステムを作り込めていなかった。

それでも、自分の中では「背景生成」がこのゲーム最大の特徴だった。

マップは自動生成される仕組みになっていて、どこまでも新しい地形が続いていく。いわゆるオープンワールドっぽいことをやりたかったのだと思う。

ただ、実際に動かしてみると、完全に新しい景色が出てくるわけではなく、どうしても似たようなパターンが繰り返される。ランダム生成ではあるものの、プレイしているうちに単調さが出てきて、だんだん飽きてしまう部分もあった。

やはりRPGというのは、背景だけでは成立しない。

ストーリー、レベルシステム、アイテム、武器、成長要素、敵のバリエーションなど、さまざまな要素が組み合わさって初めてゲームとして成立する。改めて考えると、RPGは制作コストが非常に高いジャンルだと思う。

そして、本格的なものを作ろうとすると、そもそも使っているツール自体にも限界がある。

だから途中で、「これ以上作っても中途半端になるかもしれない」と感じて、制作を止めたのだと思う。

それでも、

「背景を生成しながら4方向にスクロールできる」
「敵が出現する」

というところまでは形にできたので、当時としてはかなり頑張っていた気がする。

今見ると未完成そのものなのだけど、逆に、その試行錯誤していた感じが少し面白かった。


2026年5月2日土曜日

毎日歩くことについて、最近思うこと

僕は毎日、歩いている。いわゆるウォーキングという感じなんだけど、運動として歩く時もあれば、買い物や用事で歩くこともある。

でも、とにかく1日に最低1回は歩いていると思う。

多い時は2回くらい外を歩いている。

車を持っていないので、移動は基本的に徒歩か、自転車か、交通機関になる。
だから自然と歩く機会が多くなるんだよね。

札幌では、車が当たり前になっている

僕は札幌に住んでいるけれど、やっぱりこの街は車社会だと思う。

もちろん地下鉄やバスなどの交通機関はあるし、コンビニやスーパーもたくさんある。
でも、「自分の行きたい場所へ自由に行く」となると、やっぱり車のほうが便利だ。

実際、周りの家庭もほとんど車を持っている印象がある。

だから、多くの人は移動のたびに車を使っているんじゃないかと思う。

でも、その生活になると、逆にほとんど歩かなくなってしまう。

それは少し不健康なんじゃないか、と個人的には思っている。

散歩している人を、あまり見かけない

歩いていて、いつも思うことがある。

それは、

「散歩している人って、意外と少ないな」

ということだ。

もちろん、たまには見かける。

でも、散歩している人って、なんとなくわかるんだよね。

例えば、

  • 荷物を持っていない

  • 目的地がある感じではない

  • ただ歩いている

そういう雰囲気の人。

でも、そういう人は本当に少ない気がする。

つまり、純粋に「歩くために歩いている人」って、あまりいないんじゃないかと思う。

ジムよりも、散歩のほうが続く

たぶん、多くの人は運動したい時、スポーツクラブとかジムへ行くんだと思う。

実際、僕も昔スポーツクラブに通ったことがある。

でも、正直あまり続かなかった。

まず、行くこと自体がちょっと大変なんだよね。

準備して、移動して、着替えて、運動して、また帰る。
しかも、ジムって意外とハードな運動をすることが多い。

それがだんだん面倒になってしまった。

もちろん、ジムが合う人もいると思う。
でも、自分にはもっと手軽な方法のほうが合っていた。

“続けられる運動”のほうが大事なのかもしれない

その点、散歩やウォーキングはかなり気軽だ。

特別な準備もいらないし、お金もかからない。
思い立ったら、そのまま外へ出ればいい。

