2026年3月7日土曜日

精神的な生きづらさとアートについて考える

精神障害を抱えている人の中には、アートの分野で特別な才能を発揮する人がいます。テレビなどで紹介されることもあり、そうした例を目にする機会もあります。もちろん、すべての人がそうではありません。しかし、ごく一部の人には、強い表現力や独特の感性を持っている場合があるのだと思います。

これはとても難しいテーマですが、個人的な経験からも少し考えることがあります。

私は精神障害があるわけではありません。ただ、一般の人のようにコミュニケーションが得意ではありません。そのため、会社に勤めていた頃は人間関係にとても苦労しました。

どうにか改善できないかと思い、カウンセリングや催眠療法に通ったこともあります。自分を変えたい、克服したいという気持ちが強かったからです。

しかし、会社という場所では、仕事の能力以上に人間関係が重視されることがあります。人間関係がうまく築けない人は、仕事ができたとしても評価されにくい。場合によっては「扱いづらい人」「使えない人」と見られてしまうこともあると感じました。

以前、ある女性の話を聞いたことがあります。その人は仕事が非常にできる人だったのですが、先輩との人間関係がうまくいかず、結果的に会社を辞めてしまったそうです。

その話を聞いたとき、改めて思いました。社会は、仕事の能力だけで成り立っているわけではないのだと。

私自身も、会社にいた頃はそれを痛感していました。真面目に仕事をしても評価されないこともあり、世の中は理不尽な部分もあるのだと感じていました。

ただコミュニケーションが得意ではないというだけで、「使えない人」のように扱われることもありました。そうした経験が積み重なり、会社に勤めること自体に抵抗を感じるようになっていきました。

振り返ると、こうした傾向は学生の頃からあまり変わっていません。努力すれば完全に直るという種類のものではないのかもしれない。だからこそ、「話すことが得意ではない自分」を受け入れるしかないのだと思うようになりました。

幸いなことに、フリーで仕事ができるようになってからは気持ちがとても楽になりました。ただ、会社員時代の記憶は、どうしても良い思い出ばかりではありません。時々思い出すこともあります。

そんな中で、絵を描くという行為を続けていると、一つ気づくことがあります。

もしかすると、自分のようなタイプの人間は、こういう表現の世界に向いているのかもしれないということです。

少し変わっている人、一般的なコミュニケーションが得意ではない人ほど、絵のような表現活動に向いている場合もあるのかもしれません。

考えてみると、自分は無意識のうちに絵を描く方向へ向かってきたのかもしれない。そう思うと、これまでの経験や選択にも、どこか納得できる部分があります。

人にはそれぞれ向いている場所があります。

もし社会の中で生きづらさを感じることがあったとしても、それは「価値がない」ということではなく、単に自分の力を発揮できる場所が違うだけなのかもしれません。

そして私にとって、その一つが「絵を描くこと」なのだと思います。

少し絵画寄りの雰囲気

  

作風を少し変えてみました。
これまでのポップなイラスト風から、少し絵画寄りの雰囲気にしています。

別にイラスト風が嫌いになったわけではありません。ただ、自分が描いているものは、いわゆるイラストレーターが描くイラストとは少し違う気がしていました。

アートとして考えるなら、やはりどこか絵画の空気感があった方がしっくりくる。
理屈では分かっていたのですが、自分の中でなかなか決めきれなかったんです。

でも、実際に描いてみると不思議なもので、「ああ、これだな」とはっきり感じました。

頭の中で考えているだけでは意味がない。
どこか違和感はあったのに、それをどう直せばいいのか分からず、しばらく迷走していた気がします。

それでも、今回で一歩前進できたような感覚があります。

とはいえ、このような絵が受け入れられるのかどうかは、正直よく分かりません。
絵の見方は人それぞれですし、自分の好みがそのまま他の人に伝わるとは限りません。

そもそも絵画というのは、ある意味で一部の人にしか分からない世界でもあると思っています。
それを大衆にすべて理解してもらおうとするのは、無理があるのかもしれません。

結局のところ、本当の意味で楽しめるのは、絵が好きな人やマニアックな人たちなのかもしれない。

もし自分がギャラリーの立場でこの絵を見たらどう思うだろうか、と考えることもあります。

少なくとも、自分の好みの絵であることは間違いない。
そして、客観的に見ても「うまく描けているな」とは思います。

ただ、それが単なる自己満足になっていないか。
そこは常に気にしています。

だからこそ、できるだけ客観的に見るように、いつも自分に問いかけながら描いています。

2026年3月5日木曜日

デジタルアートの葛藤──伝統と革新の狭間で



最近、私が深く考え続けているテーマがある。デジタルアートは、果たして「アート」なのだろうか。現代アートとして、どう位置づけられるべきなのだろうか。

これは、思いのほか深い問いだ。

手描きとデジタル、その決定的な違い

手描きのアートとデジタルアートには、本質的な違いがある。

デジタルの場合、作品は印刷という工程を経て初めて「絵」としての形を持つ。つまり、ジークレー版画というジャンルに分類される。限定枚数を設けて一点物として販売することも可能だが、手描きの一点物が持つ存在感とは、どこか異なるものがある。

「それがどうした」と思われるかもしれない。しかし、この違いは重要だ。

デジタルアートとイラストレーションの境界

これまでのデジタルアートの多くは、デジタルならではの特徴を活かした作品だった。鮮やかな色彩のイラストレーションは、その典型例だろう。

だが、それらの多くはイラストのジャンルに近く、「アート」として位置づけるには曖昧なものが多い。イラストレーターはあくまでイラストを描く人であり、アートを創作しているわけではない。画家でもない。商業的な役割を担う職業として、イラストを描いているのだ。

