2026年2月26日木曜日

あの頃、僕は3Dグラフィックに夢中だった。

 



あの頃、僕は3Dグラフィックに夢中だった。
テーマは――「いかにして綺麗にレンダリングするか?」。

当時は、今のように高機能な環境が整っていたわけではない。
特にこだわっていたのがレイトレーシング。光の反射や屈折を計算してリアルな描写を生み出す技術だ。今ではゲームでも当たり前に使われ、さらにラジオシティによって、反射光まで計算された自然な“ぼんやりと明るい空間”を表現することができる。

けれど、僕が使っていたソフトには、その表現がなかった。

部屋全体がやわらかく明るくなる、あの自然な光。
直接光だけでなく、壁や床に当たって跳ね返った光まで計算された空気感。
それをどうにか再現したくて、何年も試行錯誤を重ねた。

そしてあるとき、ついに思い描いていたレンダリングができた。

その一枚の画像は、他人から見れば何の変哲もない3D作品かもしれない。
けれど僕にとっては、何年もの研究の結晶だった。
初めて「反射した部分まで明るくなる空間」を表現できた瞬間の喜びは、今でも忘れられない。

でも、ふと思うことがある。

今の3Dソフトを使えば、あの表現は誰にでも簡単にできてしまう。
ボタン一つで、自然なグローバルイルミネーションが手に入る。

そう考えると、あの何年もの研究は無駄だったのだろうか?

もしかすると、効率という意味ではそうかもしれない。
もっと別のことに時間を使えた可能性もある。

けれど――

あの時間があったからこそ、僕は「ひとつのことを徹底的に追いかける」姿勢を身につけた。
試行錯誤を繰り返し、うまくいかない原因を考え、改善し続ける。
そのプロセスそのものが、今の自分のアートの土台になっている気がする。

アートは、完成した一枚だけで語れるものではない。
そこに至るまでの研究や迷い、失敗の積み重ねが方向性を決めていく。

僕にとって、その過程がたまたま3Dだっただけなのかもしれない。

あの頃つくった数えきれないほどの3D作品。
それらがすべて無駄だったとは思わない。
確実に何かの糧になり、今につながっている。

遠回りだったのかもしれない。
でも、その遠回りがあったからこそ、今の表現がある。

そう思うと、あの何年もかけたレンダリング研究にも、ちゃんと意味があったのだと感じている。

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