しかも、歩いていると頭の整理もできる。

何かを考えながら歩いたり、街の空気を感じたり、季節の変化を見たり。
ただ運動するだけじゃなくて、気分転換にもなる。

だから僕は、激しい運動をたまにするより、

毎日少しでも歩くことのほうが、意味がある

と思っている。

健康って、結局は「続けられること」が一番大事なのかもしれない。

抽象画について、最近思っていること

 以前、現代アートについて自分がどう思っているのかを書いたことがある。

その時、抽象画についても少し触れていたと思う。

実は僕自身、昔は抽象画っぽい表現を描いていた時期があった。

当時は、そういう表現に少し興味があったし、「現代アートとして面白いかもしれない」と思っていたんだよね。

でも、結果的には描かなくなった。

抽象画に興味がなくなった理由

なぜ描かなくなったのかというと、だんだん、

「これは自己満足になってしまうんじゃないか」

と思うようになったからだ。

もちろん、アートは必ずしも他人に理解される必要はない。
そういう考え方もあると思う。

でも僕は、他人が見ても何も感じ取れないものや、意味が全く伝わらないものに対して、少し疑問を持つようになってしまった。

実際、自分自身が「よくわからない抽象画」を見た時に、不快感を覚えることもあった。

もちろん、すべての抽象画がそうというわけじゃない。
でも、「これは何なんだろう」と思うだけで終わってしまう作品も多かった。

現代アートは、なぜ抽象化していったのか

現代アートには抽象的な作品が多い印象がある。

もちろん、現代アート=抽象画というわけではない。
でも、全体として抽象化の方向へ進んでいったのは確かだと思う。

なぜそうなったのか。

僕自身、そこは正直よくわからない。

時代的な価値観の変化や、多様性の考え方も関係しているのかもしれない。
「正解のない表現」が重視されるようになった結果なのかもしれない。

でも、その流れに対して、自分が本当に共感しているかというと、今は少し違う。

“わからないもの”を、無理に理解したいとは思わなくなった

昔は、「理解できないものにも価値がある」と思っていた。

だから抽象画にも興味を持っていたし、自分でも描いていた。

でも今は、そこまで積極的に見たいとは思わなくなってしまった。

もちろん、自分の感覚に合う抽象画もある。
「これは好きだな」と思えるものも、たまにはある。

ただ、そういう作品はかなり限られている。

結果的に、自分が本当に惹かれる抽象画というのは、ごく一部なんだと思う。

今の自分は、“伝わる表現”のほうに興味がある

今の僕は、どちらかというと、

  • 何を感じてほしいのか

  • 何を表現したいのか

  • なぜその作品を作ったのか

そういうものが、ある程度伝わる作品のほうに興味がある。

完全に説明的である必要はない。
でも、少なくとも「何か共有できる感覚」が欲しい。

抽象画は、その“共有”の部分が極端に少なくなりやすい。

だから今は、以前ほど興味を持てなくなってしまったんだと思う。

それは、抽象画を否定したいわけではなくて、単純に自分の感覚が変わったということなんだろうね。

3DCGを30年続けてきて、今あらためて思うこと

 最近、3DCGについて改めて考えることがあった。

僕はもう30年くらい前から3DCGをやっている。
そもそも始めたきっかけは、単純にゲーム業界に入りたいと思ったからだった。

当時はちょうど、「3D表現」というものが世の中に広がり始めた時代だった。

今では3DCGなんて当たり前の技術だけど、その頃はかなり新鮮だった。
「コンピューターの中で立体を作る」ということ自体が、未来の技術みたいに感じられた時代だったと思う。