デジタルイラストを描く人は多い。しかし、それはアートを描くこととは違う。

稀有な立ち位置──デジタルアート画家

だからこそ、「デジタルアート画家」という私の立ち位置は、それほど多くない。

制作過程でデジタルを利用する画家は存在する。しかし最終的には、筆で絵を描くことが画家の条件だと考えられているように思う。最後までデジタルで描くことを選んだ私のような人間は少ない。そもそも、画家としての職業が成り立たない可能性が高いからだ。

私の挑戦──古来の日本画をデジタルで

私がやろうとしているのは、古来の日本画をデジタルアートで表現する試みだ。

このような取り組みをしている人は、本当に稀な存在だと思っている。挑戦的ではある。しかし、実際に表現できているのか、可能なのか──毎日が試行錯誤の連続だ。

それでも、私は「出来る」と信じて描いている。だから、確実にそれに近づいている。そう確信している。

2026年3月4日水曜日

いつか誰かが訪れたとき、「すごいね」と感じてもらえる場所

 最近、ブログやサイトの更新が楽しくて仕方がありません。 このブログは「セカンドコレクション」の開始をきっかけに立ち上げたものですが、書けば書くほど、自分の中に新しい発見があります。

よく「ブログは作り始めが一番楽しい」と言われますが、果たしてこの先飽きがくるのでしょうか?今の私には、そんな気配は全くありません。

1. 「書くこと」は心のデトックスであり、情報の整理術

振り返ってみれば、過去にもいくつかのブログを書いてきました。 当時は自分の現状に対する「吐き出し」のような内容も多かった気がします。

「情報整理」と言えば聞こえはいいですが、実際は自分の中に溜まった熱量や、時にはモヤモヤした感情を外に出すための「捌け口」だったのかもしれません。

書いた内容を頻繁に見返すわけではありません。しかし、「書く」という行為そのものが、自分の中の混沌とした思考を整理し、形にしていくプロセスになっています。集中して作業した後は、不思議と心が整う感覚があるのです。

2. SNSもブログも、本質は「言いたいこと」の集積

SNSを眺めていると、一見「意味のない投稿」で溢れているように見えます。 でも、それはそれでいいのだと思います。誰もが論文を書きたいわけではありません。

人はただ、自分のなかに湧き出た「言いたいこと」を形にしたい。 このブログも、もしかしたら端から見ればそう見えるかもしれません。しかし、その「意味のなさそうな一歩」の積み重ねが、自分自身のアーカイブになっていくのだと感じています。

3. 公式サイトは「自分の顔」として育っていく

ブログと並行して、公式サイトの更新も続けています。 日々デザインを微調整し、テキストを磨き上げることで、サイトがみるみる良くなっていく。この「充実していく過程」を見るのは、何物にも代えがたい喜びです。

「単なる自己満足では?」と自問自答することもありますが、それでいいのだと思います。 公式サイトは、その人の「顔」そのもの。 その人が何を考え、何に情熱を注いでいるのか。すべてが伝わる場所であることに、無意味なことなど一つもありません。

いつか誰かが訪れたとき、「すごいね」と感じてもらえる場所。 そして何より、自分自身が納得できる場所。

集客という目的も大切ですが、まずはこの「作る楽しさ」を原動力に、自分自身の表現を深めていきたい。そう強く思っています。

2026年3月3日火曜日

その1時間は「自分」のため?情報過多の時代に、私たちが失っているもの

 

SNSを開けば、頼んでもいない情報が次から次へと流れてくる。 気づけば1時間、2時間と過ぎていて、ふと我に返ったときに「自分は何をしていたんだろう?」という虚無感に襲われる。

そんな経験、あなたにはありませんか?

最近、私は強く感じます。 「このネットの中に溢れる膨大な情報を追いかけることに、一体どれほどの価値があるのだろうか?」と。

■ 「なんとなく見る」は、命(時間)の切り売り

統計によると、若者のスマホ利用時間は1日平均5時間。多い人では10時間を超えるそうです。 1日の半分近くを、小さな画面の中の「誰かの日常」や「断片的な知識」に費やしていることになります。

ネットで生計を立てているプロならまだしも、一般の私たちが目的もなくSNSを眺めて得られるものは、実はほとんどありません。

  • ちょっとした雑学が増える

  • ほんの一瞬、暇がつぶせる

  • 希薄な人間関係が維持できる

得られるメリットはせいぜいこの程度。一方で、失っているものは「自分のための貴重な時間」そのものです。

■ 本や新聞、ネット。その差は「目的」にある

もちろん、情報を得ることすべてが無駄だとは思いません。 本や新聞、そしてネットの情報も、使い道次第で大きな武器になります。

その境界線は、「目的があるかどうか」です。

  • 目的がある情報収集: 自分の目標を達成するために必要な知識を取りに行く「投資」

  • 目的のない情報収集: ダラダラとテレビを見続けるのと同じ「浪費」

娯楽として楽しむ時間を否定はしません。しかし、無意識に流れてくる情報を浴び続けるのは、自分自身の人生を他人に委ねているのと同じではないでしょうか。

■ 自分にとって、本当に大事なことは何か?

ネットの世界に価値がないわけではありません。 しかし、その情報はあなたの人生を豊かにする「目的」に紐づいていますか?

「知識を広げたい」「スキルを磨きたい」という明確な意図があるなら、ネットは最高のツールになります。しかし、そうでなければ、それは単なるノイズです。

スマホを置き、顔を上げた先に、もっと大切にすべき「自分の時間」や「やるべきこと」が隠れているはずです。

情報の波に飲み込まれる前に。 一度立ち止まって、自分に問いかけてみてください。

「今、この瞬間のために、自分の大切な時間を使う価値はあるか?」

2026年2月28日土曜日

現代アートの逆襲。画家・岡靖知が示す「写実」の真価と、忘れていた日本の美。

 

岡靖知 作
岡靖知 作

現代アートとは一体何なのか。 その答えを求めていく中で、僕が今、もっとも興味を惹かれている画家がいます。岡靖知(おか やすとも)氏です。

彼の描く作品は、時には1,000万円を超える価格で落札され、通常でも数百万円という高い評価を受け続けています。これほどまでに市場を動かす日本の画家は、決して多くはありません。

写実的アートの再来——「逃げ」ない表現

カメラが登場して以来、アートの正解は「写実」から「印象派」「抽象画」へと移り変わってきました。 現代の評論家の中には、「今さら写実的に描くことに何の意味があるのか」と懐疑的な目を向ける人もいるかもしれません。

しかし、現実はその逆です。 多くの現代アートが抽象的な表現や概念的な多様性に逃げているようにも見える中で、あえて「写実」という原点に立ち返る表現が、今まさに求められているのではないでしょうか。

それは一種の差別化であり、私たちが心のどこかで求めていた「美の基準」への回帰なのかもしれません。

単なる「そっくり」を超えた、圧倒的なセンス

もちろん、岡靖知氏が評価されている理由は、単に「写真のように見えるから」という技術的な理由だけではありません。

彼の絵を支えているのは、極めて高いセンスの良さです。 描かれる女性たちはどれも息をのむほど美しく、それでいてどこか懐かしい「日本の女性」の魅力を湛えています。

  • 忘れかけていた、たおやかな美しさ

  • 存在感を引き立てる卓越した構成力

  • 観る者を吸い寄せる、極限まで高められた価値

それらが合わさることで、彼の絵は単なる「写実」の枠を超え、一つの完成された世界観を作り上げています。

「美しい女性」を描き切るという覚悟

「美しい女性を描くこと」に徹底的にこだわり、その魅力を極限まで引き出す。 このシンプルで力強い意志こそが、彼の作品に圧倒的な説得力を与えているのだと感じます。

理屈や流行に左右されない、本物の「美」。 岡靖知氏の作品を眺めていると、写実的アートの時代が再び幕を開けたことを確信せずにはいられません。

なぜ「女子高生」を描くのは難しいのか?――背景を超えて、その存在感を追い求める。

 

 

絵を描く中で、今もっとも高い壁として立ちはだかっているのが「女子高生」というモチーフです。

女性のさまざまな姿を描くことに挑戦していますが、女子高生を描こうとすると、どうしても「ありきたり」な枠に収まってしまいそうになる。その難しさに日々頭を悩ませています。

今回は、そんな試行錯誤の中で「自分なりに手応えを感じた」2枚を載せてみます。

「ありきたり」の向こう側にあるもの

女子高生という記号的な可愛さは、世の中に溢れています。 だからこそ、ただ制服を着せるだけでは、僕が表現したい「何か」に届かない。

「こう描けばOK」という単純な理屈やルールなんて存在しません。 特別な一人を描き出そうとすればするほど、表現の正解が見えなくなっていく。そのもどかしさこそが、創作の苦しみであり、楽しさでもあるのだと感じています。

背景は「おまけ」でいい。

僕の絵において、背景はあくまでもおまけ程度。 もちろん、世界観を構築するために背景が必要なのは分かっています。でも、僕が本当に描きたいのは、そこに立つ女性そのものです。

極論を言えば、彼女たちの可愛さ、そして圧倒的な「存在感」。 それさえ描ければ、あとは何もいらない。それくらい潔い気持ちでキャンバスに向かっています。

空想の中に宿る「真実の存在感」

僕が描いているのは、現実の誰かではなく、空想の中の女性です。 けれど、ふと目が離せなくなるような、絵の中に引き込まれる感覚。それはきっと、描き手が彼女たちの「存在感」をどれだけ信じられるかにかかっている気がします。

「存在感とは何だろう?」

その答えはまだ言葉にはできません。 でも、その輪郭を掴むために、僕は今日も「特別な一人」を描き続けたいと思います。

2026年2月27日金曜日

予測不能な「遊び」が教えてくれたこと。昔の作品を振り返って。

 

久しぶりに、昔描いた自分の作品を眺めていました。 そこにあったのは、今の自分でも「何を考えていたんだろう?」と首をかしげてしまうような、純粋な試行錯誤の跡でした。

3DCGで描く「水遊び」という実験

特に印象的だったのが、3Dソフトを使って描いた抽象画『水遊び』と、ユーチューバー風のキャラクターイラストです。

当時の自分は、あえて3Dを2D風に表現する手法を試していました。 3Dレンダリングというのは面白いもので、計算が終わるまで、最終的にどんな絵が飛び出してくるか完全には予測できないところがあります。