当時の3DCGは、今とは全然違った

その頃はいろんな3Dソフトが発売され始めていた。

ただ、僕が使っていたのは比較的安いソフトだった。
プロ向けというよりは、初心者向けとか、小規模な制作向けみたいな立ち位置のものだったと思う。

本格的なCGアニメーションを作る人たちは、もっと高価で高性能なソフトを使っていたはずだ。

だから、当時の僕は「プロを目指すCGクリエイター」というより、ただ興味本位で触っていた一般ユーザーに近かったと思う。

しかも、最初はほとんど理解できなかった。

3D空間という概念そのものが難しかったし、操作も複雑だった。
最初の数年間は、「なんとなく触ってるだけ」みたいな感じだったと思う。

一枚の“いい感じの絵”が、すべての始まりだった

でも、ある時、試行錯誤しながら女の子のイメージを作ってみた。

すると、一枚だけ、なんとなく「いい感じ」の絵ができたんだよね。

技術的には全然大したことなかったと思う。
今見たら、おそらくかなり粗いものだったはずだ。

でも、その時に初めて、

「3Dでこういう絵が作れるんだ」

という面白さを感じた。

そこから一気にハマっていった。

技術よりも、“表現できること”が面白かった

当時の僕は、モデリングが特別うまかったわけでもない。

かなり大雑把だったし、高度なこともできなかった。
それでも、3Dで絵を作れるということ自体が面白かった。

たぶん、あの時代に3DCGに触れていた人たちは、みんな似た感覚を持っていたんじゃないかと思う。

「3Dで表現できる」というだけで、すごく新鮮だった。

だから毎日のように何かを作っていた。
いろんな表現を試して、失敗して、また作る。

技術を極めたいというより、
「こんなことができるんだ」という感覚そのものに夢中になっていた気がする。

そして、気づけば“アート”の方向へ向かっていた

ただ、今振り返ると、不思議に思うことがある。

あの時間には、本当に意味があったんだろうか、と。

もちろん、無駄だったとは思わない。
でも、当時の自分は、今みたいな方向に進むとは想像していなかった。

結果的に、僕は「アート」や「芸術」みたいな方向へ興味が向いていった。

その理由の一つは、使っていたソフトにあった気がする。

僕の使っていたソフトは、アニメーションに強いソフトではなかった。
だから、「動き」で見せるというより、一枚の静止画で何を表現できるかを考えるようになった。

もし最初から高度なアニメーションが簡単に作れる環境だったら、たぶん違う方向に行っていたかもしれない。

でも、静止画中心だったからこそ、

  • 一枚の絵の中で何を表現するか

  • 雰囲気や感情をどう出すか

  • 世界観をどう作るか

みたいなことを考えるようになった。

それが結果的に、芸術とかアートの感覚につながっていったんだと思う。

過去は、今につながっている

当時は、ただ面白いからやっていただけだった。

将来どうなるかなんて考えていなかったし、意味があるかどうかもわからなかった。

でも、今こうして振り返ると、あの頃の試行錯誤が、確実に今の自分につながっている。

たぶん人生って、そういうものなのかもしれない。

その時は意味がわからなくても、
後になって、「あれが今につながっていたんだ」と気づくことがある。

3DCGを始めた頃の僕は、ただゲームを作りたかっただけだった。
でも結果的には、表現そのものを考える方向へ進んでいった。

そして、その感覚は今でもどこかで続いている気がする。

人は本当に変われるのか――昔の自分を振り返って思うこと

何か一つのことについて、とことん突き詰めるというのは、自然なことなんだろうか。

最近、そんなことを考えるようになった。

昔から、自分は一つのことに強くこだわる傾向があった気がする。
でも、それは特別なことではなくて、たぶん誰にでもあるものなんじゃないかとも思う。

例えば、人にはそれぞれ目標がある。
あるいは、「こうなりたい」という思想や理想みたいなものがある。

みんな何かしらを目指して生きているし、それ自体は普通のことだと思う。

ただ、人によって違うのは、「どれだけ深くそれにのめり込むか」なのかもしれない。

僕にとって、それは“自己啓発”だった

20代から30代くらいまで、僕はかなり自己啓発にこだわっていた。

といっても、「成功したい」とか「お金持ちになりたい」というよりは、自分自身を変えたいという感覚に近かった。

もっと自信を持てる人間になりたい。
もっと前向きな人間になりたい。
もっと強い人間になりたい。

そういうことをずっと考えていた気がする。

でも、自己啓発って少し不思議なものだと思う。

例えば資格みたいに、「これを達成した」と目に見える結果があるわけではない。
内面的なものを変えようとする行為だから、変化があったとしても形として見えにくい。

自信がついたとか、考え方が変わったとか、そういう感覚の話になる。

だからこそ、どこまで変われたのか、自分でもよくわからない。

結局、人は根本的には変われないのかもしれない

今振り返ると、僕は「自分を根本から変えたい」と思っていたんだと思う。