  • 狙い通りにいかない面白さ

  • 偶然生まれた形や色を楽しむ余裕

  • ダメなら修正し、また回す。その繰り返し。

一般的な絵画は「意図」を形にするものかもしれませんが、僕にとっては「偶然」との対話が、何よりの制作の醍醐味だったのだと思います。

「自己満足」という壁にぶつかって

けれど、今の僕は抽象画を描くのをやめてしまいました。 理由はシンプルで、「自分だけで満足してしまい、誰にも伝わらない」ことに限界を感じたからです。

自分では「いい絵ができた!」と手応えを感じても、それが他人の心に届かなければ、ただの自己満足の世界で終わってしまう。 「これには一体、どんな意味があるんだろう?」 そんな風に、描く意義を見失いそうになった時期もありました。

過去の「点」が、今の「線」になる

でも今振り返ると、その迷いや実験の日々が無駄だったとは思いません。

意味があるかないか、誰かに伝わるかどうか。 それを必死に考えて、手を動かし、予測不能な結果にワクワクしていたあの経験があったからこそ、今の自分の表現があるのだと確信しています。

どんなに支離滅裂な妄想に見えても、当時はそれが僕の全力でした。 その積み重ねの上に今の自分が立っていると思うと、過去の作品たちが少しだけ愛おしく感じられるのです。

2026年2月26日木曜日

あの頃、僕は3Dグラフィックに夢中だった。

 



あの頃、僕は3Dグラフィックに夢中だった。
テーマは――「いかにして綺麗にレンダリングするか?」。

当時は、今のように高機能な環境が整っていたわけではない。
特にこだわっていたのがレイトレーシング。光の反射や屈折を計算してリアルな描写を生み出す技術だ。今ではゲームでも当たり前に使われ、さらにラジオシティによって、反射光まで計算された自然な“ぼんやりと明るい空間”を表現することができる。

けれど、僕が使っていたソフトには、その表現がなかった。

部屋全体がやわらかく明るくなる、あの自然な光。
直接光だけでなく、壁や床に当たって跳ね返った光まで計算された空気感。
それをどうにか再現したくて、何年も試行錯誤を重ねた。

そしてあるとき、ついに思い描いていたレンダリングができた。

その一枚の画像は、他人から見れば何の変哲もない3D作品かもしれない。
けれど僕にとっては、何年もの研究の結晶だった。
初めて「反射した部分まで明るくなる空間」を表現できた瞬間の喜びは、今でも忘れられない。

でも、ふと思うことがある。

今の3Dソフトを使えば、あの表現は誰にでも簡単にできてしまう。
ボタン一つで、自然なグローバルイルミネーションが手に入る。

そう考えると、あの何年もの研究は無駄だったのだろうか?

もしかすると、効率という意味ではそうかもしれない。
もっと別のことに時間を使えた可能性もある。

けれど――

あの時間があったからこそ、僕は「ひとつのことを徹底的に追いかける」姿勢を身につけた。
試行錯誤を繰り返し、うまくいかない原因を考え、改善し続ける。
そのプロセスそのものが、今の自分のアートの土台になっている気がする。

アートは、完成した一枚だけで語れるものではない。
そこに至るまでの研究や迷い、失敗の積み重ねが方向性を決めていく。

僕にとって、その過程がたまたま3Dだっただけなのかもしれない。

あの頃つくった数えきれないほどの3D作品。
それらがすべて無駄だったとは思わない。
確実に何かの糧になり、今につながっている。

遠回りだったのかもしれない。
でも、その遠回りがあったからこそ、今の表現がある。

そう思うと、あの何年もかけたレンダリング研究にも、ちゃんと意味があったのだと感じている。

2026年2月24日火曜日

現代アートについて、正直に思うこと

昔、現代アートに興味を持ちはじめた頃の私は、正直に言ってほとんど理解できていませんでした。

当時は現代アートをわかりやすく説明してくれる書籍も少なく、作品の意図や背景を知る機会も限られていたように思います。それでも、確実に現代アートが広がっていく空気は感じていました。だからこそ、「理解したい」という気持ちはとても強かったのです。

では、今はどうか。

最近になって、もう一度きちんと向き合ってみようという気持ちが少し芽生えてきました。けれど同時に、どうしても拭えない“もやっとした感覚”があるのも事実です。

自分が好きなものだけを受け入れる

いろいろ考えた末に、今の私が出した結論はとてもシンプルです。

「自分が好きだと思える作品だけを受け入れればいい」

ただ、それは数としては圧倒的に少ない。
多くの現代アートは、どこかネガティブな方向性に感じられてしまうのです。

もちろん、それ自体が悪いわけではありません。社会への問いや問題提起は、現代アートの重要な役割のひとつでしょう。ただ、もう少し素直で、ポジティブなエネルギーを感じられる作品があってもいいのではないか――そんな思いもあります。

他人が「素直に良い」と感じる作品

こうした経験から、私は自分なりのアート観を考えるようになりました。

いわゆる、他人が見て「素直に良い」と感じられるもの。それでいいのではないか、と。

自分勝手で、ある意味で理解が難しい作品は、もう作りたくない。そう強く思うようになったのです。

実は、私は昔、抽象画を制作していた時期があります。その頃ふと感じたのは、「自分だけが納得できても意味がないのではないか?」という疑問でした。

自分の理解や思いを伝えるために描いているはずなのに、それが他者に届かないのであれば、本当にそれでいいのだろうか。そんな迷いがありました。

これは理屈というより、ただ素直にそう思っただけです。

時間を経て、今思うこと

それからかなりの時間が経ちました。そして今、当時感じた違和感は、間違っていなかったのではないかと思えるようになっています。

私にとって現代アートは、どこか難しく、時には嫌な感覚さえ覚えるものです。これが、今の私の率直で客観的なイメージです。

正直に言えば、こうした考えを書くことには躊躇もあります。けれど、自分の中にある本音を無視するわけにもいきません。

現代アートを全面的に否定したいわけではない。ただ、自分はどうありたいのか――そこを大切にしたい。

理解されなくてもいい作品ではなく、誰かが見て「いいな」と素直に感じてくれる作品をつくりたい。

それが、今の私の正直な気持ちです。

イラストレーター兼YouTuberの「さいとうなおき」さんについて

 


イラストレーター兼YouTuberの「さいとうなおき」さんについて、最近あらためて考える機会がありました。きっかけは、彼の著書を読んだことです。以前から存在は知っていましたが、本を通して触れることで、これまでとは少し違った視点が生まれました。

ネット上では圧倒的に有名なイラストレーターであり、一時は登録者数120万人を超えるYouTuberとしても活動していました。ところが、ある手違いにより突然チャンネルが削除(いわゆるBAN)されるという出来事が起こります。

その詳細な経緯ははっきりとは分かりませんが、その後チャンネルを再始動し、現在も活動を続けているようです。

彼がここまで注目を集めた理由の一つに、かつてコナミデジタルエンタテインメントに勤務していた経歴があるのではないかと感じます。会社員として働きながらYouTubeを始めたことも、大きな転機だったのかもしれません。

イラストレーターがYouTubeで発信を行うスタイルは、今でこそ珍しくありませんが、当時はまだ先駆的な存在だったという印象があります。

実力があることはもちろんですが、「受ける絵を描く」と本人が語っている点も興味深いところです。自分の描きたいものだけでなく、求められるものを意識して描く。そのバランス感覚こそ、プロとしての才能なのではないでしょうか。あまりに個性が強すぎると、画家のような立ち位置になってしまう可能性もあります。イラストレーターという職業は、表現力と同時にニーズへの適応力も求められる世界です。

学歴や経歴が注目されるのも、やはりそれだけ信頼や説得力につながるからでしょう。しかし最終的には、「うまい絵を描けること」、そしてそれを継続して発信できること。その積み重ねが、今の知名度につながっているのだと思います。

時代の流れを読みながら、自身のスキルを発信へと結びつけた存在。そんな印象を、あらためて強く感じました。

2026年2月23日月曜日

アートと葛藤の中で思うこと

 


私は毎日アートを描いている。

ただ正直に言えば、それが本当に「正しい」のかどうかは、今でもよくわからない。

方向性は間違っていないのか。
これは本当に自分の描くべきものなのか。

そんな問いを抱えながら、試行錯誤の日々を過ごしている。

それでも、前に進まなければならない。
描くことをやめるという選択肢はなく、結局は「描くしかない」のだ。

私は、自分が描いているものはアートだと確信している。
しかし同時に、それは本当にアートなのか、それともイラストなのか、という疑問が常につきまとう。

この「アート」と「イラスト」の線引きは、とても曖昧で厄介だ。
内容も意味も、その境界線によって大きく変わってしまう。

ひとつだけはっきりしているのは、
決してイラストを描いているつもりはない、ということだ。

ただ、アートに近づけば近づくほど、
絵はわかりにくくなり、意味不明に見えてしまうこともある。

わかりやすさだけで言えば、イラストの方が圧倒的だ。
理解しやすく、伝わりやすい。

けれど、イラストとアートはまったく別物だと、私は思っている。

だからこそ、その狭間で葛藤しなければ作品は完成しない。
アートに寄りすぎれば意味不明になり、
イラストに寄ればアートではなくなる。

この矛盾した状況の中で制作し続けるのは、正直かなり厳しい。

いっそどちらかに決めてしまった方が、どれほど楽だろうかとも思う。
しかし現実は、
アートでありながら、イラストのようなわかりやすさも求められる

その度に私は自問する。
「これは本当にイラストではないのか?」と。

そして、自分の作品をできる限り客観的に見ようとする。
その繰り返しが、毎日の作業になっている。

そんな日々の中で、
頭の中で何かがおかしくなる瞬間がある。

考えすぎて、狂いそうになる感覚。
もしかすると、芸術に向き合う人間なら誰もが通る道なのかもしれない。

考えれば考えるほど、頭が壊れそうになる。
それでも、その限界を超えなければ、先には進めない。

2026年2月20日金曜日

IT企業で働き始めた頃の話

 


昔、IT企業でWEBデザインの仕事をしていました。

今振り返ると、「よくあの状態で採用されたな」と思います。
正直に言えば、当時の僕には大した実力はありませんでした。WEB制作のスキルもほぼ無し。HTMLを手打ちできる、という最低限の能力があるだけ。

じゃあなぜ採用されたのか。

理由はシンプルで、「面白い作品を作っていたから」でした。

3Dばかりやっていた頃

当時の僕は、ひたすら3Dで絵を描いていました。それしかやっていなかったと言ってもいいくらいです。

SFメカっぽいもの、工業デザイン風のもの、キャラクターの版権物など、ジャンルは問わず、とにかく思いついたものを試行錯誤しながら作っては自分のサイトに載せていました。

あの頃、個人でそこまでいろいろなジャンルを量産して公開している人は、今より少なかったかもしれません。
だから「なんか面白そうなやつだな」という理由で、ほぼ即決のような形で採用されたのだと思います。