そして、そのためにかなり長い時間を使っていた。

仕事も、ある意味ではそういう方向性のものをやっていた。

でも、最終的に感じたのは、

人間は、根本的にはそんなに変わらないのかもしれない

ということだった。

もちろん、技術を身につけたり、仕事を覚えたりすることはできる。
努力によって能力が伸びることもある。

でも、その人の性格や考え方、話し方みたいな「核」の部分は、簡単には変わらない気がする。

頑張れば、行動は変えられる。
モチベーションを上げることもできる。
仕事をバリバリこなす人になることもできるかもしれない。

でも、それは“別人になる”ということではない。

根本にある性質みたいなものは、ずっと残り続ける。

少なくとも、僕自身の経験ではそうだった。

じゃあ、昔の努力には意味がなかったのか

そう考えると、ふと思うことがある。

昔の自分は、一体何をやっていたんだろう、と。

あれだけ時間をかけて、自分を変えようとしていたけれど、本当に意味はあったんだろうか。

もちろん、今さら考えても仕方ない。
過去は変えられない。

でも、ときどきそういう感覚になることはある。

ただ、完全に無意味だったとも思わない。

たぶん、人は「変わる」ことそのものを求めているというより、
「変わろうとする過程」に意味を感じているのかもしれない。

結果として根本は変わらなかったとしても、
その間に悩んだこと、考え続けたこと、行動したことは、確実に今の自分を作っている。

だから、人は変われないのかもしれないけれど、
それでも変わろうとすることには、意味があるのかもしれない。

意識理論の本を読んで思ったこと――僕が考える「生まれ変わり」は宗教とは少し違う

最近、個人的に意識理論に興味があって、いろいろ調べている。

哲学や意識について書かれた本も何冊か買って読んでみた。

でも正直、かなり難しい。

もちろん初心者向けの本もあるにはあるけれど、全体的に見ると、意識についての本は専門的で、普通の人が気軽に読んで理解できるようなものは少ない気がする。
読んでいて、「これは本当に意味があるのか?」と思ってしまうこともある。

ただ、その中で自分が本当に知りたいことは、一般的な意識哲学とは少し違うところにあると気づいた。

僕が考えているのは「死後の世界」というより、「主観は再び現れるのか?」ということ

多くの哲学書や意識の本は、「今、自分が生きていることをどう考えるべきか」というテーマを扱っている。
つまり、「生きている現在」の話が中心なんだよね。

一方で、僕が気になっているのは、その先のことだ。

ただし、これは宗教的な意味での「死後の世界」ではない。

例えば、

  • 魂が肉体を離れて移動する

  • 前世の記憶を持ったまま生まれ変わる

  • 天国や霊界へ行く

みたいな考え方には、あまり興味がない。
むしろ、そういうスピリチュアル的な説明にはかなり懐疑的だ。

それでも、「また誰かとして意識が存在する可能性」はあるのではないか

僕が考えているのは、もっと単純で、でも説明しにくい感覚だ。

人は死んだら、その人としての記憶も人格も終わる。
これは普通に考えれば自然なことだと思う。

でも、その後の未来のどこかで、まったく別の人間が生まれる。
その人には当然、自分の記憶も人格もない。
周囲から見ても、完全に別人だ。

ただ、その人には確かに「自分が生きている」という主観が存在している。

つまり、

「意識そのもの」は、別の存在として再び現れる可能性があるのではないか?

という感覚に近い。

これは一般的な「生まれ変わり」とは少し違う。
魂が引き継がれるわけでもないし、自分という存在が継続するわけでもない。

だから、「転生」という言葉もしっくりこない。

むしろ、

  • “主観”という現象は、生命が存在する限り繰り返し発生する

  • その主観の一つとして、今の自分が存在している

  • そして未来にも、別の誰かの中で主観が発生する

というイメージに近い。

これは哲学なのか、それともただの個人的な思想なのか

こういうことを考えていると、これは哲学なのか、それとも単なる個人的な思考なのかわからなくなる。

科学的に証明できる話ではない。
でも完全に非論理的とも思えない。

意識そのものが、まだ科学的にほとんど解明されていない以上、「主観とは何か」という問いには、まだ答えがない。

だからこそ、こういう考え方も、完全に間違いだとは言い切れない気がする。

少なくとも、自分にとっては、

「死んだら無になる」という説明だけでは、どうしても感覚的に納得しきれない部分がある。

もちろん、それを証明したいわけではない。
ただ、意識について考えていると、自然とこういう疑問にたどり着いてしまう。

そして、それを考えること自体に、ある意味では価値があるのかもしれない。

2026年4月26日日曜日

「エロ」はなぜ排除されるのか

最近、令和に入って特に「性」や「エロ」に対する規制やコンプライアンスが強くなったと感じる。昭和にはもっと身近にあった猥雑さや人間くささが、今は排除されつつあるように見える。