僕はめちゃくちゃ口下手だし、技術的にも未熟でした。それでもチャンスをくれたことには、今でも感謝しかありません。

WEBデザインとの出会い

そんな状態で始まったWEBデザインの仕事。

ところが、やってみるとこれが本当に面白かった。

レイアウト、動き、見せ方、情報の整理。
画面の中に世界を作る感覚があって、気づけばどんどんのめり込んでいきました。

もともとはゲーム会社に入りたいと思っていたのですが、「WEBが面白い」という感覚に出会ってから、進みたい方向が少しずつ変わっていきました。

今思えば、それはそれで正しい選択だったのだと思います。

FLASH時代の熱量

当時は、今ではもう見かけなくなった「FLASH」という技術がありました。

WEBだけでなく、CD-ROMに収録されるようなインタラクティブコンテンツも制作していました。いわゆる解説アニメーションのようなものを、かなり力業で作っていく感じです。

何時間分にも及ぶ膨大なアニメーション。
多くの人と協力しながら、ひたすら作り続けました。

最終的には、みんな顎が出るほど疲れ切っていた気がします。

今思えば、めちゃくちゃな会社だったな、とも思います。でも、それも含めて強烈な体験でした。

2026年2月19日木曜日

現代アートはなぜ理解されにくいのか?

 


「現代アートってよくわからない」そう感じている人は少なくないと思います。

正直に言えば、僕自身もよくわからない作品に出会ったときはスルーすることがあります。
無理に理解する必要はないし、無理に受け入れる必要もない。

自分が好きなものを受け入れればいい。
それで十分だと思っています。

アートとイラストの違いは何か?

これは本当にやっかいな問題です。

僕の描く作品は、おそらく「半分イラスト、半分アート」。
「これはアートなの?」と疑われる可能性もあるでしょう。それも承知しています。

でも、僕はアートを描いているつもりでいます。

特に現代アートでは、「アーティストがアートだと主張すること」自体が作品の一部になることもあります。
たとえば、ポップアート のように、イラスト的な要素を持ちながらも、明確にアートとして位置づけられている表現もあります。

見た目がポップでわかりやすいからといって、アートではないわけではない。

イラストの魅力、アートの深さ

イラストには、楽しさやわかりやすさがあります。
それはとても大きな魅力です。

一方で、芸術(アート)には、見た目以上の何かがあります。
すぐには理解できない奥行きや、時間をかけてにじみ出てくる意味。

僕はその両方の間にいるのかもしれません。

僕が描きたいもの

僕が描こうとしているのは、女性の「見た目」ではなく「内面」です。

ただ美しいから描く、ということはありません。
それだけでは、きっと自分が先に飽きてしまう。

飽きない絵であること。
それはとても大切です。

女性の心を感じ取ろうとすることは、流行や刺激とは違う。
簡単に消費されるものではないと信じています。

2026年2月18日水曜日

このブログを書こうと思った理由はひとつ。

 



このブログを書こうと思った理由はひとつ。
セカンドコレクションを、本格的に始動する決意をしたからです。

ファーストコレクションから、気づけば4年という時間が経ちました。
その間、僕は別の創作活動に向き合っていて、絵と真剣に向き合う時間を十分に持つことができませんでした。

でも今、ふと思ったんです。
「あのとき描ききれなかった続きを、今なら描けるんじゃないか」と。

技術的にも、そしてアートに向き合う姿勢も、あの頃より確実に深まっている実感があります。
前回できなかった表現は、きっと今なら形にできる。そう強く確信しています。

絵というものは、常に前進し、深まっていくものだと思っています。
だからこそ、それを実行するのは“今”しかない。

そして今回は、絵を描くだけでなく、こうしてブログにも言葉として残していきたい。
言語化することで、自分自身の理解もさらに深まっていくはずだから。
同時に、読んでくださる皆さんにも何かを届けられたら嬉しいです。

今回のセカンドコレクションは、僕にとってひとつの集大成になる作品です。

これ以上でも、これ以下でもない。
今の自分が持つすべての力を注いで描いていきます。

だからこそ、きっといい作品が生まれると信じています。

これまで胸の奥に沈めてきた想いを、
ひとつひとつ、かたちにしていきます。

どうか、これからの制作を見守っていてください。

2026年2月17日火曜日

NFTアートって結局なに?

NFTアートの価値と存在意義について、僕なりの視点でまとめてみたいと思います。
「NFTアートって結局なに?」と少しでも興味を持っている人の参考になれば嬉しいです。

そもそもNFTとは何か?

NFTとは「Non-Fungible Token(非代替性トークン)」の略で、ブロックチェーン技術を使って“唯一無二であること”を証明できるデジタルデータのことです。

簡単に言えば、本物であることを証明するデジタル証明書のようなもの。

NFTアートの場合、売買されているのは「画像そのもの」ではなく、そのデジタルアートの所有権です。
データ自体はコピーできますが、「本物の所有者」はブロックチェーン上で明確に記録され、偽造もできません。

だからこそ、「世界に一点しかない」という希少性が生まれ、価値が付くわけです。


本当に一点物なのか?

とはいえ、すべてのNFTアートが完全な一点物とは限りません。

版画のように、同じデザインを複数枚発行しているNFTもあります。その場合、違いはシリアルナンバーのみ。
さらに、デジタルパーツをランダムに組み合わせて大量生成するタイプのコレクションもあります。

代表例のひとつが
Pudgy Penguins

このコレクションは総数8,888点。
1点あたり約100万円で取引されることもあり、総額は驚くほどの金額になります。

「それって本当に価値があるの?」
そう思う人も多いはずです。

しかし、価値というのは「欲しい人がどれだけいるか」で決まります。
これは仮想通貨や株式市場とよく似た原理です。

実際、NFTアートは投機目的で購入されるケースも多くあります。
ですが、それは従来の美術品市場も同じ。アートは昔から資産や投資の対象でもありました。

NFTアートの魅力とは?