もちろん、人権意識やハラスメントへの配慮が進んだこと自体は大切な変化だ。ただ一方で、「いやらしいことを考えてはいけない」という空気にまでなってしまうと、それは人間の本能まで否定することになりかねない。

そもそも性や欲望は、生き物にとって自然なものだ。恋愛や性愛は、生や繁殖にもつながる根源的なエネルギーでもある。

少子化との関係を単純には語れないが、欲望や親密さが生きづらくなっている社会と、出生率の低下は無関係ではない気もする。

興味深いのは、芸術の世界ではエロティシズムが今も表現として認められていることだ。裸や官能は、美や生命を表すものとして扱われてきた。

問題は「エロの是非」ではなく、それをどう社会が扱うかだと思う。排除するのではなく、人間の本能として成熟した形で向き合うことが必要なのではないか。

「エロ」は低俗なものではなく、生と自由に関わるテーマでもある。だからこそ、ただ消していいものではないと思う。

2026年4月20日月曜日

「若い人が働かない」という話題

最近、「若い人が働かない」という話題をネットで目にすることがある。

これについてはさまざまな意見があると思うけれど、そもそもなぜそういう状況が生まれているのか、少し考えることがある。

やはり大きいのは、社会の仕組みそのものが変わってきているという点ではないだろうか。昭和の時代と令和の今とでは、働く環境も価値観も大きく違っている。

昔は「頑張れば報われる」という感覚が、今よりも強かったように思う。努力すれば給料が上がったり、評価されたり、何かしら成果として返ってくるという実感があった。

しかし今は、どれだけ頑張っても、それがそのまま評価や待遇に結びつくとは限らない。会社によっては、同じような仕事を繰り返すだけで、成長や変化を感じにくい環境もある。

さらに、日本特有とも言える年功序列の仕組みも影響しているように感じる。長く在籍している人ほど上に上がっていく構造では、必ずしも「頑張った人が報われる」とは言い切れない。

そうなると、モチベーションを保つのが難しくなるのも無理はない。

結果として、能力のある人ほど、より評価される環境を求めて会社を離れていく。一方で、現状に適応した人が残るという構図になってしまっている側面もあるのかもしれない。

また、いわゆるブラック企業の問題も無視できない。努力に見合った報酬が得られない環境では、働くこと自体に疑問を持つ人が出てきても不思議ではない。

こうした背景を考えると、「若い人が働かない」というよりも、「働きがいを感じにくい環境が増えている」と言ったほうが近いのかもしれない。

とはいえ、個人的に印象に残っている言葉がある。昔、先輩に言われた「仕事なんて面白いものじゃない」という一言だ。

少し極端ではあるけれど、この考え方には一理あると思っている。最初から「仕事は楽しいものではない」と理解していれば、過度な期待を抱かずに向き合うことができる。

そう考えると、「面白い仕事を探す」というよりも、「どう向き合うか」を考えるほうが現実的なのかもしれない。

もし本当にやりたいことを仕事にしたいのであれば、会社に依存するのではなく、自分で道を切り開く必要がある。独立したり、自分で事業を立ち上げたりするという選択もあるだろう。

会社に入ればやりたいことができる、という時代ではなくなってきている。

そう考えると、働くということ自体の意味も、これからますます変わっていくのかもしれない。

絵がうまい人というのは、

絵がうまい人というのは、やはり「才能」が大きく関係しているのか、それとも「努力」によるものなのか。どちらなんだろう、と。

テレビなどを見ていると、ほとんど絵を習ったことがないような子どもが、いきなり驚くほど上手な絵を描いている場面が紹介されることがある。まだ幼いのに、大人顔負けの表現力を持っている、いわゆる“天才”のような存在だ。