人気のあるNFTアートには、どこか愛らしさや独特の世界観があります。
単なるデータではなく、きちんと“作品”として作り込まれているものが多い。

NFTだからといって、価値のないアートを売っているわけではありません。
表現としての本質は、一般的なアートと大きく変わらない部分もあるのではないでしょうか。

売買の手軽さという革命

NFTアートの大きな特徴は「流動性」です。

従来のアート売買は、

  • ギャラリーやオークションを通す

  • 鑑定が必要

  • 保管や劣化の問題がある

といったハードルがありました。

しかしNFTは、ボタンひとつで出品可能。
物理的な劣化もありません。

とはいえ、手に入るのは“データの所有権”。
そこに価値を感じるかどうかがすべてです。



開封型NFTという楽しみ方

中には、購入時点ではアートが隠されているタイプもあります。

たとえば
MINIMINDS

一定の期間や条件を満たすと作品が公開される仕組みで、
まるで宝くじやトレーディングカードのパックを開封するような感覚です。

どんな絵が出るかによって価値も変わる。
その「ワクワク感」もNFTアートの醍醐味のひとつです。

NFTアートは価値があるのか?

結局のところ、NFTアートの価値は

  • 希少性

  • コミュニティの熱量

  • ブランド力

  • 市場の需給バランス

これらによって決まります。

「ただのデータ」と見るか、
「唯一無二の所有証明」と見るか。

評価は人それぞれですが、
NFTアートは“デジタル時代の新しい所有の形”であることは間違いありません。

これからどう進化していくのか。
その過程を見ること自体も、NFTアートの面白さなのかもしれません。

2026年2月16日月曜日

「話すこと」が苦手だった僕が、3DCGで自分の言葉を見つけるまで

今の自分を形作っているものは、きっと子供の頃のささいな記憶に繋がっている。 ふとそんなことを思い出し、これまでの道のりを振り返ってみたくなりました。

「普通」になじめなかった小学校時代

僕は札幌の小学校に通っていました。当時、勉強はこれといって好きではなく、誇れるような得意科目もありませんでした。

ただ一つ、小学校高学年になった頃から「美術」だけは、なぜか他の人より上手く描けたのです。成績も美術だけはいつも良かった。 特別な理由は分かりません。ただ、絵を描いている時だけは、他のことにはない不思議な集中力があったのかもしれません。

当時の僕は、人と話すことがとても苦手な子供でした。 何を話せばいいのか分からない。言葉がうまく出てこない。 クラスの中でも、ほとんど誰とも話さないような、少し変わった子供だったと思います。

ウォーホルとの出会いと、空白の高校時代

進路を決める時、美術系の高校を検討したこともありました。体験入学にも行きましたが、結局は普通の高校に進学しました。今思えば「もったいなかったかな」という気持ちもありますが、当時は自分が何をしたいのか、自分でもよく分かっていなかったのです。

そんな僕が、初めて「美術」というものに心を動かされたのは、アンディ・ウォーホルの作品を見た時でした。 「あの缶の絵、いいな」 ウォーホルが誰かも知らないまま、理屈抜きにそう感じました。でも、その時はまだ「世の中には良い絵があるんだな」と思う程度で、深く学ぼうとまでは思いませんでした。

30代で出会った「3DCG」という輝き

人生の転機が訪れたのは、30代になってからです。 当時、3DCGはまさに黎明期。多くの人が新しい表現に熱狂し、3Dという技術がキラキラと輝いて見えた時代でした。

僕も夢中で3Dの絵を描き、自分のWebサイトに次々とアップしていきました。 

描いた絵が切っ掛けで、制作会社でWebデザインの仕事をすることになりました。「Photoshopが少し使える」というだけで飛び込んだ世界でしたが、やってみるとWebデザインは意外なほど面白く、自分に合っていることに気づきました。

自分の「作りたい物」が作れる喜び

それからは仕事の傍ら、3Dグラフィックで様々な作品を作り続けました。 自分の中にある「作りたい物」が形になっていく感覚。それは、言葉で人とコミュニケーションをとるのが苦手だった僕が、ようやく見つけた「自分だけの表現言語」だったのかもしれません。

これからも、自分にしか作れない世界を形にしていきたい。 これまでの道のりを振り返り、改めてそう強く感じています。

2026年2月15日日曜日

現代アートは「わからなくていい」。僕がたどり着いた、もっと自由な鑑賞術

 



「現代アートって、結局なんなんだろう?」

昔の僕は、美術館で意味不明な作品を前にして、ずっとモヤモヤしていました。 「何か深い意味があるはずだ」「理解できない自分は知識が足りないのではないか」……。そうやって難しく考えすぎていた時期が長くあった気がします。

でも、今はこう思っています。「わからない部分は、そのままでいい」のだと。

好き嫌いだけで、アートは語っていい

現代アートの世界には、無理に正解を探す必要なんてありません。 わかる部分だけを解釈し、個人的に嫌いならスルーしていい。好きなものだけを受け入れれば、それで十分なんです。

実を言うと、僕は今でも多くのアートを好きになれません。 現代アートのテーマには、どこか暗く、人間のドロドロした部分をえぐり出したような作品が少なくないからです。正直、ネガティブな感情を揺さぶられる作品を見るのは、あまり心地よいものではありません。