そういうのを見ると、やはり才能というものは確かにあるのかもしれない、と思わされる。

一方で、絵は描けば描くほど上達する、というのも事実だと思う。練習を重ねることで技術が磨かれていくのは、どんな分野でも同じだ。

ただ、それだけで「いい絵」が完成するかというと、どうもそれだけでは足りない気もする。

絵というのは単なる技術の積み重ねではなく、その人の考え方や感性、これまでの経験、表現したいテーマなど、さまざまな要素が重なって生まれるものだと思う。言ってみれば、その人自身がそのまま表れるものなのかもしれない。

だからこそ、ただ練習すれば必ずしも良い作品にたどり着くとは限らないし、逆に、これまであまり絵を描いてこなかった人が、ふとしたきっかけで描いた一枚に独特の魅力が宿ることもあるのではないかと思う。

突発的な発想や、その人ならではの視点が評価されることもあるだろう。

結局のところ、「どうすればいい絵が描けるのか」という問いに、はっきりとした答えはないのかもしれない。

才能、努力、経験、感性――そういったものが複雑に絡み合って、一枚の絵が生まれる。

だからこそ、絵というものは面白いし、簡単には割り切れないものなんだと思う。

人は見た目だけでは、本当のところはわからない


人は見た目だけでは、本当のところはわからないんじゃないか、ということだ。

世の中って、どうしても見た目で判断されがちだと思う。
「あの人はなんとなく怪しい」とか、「感じが良さそう」とか。年齢や性別、服装や雰囲気だけで、無意識のうちに「いい人」「よくない人」と決めつけてしまうことが多い。

でも実際には、それってかなりズレていることもあるんじゃないかと感じる。

たとえば、すごく仕事ができる人がいたとして、その人の見た目が特別良いとは限らない。むしろ、見た目は地味だったり、ぱっとしない印象の人のほうが、コツコツ真面目に仕事をしていたりすることもある。

逆に、見た目が良くて感じも良さそうな人が、必ずしも中身まで優れているとは限らない。もちろんそういう人もいるけれど、見た目と中身が一致しているとは言い切れない。

自分のこれまでの経験からすると、どちらかというと真面目な人ほど、派手さのない落ち着いた格好をしている印象がある。

自分自身について言えば、もう若い頃のような見た目ではないし、いわゆる「かっこいい」という年齢でもない。いわゆる“おじさん”の部類に入ると思う。

だからといって、特別どうこう思うわけではないけれど、せめて清潔感のない格好はしないように気をつけている。安っぽすぎる服は避けるとか、髪型を整えるとか、そのくらいは意識している。

結局、自分で変えられる「見た目」って、その程度のことなのかもしれない。

でも、それ以上に大事なのは、やっぱり中身なんじゃないかと思う。

見た目だけで人を判断することの危うさを、最近あらためて感じている。

2026年4月17日金曜日

iPhoneで絵画を撮影してみた。

先日購入したiPhone17eは、思っていた以上にバランスのいいスマートフォンだと感じている。特にカメラ性能は十分で、普段使いにはまったく不満がない。2倍ズームにも対応していて、日常の撮影はもちろん、絵画の撮影にも活用できるレベルだ。

ただ、実際に撮ってみて改めて感じたのは、撮影そのものの難しさだ。光の当たり方や角度、微妙なブレなど、少しの違いで仕上がりが大きく変わる。やはりプロのカメラマンのように、常に完璧な一枚を撮るのは簡単ではない。

それでも試行錯誤しながら撮影を続けていると、このiPhone17eがしっかり役立ってくれていることに気づき、少し嬉しくなる。

とはいえ、約10万円という価格は決して小さな出費ではない。スマートフォンにこれだけの金額を支払うのは正直なところ悩ましい部分もある。それでも、日々使うものとしての価値を考えると、大きな買い物だったと実感しつつも、納得感はある。


「ひきこもり」とは何なのかを考えてみる

最近、「ひきこもりの人が増えている」という話をよく耳にします。日本には約140万人いるという調査結果もあり、社会的な関心も高いテーマです。 ただ、私は以前から少し疑問に思っていることがあります。 それは、「ひきこもり」とは何を指すのか、ということです。 一般的には、長期間にわたっ...