「ポジティブ」という価値

僕はもっと、人間の可能性や嬉しさ、楽しさを表現した「明るいアート」が増えればいいなと思っています。

そう考えると、村上隆さんや奈良美智さんのようなアーティストは、やはり素晴らしいと感じます。 昔の自分なら「キャッチーすぎる」と敬遠していたかもしれませんが、今は違います。彼らの作品に宿るポジティブなエネルギーが、いかに貴重で評価されるべきものかが、感覚的に理解できるようになりました。

結局、現代アートは「自分の感覚」というフィルターを通して見るしかないんですよね。 自分が好きなものは好き、そうでないものはそうでない。無理に自分を曲げてまで受け入れる必要はないんです。

アートを「手に入れる」という豊かさ

もし、自分に大きなお金と心の余裕があるのなら。 いつか、これだと思うアートをいくつか買って飾ってみたい。そんな風に考えることがあります。

アートを所有することで、自分の心はもっと豊かになれるのかもしれない。 「いつかそんな人間になれるように頑張ろう」 そんな風に思わせてくれるのも、アートが持つひとつの力なのかもしれません。

難解な理屈は抜きにして、これからも自分の「好き」に素直に、アートを楽しんでいきたいです。

2026年2月7日土曜日

アートが何なのか、はっきりと言葉にできず、迷いの中にいる

 


正直なところ、まだよくわかっていない。
自分が描いているアートが何なのか、はっきりと言葉にできず、迷いの中にいる。

その迷いが、少しずつ苦しさとして表に出てきた。
もしかすると、その感情が絵に滲み出てしまっているのかもしれない。

僕が手描きではなくAIで描いていることも、この迷いと無関係ではない。
なぜなら、AIは同じプロンプトを使えば、誰でも似たような絵を生み出せてしまうからだ。
だから、AIの創作物には価値がないと感じる人も多いだろう。

それでも僕は、一定以上のレベルのものを創り出すには、やはり高い技術と感覚が必要だと思っている。
それは絵であっても、AIであっても同じではないだろうか。
そう感じているのは、自分だけなのだろうか。

多くの人にとっては「ただのAIイラスト」で終わってしまう。
そこに、自分の考えとの大きなギャップがある。

今描いている美少女の絵は、いくつもの偶然が重なった結果だ。
そして、ようやくAIの技術が、自分の表現したいものに追いついてきた。
だからこそ、今の形として成立している感覚がある。

とはいえ、僕自身がAIに詳しいわけではない。
本当にAIを使いこなしている人たちは、もっと高い次元で表現しているはずだ。
正直、そこまで到達しているとは思っていない。

それでも、自分なりに表現したいものは確かにある。
多くの人は「イラスト」を描いているけれど、それは必ずしも「アート」ではない気がしている。
ただイラストを描くだけでは意味がなく、そこにはアートとしての価値観が必要だ。

その境界線を越えるために、今も模索し、努力を続けている。

2026年2月5日木曜日

アートとイラストの違いについて

 

アートとイラストの違いについて、ずっと考えてきたことがあります。多くの人が「アート」という言葉をなんとなく使っている気がします。イラストを描いている人自身も、意外とその本質を深く理解していないケースが多いのではないでしょうか。もちろん、それでいいのかもしれません。別に誰もがアートの専門家である必要はないですから。
ただ、アートをある程度意識して見続けてきた自分としては、どうしても「イラストにはアートのような深い価値がない」と感じてしまう瞬間があります。有名な作家が描いたから価値が出る、という側面もあるでしょう。ポップアートなんかは、見た目だけならイラストとほとんど変わらない作風なのに、アートとして扱われていますよね。境界がすごく曖昧に見える。
でも、一番核心的な部分は、作者自身が「これはイラストではなくアートだ」と意識して作っているかどうかだと思っています。
「イラストとして描く」という意識で制作した場合、ほとんどの場合それはイラストの枠を出ない気がするんです。対して、「アートとして描く」という強い意志を持って制作したとき、初めて作品に独特の雰囲気や、深い価値が生まれてくるのではないでしょうか。
イラストは、表面的な美しさや楽しさ、わかりやすさ、かわいさ、かっこよさといった要素が主軸になりやすい。依頼主や視聴者を喜ばせること、伝えるべき情報を視覚的に届けることが目的の中心にあるから当然といえば当然です。
一方、アートは表面的に「きれい」「楽しい」かどうかは二の次でいい。むしろ、そうではない表現であっても、そこに何かを感じさせる力何かを伝えようとする強い意思があるからこそ、価値が生まれるのだと思います。
結局のところ、「何かを伝えたい」「感じてほしい」という内側からの強い衝動や意図があるかどうかが、アートとイラストを分ける一番大きなラインなのかもしれません。
もちろん、これはあくまで僕個人の感覚です。現代では境界がどんどん溶けていて、「どっちでもいい」「両方ありえる」という意見もすごく多い。でも、自分が絵を描くときや見るときに、この違いを意識すると、何か制作に対する姿勢が変わってくるような気がしています。

精神的な生きづらさとアートについて考える

精神障害を抱えている人の中には、アートの分野で特別な才能を発揮する人がいます。テレビなどで紹介されることもあり、そうした例を目にする機会もあります。もちろん、すべての人がそうではありません。しかし、ごく一部の人には、強い表現力や独特の感性を持っている場合があるのだと思います。 こ...